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大久保貞利

カネミ油症事件とは何か(その2)

□カネミ油症事件との出会い
 カネミ油症事件の出会いは、ダイオシン問題がきっかけでした。ごみを燃やすとダイオキシンが出るので、脱焼却・脱埋立のごみゼロ資源循環型社会をめざす運動をしていました。
 ある時、厚生省と環境庁(当時)を渡りあるいているある官僚が全国各地で「ダイオキシンと人は騒ぐが、ダイオキシンで人が死んだためしがない」と講演している事実を知りました。正直ショックでした。たしかにごみ焼却場の周りで死者が出たという情報はありませんでしたが、健康被害はたくさん出ていました。
 そんな時、あるジャ−ナリストから「カネミ油症事件というのは、ダイオキシン入りの食用油を食べた事件で、何人も被害者は死んでいる」というのを聞きました。それがカネミ油症事件を知ったきっかけです。
 1999年には市民団体「止めよう!ダイオキシン汚染・関東ネットワ−ク」で、カネミ油症患者と共に、ダイオキシン国際会議でカネミ油症事件を訴えようと決まったからです。

□ダイオキシン国際会議に参加して
 ダイオキシン国際会議は1980年に発足し、毎年1回、世界各地で世界の科学者や政府関係者を集めて開く国際会議です。
 1999年の第19回ダイオキシン国際会議はイタリアのベネチアで開かれました。国際会議は約1週間開かれます。公用語は英語ということで、英語のチラシを持ち、下手な英語でどうやったらカネミ油症事件を説明できるかしらと思いつつ、ベネチアに患者夫妻を連れて行きました。
 ベネチア国際会議には1千人が参加しました。国際会議は各分科会に分かれますが、開会前日の前夜祭には参加者全員が一同に会します。そこで参加者にどれだけ訴えられるかが勝負です。カネミ油症被害の大きなパネル写真を持って、カネミ油症を英語で訴えようとしたその時、異変が起こりました。なんと参加者は全員カネミ油症を知っていたのです。

□「YUSHO」は世界語
 日本ではカネミ油症事件は、水俣病や広島と長崎の原爆症ほど知られていません。しかし、ダイオキシン国際会議では、イタリアのセベソ事件(1976年に農薬工場が爆発して高濃度のダイオキシンが空から降ってきた事件)と日本のカネミ油症事件と台湾の油症事件(日本のカネミ油症事件から約10年遅れて、台湾でも油症事件が起こった)の3つが専門家、研究者の間では有名な出来事だったのです。「SEVESO」(セベソ)と「YUSHO」(油症)と「YUCHEN」(ユ−チェン=台湾油症をそう発音する)は、「MINAMATA」「HIROSHIMA」と同じく日本語のまま通じる世界語だったのです。

□犯罪的な日本の研究者発表
 被害者が国際会議に直接参加したのは、後にも先にもこれが唯一です。私たちは、イタリアのセベソに行き、そこで被害者の代表の人と直接会いましたし、グリ−ピ−スの計らいで現地で記者会見を行い、反響を呼びました。
 しかし、驚いたのは、セベソとカネミ油症と台湾油症の分科会で、カネミ油症について発表した、日本の研究者の発表内容です。厚生省(当時)が認知する全国油症治療研究班に属する研究者ですが、「カネミ油症事件は当初(1968年)は被害が激甚だったが、31年経った(1999年当時)現在では症状が軽減している」と発表しているのです。全国油症治療研究班は九州大学医学部が中心ですが、彼らは当初の皮膚科が中心で、しかもその研究者が継続して観察している、九州電力社宅の被害者の状況を、あたかも被害者全体の病像であるかのように報告しているのです。
 本当に重症の患者は、九大付属病院のような大きな病院まで来ることができず、自宅で苦しんでいます。年1回の検診も2〜3分しか診ないお座成りな検診であることと、医師が皮膚症状中心にしか診ないため、内臓疾患や生殖器疾患や精神疾患などの重篤な被害者は、あんな検診受けてもしょうがないと忌避しているのです。

□原田正純医師中心に自主検診を開始
 とにかく、被害者の実態を知ろうということになり、水俣病で有名な、原田正純医師にお願いし、2000年に初めて長崎県五島列島の福江島と奈留島に、自主検診とヒアリング調査に行きました。
 原田正純医師は熊本学園大学教授ですが、精神神経科が専門で、世界で初めて胎児性水俣病を発見された医師です。それまでは、胎児は胎盤に守られ、母親の体内の毒は胎児にはいかないと思われていました。しかし、有機水銀のような重金属はへその緒を通過し、母親は子どもを生む度に子どもに毒素を移し、母親は毒が軽減するという事実を発見した人です。
 原田正純医師は人脈が広く、その呼び掛けで、医師や看護師たちが私たちの自主検診に参加してくれました。自主検診やヒアリング調査は、これまでに10回近く行なわれてきました。疫学が専門の津田敏秀岡山大学医学部教授とは、この自主検診活動で知合いました。

□初めは警戒していた被害者がやがて
 カネミ米ぬか油は高級な植物油として知られていました。皇后陛下も愛用しているとか、健康にも美容にもいいというのがカネミ油の売りでした。
 五島列島(福江島、奈留島、久賀島、若松島、中通島)は漁業が主の島で、有名な五島椿の産地で、油は椿油を使っていたので、本来はカネミ油とは無縁でした。
 ところが、事件が起こった1968年は、たまたま椿油が不作な年で、そこに、高級なカネミ油を格安で販売すると、カネミ油が島に持ち込まれました。あとでわかったことですが、再脱臭した劣悪なカネミ油が持ち込まれたので安かったのだと言われています。
 何も知らない島民は、カネミ油で魚を天ぷらにして食べました。ダイオキシンの毒入り油で元気がなくなると、もっと精をつけようとさらに天ぷらを食べたり、美容に良いと、そのままカネミ油を飲んだ人もいました。
 五島列島は隠れキリシタンの里です。島のあちこちに教会が立ち、異国情緒のただよう美しい島です。黒い赤ちゃんが多く生まれたのも、堕胎を避けるキリスト教の影響があったと言われています。
 かくして、カネミ認定患者の約2割が五島市に集中したのです。
 初めて自主検診やヒアリング調査に入った時は、多くの被害者は私たちを警戒しました。何の血縁も地縁もないよそ者が、事件から30年以上も経ってから、なんで来るんだというのが警戒の理由です。今では笑い話ですが、カネミ油症被害者五島市の会会長がこう言いました。「やって来た人たちは、今はやりのオレオレ詐欺の仲間だと思った」。
 こんなこともありました。ある被害者の家に原田正純医師たちと訪問しました。その家の奥さんは複数の黒い赤ちゃんを生んだ人です。ぜひ原田先生に診てもらいたいというので訪問したのですが、家に入ったとたんに主人が出てきて、「お前ら、今ごろ何しにきた。来るなら仮払い金を払う前に来い」とどなり、殴りかからんばかりの勢いでした。私たちは急いで家を出ましたが、その家の奥さんが出てきて言うことには、「お父さんを許してください。カネミを食べる前は人一倍元気な人でした。健康な人を見ると悔しいんです」。
 その後、私たちが何回も島に足を運ぶことで、私たちの本気さ真剣さが伝わりはじめ、やがて、被害者とネミ油症被害者支援支援センタ−のきずなが生まれるようになっていきました。

(次号に続く)


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