<会員投稿>
電磁波過敏症;患者の数がまだそう多くはない今、この病気がどのようにして発症するのか、どんな症状を呈し、どのような経過を辿るのかを詳しくご存知の方は少ないでしょう。それとも、今この会報をお読みの方の中には、不幸にして既に発症してしまい、日々過敏症と闘っておいでの方も、いらっしゃるでしょうか。
私は2002年9月に電磁波過敏症を発症、一時は大変な重症でしたが、数々の療法を試みた結果、今は非常に改善されて、日常生活がほぼ普通に営めるまでになっています。
以下にご紹介する私の体験が、電磁波過敏症(以下略してES)にご関心をお持ちの方、あるいはES脱出を試みていらっしゃる方のご参考になれば幸いです。
1、発症
ESは単独では発症せず、化学物質過敏症(以下略してCS)の下地があって初めて発症する、と言われているようですが、私の場合はその典型でした。2002年4月、シックビルディング症候群(北里研究所病院診断名)を発症後、約半年にしてESを併発したのです。
徴候は、徐々にやってきます。パソコンを使った後、手が重くなって帯電する気がする。ビデオ操作すると、しばらく腕が重い、変だな、電気かな、まさか、といった辺りから発症開始です。重くなる部位が、始めは手首から先だけだったのが、肘から先、肩から先・・・と、段々全身に来て、最初に異変を自覚してから約二ヶ月後、職場にエアコンが入った日を境に劇的に重症化しました。約二週間の間に、パソコン・ドライヤ−・電話・fax・コピ−・自動改札と飛び火するようにして、次々と、ありとあらゆる電気製品に一寸触れただけ、あるいは近付いただけで「電気ショック」を受けるようになり、瞬時にして全身のエネルギ−が奪い取られ、脱力してその場にへたりこむ、という症状が繰り返されるようになったのです。CSも重症化しており、就業は不可能となりました。
2、低周波電磁波による症状
本格的な発症後は、ホラ−映画の主人公そのものです。昨日まで人畜無害だった電気製品、無害どころか役に立ち、必要不可欠と思っていた電気製品が、一夜にして凶器へと変貌し、自分の身を守るために相手に危害を加えようとするある種の野生動物のように、激しいショックを与えてくるのですから。友達からのメ−ルやデジカメで撮った写真が一杯入ったパソコン、大事な人達からの着信はお気に入りのメロディですぐにわかった電話、それまで自分の心の一部を担ってくれているようにさえ感じていたもろもろの電気製品がある日、ある瞬間を境に、敵意ある生き物に変身してしまうのです。
ES患者の体に何が起こるのか;MRIを用いた最近の研究で、患者の体に微量の電磁波を浴びさせると脳の血流量が正常な状態に比べて40%にまで減少することが判ったとの事ですが、その報告は、私自身の感覚を裏付けてくれる内容となっています。私の場合、まず足首のすぐ上の辺りで血流がパッと滞り、それから0.2秒とか瞬時の差で脳の血流も滞る、と感じました。主観的には「脳が止まった」という感覚です。完全麻痺です。喋れない。考えられない。動けない。覚醒したまま脳が眠ってしまい、何も命令しないし、何の情報伝達もしてくれなくなる。血が巡らないので全身の酸素が不足して、虚脱。
3、恐怖の高周波体験
1)PHSアンテナ
低周波(電気製品・送電線等)による反応はしかし、恐怖体験のほんの序の口に過ぎません。真の恐怖は、高周波(携帯電話・PHS等)に反応し始めた時に訪れる。高周波には、ヒトの脳内で行なわれている電気信号のやりとりを撹乱し、神経組織にダメ−ジを与え、脳というOSを破壊する力を持っていると私は信じています。これは思いこみによってではなく、自らの体験からそう考えるようになったのです。
低周波に反応するようになって半年後、それまで住んでいたのが街中だったので、空気の良い郊外に転居しました。この転居が失敗でした。無数の条件を考慮して家探しをしたのでしたが、PHSの基地だけは余りにも数が多く避けるのは無理と判断、「家の真っ正面でなければ良い」と、基準を甘くしたのです。新居の西側60mの位置にPHSのアンテナがあったのですが「まあまあ離れているから平気だろう」と高を括ったのです。当時はまだ低周波にしか反応が出ておらず、高周波の怖さを想像すらしていませんでした。
転居した当日、アンテナから一番近い部屋の窓から首を出すと、頭の周囲に「もわっ」と強い磁力が集まるのを感じました。少し不安になりましたが、「まあ、大丈夫だろう」。郊外の澄んだ空気でCSの症状は和らぎ、引越の成功を喜ぶこと一週間。新居で本を読もうとしたところ、頭の中がカリカリして、全く読めないのです。鉄筆の先が脳の中を引っ掻くような感じです。「変だな」と思い、外に出るとカリカリはパッとおさまる。駅前の喫茶店に行けば問題なく本が読める。なのに家に帰るとまた「カリカリ」。実験(?)してみると、アンテナから近い部屋で症状がひどく、アンテナから遠くなり、隔てる壁の数が多くなればなるだけ、「カリカリ」は軽くなります。犯人はPHSアンテナだと確信しました。
2)竹竿売りのスピ−カ−
転居後二週間。自宅にいると、全身が帯電するのを感じるようになりました。電気製品不使用、ガウスメ−タ−は0ミリガウスを指しているのに、です。そんな折も折、物干し売りの販売カ−が自宅周辺に回ってきてそのスピ−カ−に、凄まじい反応が出たのです。
「さぁ〜おやぁ〜、さぁ〜おだけ〜〜」と遠くから段々音が近付いて、「何だかいやだな、うるさいな」と思うや否や、スピ−カ−の発する振動が脳の中にワッと入り込んで、頭蓋骨の内壁にぶつかってはまた反対側の内壁へ向かうのを繰り返し、頭蓋骨を共鳴箱にして延々と反響し続ける。空気中の振動を捕らえるのは本来鼓膜の役目であるはずなのに、脳細胞のひとつひとつが共鳴し、振動が止まらない。
3)「神経が削られる!」
スピ−カ−で反応を起こしてから、PHSアンテナへの反応は益々激しくなっていきました。アンテナから一番遠い台所にいても頭の中がカリカリし、体中帯電していまうので、まず部屋と部屋を仕切る襖やドアを一切閉め切るようになり、次いで窓ガラスが常に閉め切りとなり、遂いには雨戸も一日中閉め切りとなりました。雨戸はスチ−ル製で、閉めると大幅に楽になることから「金属には電磁波を反射し、中に入るのを防ぐ効果がある」と推論、雨戸の外側にアルミ箔を貼ってみると予想通り、相当楽になります。しかし、アルミを貼る作業が過酷でした。作業中は、アンテナの照射する電磁波と、貼っているアルミ箔が返して来る電磁波の両方を同時に浴びることになるからです。歯科医が歯を削る機械をもっともっと細くした先端で脳の神経が焼かれ、細胞と細胞同士を結んでいる軸索があちこちでプチッと音たてて切れるのが聞こえる本当に「聞こえる」のです。「あ,あ、私はもう駄目になるかもしれない」という予感を明確に覚えました。
4)地獄の日々
雨戸に初めてアルミ箔を貼った日以降、私は新居にいられたのは、たった二十日間でした。地獄と言っても言い過ぎではない二十日間、生涯にあんなに恐ろしい日々を過ごしたことはない。高周波への過敏さは日に日に増し、私の体、特に脳は、極めて精度の高いセンサ−へと化していきました。電磁波が、脳を通過するのが絶えず知覚されるのです。
外を歩いていると、電磁波の強い場所と弱い場所とがバウムク−ヘンの層のように交互に現われ、そこを自分が横切るという感覚でした。霧の立ちこめた高原を歩いたことがおありでしょうか?歩くに従って、霧の濃い部分と薄い部分とが入れ替わり立ち替わり現われてきます。丁度あんな風−四方から照射される電磁波の層が複雑に絡み合って描く網の目に足をとられるようにしてしか、私は歩くことができませんでした。大きな、巨きな網どこまで行っても、それを逃れることはできないのです。脳が、脳の神経細胞のひとつひとつが、常に震わされ、振動させられ、片時も休むことができない。振動のない場所に行きたいのに、そういう空間がどこにもない。
自宅にいる時の症状も、益々悪化していきました。計測不可能な程細い、しかし決して切断されることのない、鋼よりも強靭な針金が脳の中に無数に入り込んで糸みみずのように絡まって激しく蠢き、それに触れた部分の神経細胞がどんどん削られて細くなっていくような感覚。絶えずぴしぴしと皮膚を打つ、目には見えない微小な鞭。そしてまた襲ってくる物干し竿のスピ−カ−、発作。
スピ−カ−のような反応での三度目の発作(発作としか言いようのない激しいものでした)は、私の脳に決定的なダメ−ジを与えたようでした。発作の最中は、破壊されそうな頭を両手で抱え、悲鳴を発しながら蹲っているばかり。販売カ−が通り過ぎて何時間経っても、歩くことができませんでした。大好きだった料理も全くできなくなり、食べることにも興味がなくなりました。
アンテナ撤去をPHS会社に訴え、話し合いの機会を持ち、受取確認つきの郵便書留を何度も出したりもしましたが無効でした。住んでいたのがアパ−トだったために足元を見られたのでしょう。
5)都会脱出
虚ろな眼、表情の全くない顔、鏡に映る自分の姿が、異様でした。正気の人の顔では、ないのでした。もう、ここにはいられない。どこか電波のない場所に行かなければ、私は私ではないただの「生き物」になってしまう。その日が目前に迫っている。危機でした。家の外では、雨戸のアルミ箔が風にめくれて絶えずパリパリと音をたたている。「白装束」が世間を賑わしていた頃のことで、近所の人達はさぞかし薄気味悪く思っていたことでしょう。
この家にいるのには今日が最後だ、今夜はとにかくどこかに逃げよう、そうしなければ私の脳は壊れる、私はもう私ではなくなる。そう決心した日が丁度、北里大学病院の再診予約の日でした。診察が終わったら家に帰らずどこかに行こう、でもどこへ?追い詰められていた私は待合室で一緒に待っていた初対面の患者さん相手に行き場のないことを嘆きました。すると偶然にもその患者さんは福島で温泉施設を経営している方の息子さんで、そこは「圏外」で、PHSも勿論入らない、という話なのです。
受診後、ボロボロの脳を抱えて上野駅に辿り着き、勤務先にいる夫に電話しました。
「もう、あの家には帰らない。これから水戸に行く」水戸行「ス−パ−ひたち」が発車したのはそれから3分後でした。文字どおり「着のみ着のまま」で下着も着替えも何も持たないまま、まだ見ぬ土地へと向かったのです。私のESには閉口していた夫でしたが、この日から全面的に理解と協力を示してくれるようになり、それなしにはその後の回復はあり得ませんでした。
「水戸!? どうして」
「水郡線の北の方に、圏外の温泉宿があるんだって。でも今日は電車ないから、水戸に泊まる」
「わかった、じゃ俺も水戸に行く。ホテル決まったら教えて」