日本軍の「慰安婦」にされた台湾の阿媽(あまー)たち
台湾で日本軍の「従軍慰安婦」の存在が明るみに出たのは、1992年である。
「慰安婦」50名をボルネオに送るので、渡航を許可してほしいという、台湾軍司令部から陸軍省に宛てた電報などが、防衛庁の図書館で発見されたのであった。
台湾のマスコミは、この問題を大きく報道した。台北で少女売春など、女性の人権問題に取り組んでいた「婦女救援基金会(以下 婦援会)」が、ホットラインを開設し、「慰安婦」にされた女性たちに連絡を呼びかけた。
婦援会の呼びかけに、最初に応じたのは高宝珠[カオ・バオジュ]阿媽だった。
当時、ビルの四階にあった婦援会の事務所に、一人で息を切らせてやってきた
という。
高宝珠阿媽は、1938年、17歳のときに役所の人が家に来て、「広東へ行っ
て、日本軍のために奉仕活動をするように」と言われた。
日本の植民地だった台湾に生まれ、日本の皇民化政策の下で育った高さんは、日
本軍のために役立つ仕事をすることが栄誉だと思った。歌がうまく、京劇の師匠
にもついていた高さんは、歌うことで兵隊さんを慰問することもできると思った。
広東に着き、軍のトラックで連れて行かれたところは金山寺の「慰安所」で、一日
に何十人もの兵隊の相手をさせられた。思いもかけないなりゆきに、必死で抵抗し
たが、「お国のためだ、我慢しろ」と言われ、従うしかなかった。その後、広東か
ら船でビルマへ移動する途中、近くの船が爆撃を受け沈没し、そのとき爆音で片方
の耳が聞こえなくなった。
ビルマではタツ部隊に従軍し、3年間「慰安所」で過ごし、日本の敗戦を迎えた。
高さんは日本軍に棄てられた。親切な日本兵が、ベトナムまで連れて行ってくれ
て、ベトナムで働いて船賃をつくり、台湾に帰った。
台湾に帰っても、「慰安婦」だったことが恥ずかしく、外へ出られなかった。生き
る望みもなく、睡眠薬を飲んで自殺をはかった。指の爪が黒く変色して、道端に倒
れていたところを助けられた。
その後は、他人から家の中でできる仕事をたのまれて、細々と生きてきた。
戦場で兵士の性欲処理をさせるために、台湾から連れて行かれた女性は、台湾での調査によれば1200名から2000名にのぼる。しかし、ホットラインを通じて婦援会に連絡してきたのは、台湾人41人、中国人2人、先住民族14人の57人のみであった。戦場から帰れなかった人、帰れても、痛めつけられた身体を50年間保てなかった人がほとんどであった。また元「慰安婦」と判明した人の中でも、家族などに知られるのを恐れて申し出を撤回する人もいた。その後、婦援会とともに「慰安婦」問題を世に訴える活動の担い手となった阿媽は、42名である。
日本の「従軍慰安婦」問題が国際的に注目されるなかで、日本政府は「財団法人 女性のためのアジア平和国民基金(以下、アジア女性基金)」を設立、民間による謝罪と賠償によって解決しようとした。これに対し、台湾社会は、日本政府が自らの責任を逃避するものだと反発。阿媽たちも、自分たちを苛めたのは一般の日本人ではない、アジア女性基金の償い金は受け取れないと語った。
アジア女性基金の200万円の償い金を拒否した阿媽たちには、台湾の民間から、それに相当する額のカンパが贈られ、その後、台湾の政府からも同じ額が支払われた。
しかし、台湾社会でいかに支援の手がさしのべられようと、阿媽たちの心の傷は癒えることはなかった。ひたすら自らの「過去」を人に知られることを恐れていた。阿媽たちの記者会見は黒いカーテンの後ろでおこなわれ、記者の目には、カーテンの下から覗く足しか映らない。阿媽たちは、顔も、名前も、出そうとはしなかった。
1999年7月14日、支援の人たちに励まされ、背中を押されて、9人の阿媽が原告となり日本政府に謝罪と賠償を求めて東京地方裁判所に提訴した。
提訴のために来日した阿媽たちは、自分たちの「過去」について、「恥ずかしい、恥ずかしい」を連発した。「恥ずかしいのは阿媽たちではなくて、阿媽たちをそんな目にあわせた日本なのだ」と、いくら説得しても、最後には「それでも恥ずかしいことですよ」と言う。
そんな阿媽たちが裁判の過程で変わっていった。いままで「恥」と思い、人には話したくもないことを、法廷で陳述したりするなかで、気持ちの整理ができたのかもしれない。また、国際会議で同席した同じ経験をした韓国のハルモニから、顔を隠し、名前を隠す態度を批判され、考えさせられたこともあった。いろいろなことを経験するなかで、日本政府に謝罪と賠償をさせることこそが、自らの名誉の回復なのだ、恥じずにすむ自分に戻れるのだと確信するようになっていった。阿媽たちにとって、裁判は人間の尊厳を回復する手段となった。
提訴時、9人の原告のなかに本名を出したがらない阿媽が5人いた。訴状では「原告A、B、C、D、E」となった。5人のうち4人は先住民族で、1人は台湾人である。
先住民族の社会では、女が夫以外の男と性的関係をもてば、殺されるという掟があった。裁判の進行中に原告D、Eが亡くなった。原告A、Bは、法廷で裁判官の前で宣言した――「これからは、自分の名前を名乗ります。」 阿媽たちは、名前を出さなければ、裁判官に信じてもらえないと思ったのだった。阿媽が裁判に主体的に向かいあった瞬間だった。
だが、法廷で涙ながらに辛い過去を証言した阿媽たちに、2002年10月15日、東京地方裁判所は、原告敗訴の残酷な判決を下した。あんな酷いことをした被告「日本国」が裁判に勝つなんて、阿媽たちには、とても信じられなかった。「日本国」とは、そんな不条理な国なのか。
原告敗訴の理由として、裁判官は次のようなことをあげた。
個人で国に賠償を求めることはできない。
大日本帝国憲法では、国の権力的作用による私人の損害について、国は賠償責任を追わないとの国家 無答責の法理が妥当していたものと解するほかない。
不法行為による損害賠償権は、不法行為の時から20年を経過したときに消滅する。
理不尽で残酷な裁判の結末に、これが私たちの国の姿なのかと、怒りを通り越して、悲しみが襲う。
だが、阿媽たちの裁判に係わることで、わかったことがあった。国は奇妙な心ない法理論を展開し、裁判官も、それを支持したが、阿媽のことを知った一般の人たちは、阿媽たちが日本政府に謝罪と賠償を求めるのは当然だと思い、それに応じない自分たちの国を恥ずかしいと思うことだった。
それなら、一人でも多くの人に、この問題を伝えよう。そして伝える方法の一つとして考えられたのが「写真展」だった。阿媽たちの写真を撮り続けてきた日本と台湾の3人のカメラマンの協力で、写真パネルは去年のうちに用意できたが、なかなか適当な会場が借りられないでいた。そのあいだに、三重や茅ヶ崎などのグループが私たちの写真パネルを使って、「写真展」を開いてくれた。
今年の4月20から23日までの4日間、念願かなって、東京都中野区の「中野ゼロ」の展示ギャラリーが借りられた。
私たち「台湾の元『慰安婦』裁判を支える会」が、はじめて主催して開いた写真展「阿媽たちのまなざし」であった。写真展の期間中、さまざまな出会いに恵まれ、写真パネルの貸し出しについても、多数の方々に訊ねられた。この写真展が、日本各地で開かれる夢さえ見せてもらったのだった。夢に終わらせずに、実現に努めたいと思う。
今回の写真展は、現在の阿媽たちの写真を集めたものだが、今後は、阿媽たちが戦場へ連行された時の歴史的背景とか、台湾の状況などのパネルも用意したいと思った。
展示会の会場で、特に人々に注目された写真は、台湾でおこなわれている阿媽たちの「心理治療」のワークショップの写真であった。ワークショップは、婦援会のスタッフと理解ある専門家たちで、すでに10年も前からつづけられていた。
日本軍の性暴力によって心身に深い傷を負い、誤った羞恥心から周囲の人間関係を絶って、孤独に暮らしている阿媽たち。他人が無意識に口にする言葉で、今でも傷つけられている。
そんな阿媽たちの傷をどうすれば治せるのか。どうやって阿媽の心のなかへ入れるか。どうしたら阿媽たちの心のなかへ入れるか。
アメリカに留学し、福祉を学び、修士の学位をもつ李開敏[リ・カイミン]さんは、1996年、婦援会からの招請で、阿媽たちの「心理治療」に係わることになった。
当時、婦援会のスタッフとの間で何度も討論を繰り返して得た共通の観点について、こう語っている。「阿媽たちは人生に深い傷を負っている。しかし、彼女たちは自分たちの方法で、長い歳月を生きぬいてきた。いかなる『治療』の試みも、彼女たちの病状を悪化させる恐れがあり、プロの傲慢さは彼女たちに対して不敬に当たる。」
阿媽たちは、それぞれつきあいがなく孤独だった。
共通の経験を一人ではなく、仲間と共有することで、連帯感が生まれるのではないか、とスタッフは考えた。一泊二日の合宿が用意された。最初の参加者は6名だけ。
集まった阿媽たちの健康も気づかって、ヨガやマッサージで身体をほぐし、温めた。そして阿媽たちは語り合った――苦しかったあの時のことを。
台湾から海を隔てた戦場で、ホームシックになり、親への思いを募らせたこと。
母と祖母の死を見とれなかったこと。
酒に酔った兵隊に乱暴され、何度も刀を振り上げ、追いかけられたこと。
台湾に帰って、汚い体になったと家族から排斥されたこと。
自分の一生がゴミのように思えて、夫にも、家族にも言えず、苦しみ通したこと。
苦しかったことと、辛かったことの外に、必ず楽しかったことも語りあうようにした。連行される前の少女時代の想い出、初恋の話など・・・
共通の経験を語り合ったことで、悪いのは日本軍であって、自分たちは被害者なのだと確認でき、連帯感が生まれた。合宿の参加者も増えていった。最初は試行錯誤があったのだろう。私たち日本人が参加を呼びかけられたのは、はじまってから大分たってからであった。
2004年3月1日〜2日にかけての「治療活動」に参加した私たちの会の柴洋子さんの報告を紹介する。
「(前略)3月1日;昼食後、会議室のような部屋で、4人の阿媽が一つのグループになって席に着きました。目の前にある絵の具を使って、紙に絵を描いたり、用意されていた雑誌・新聞から好きなものを切り抜いて、貼っていきます。テーマは、『若かった時の自分』でした。
心が穏やかになるような、ゆっくりした、きれいな音楽が流れています。最初はみんな嫌がったり、戸惑ったりしていましたが、そのうち遠慮気味に頁をめくったり、手を動かし始めました。
廬満妹[ル・マンメイ]さんも、若い女優の写真を『若い時の私』と、切り抜いて真ん中へ貼り、イアン・アパイさんも生徒たちが船で通学する風景を大きく切り抜いて貼っていました。鄭陳桃[ジェン・チェンタオ]さんは、椰子の木と実を細かいタッチで描いた中に、生まれて間もない赤子の写真を切り抜いて貼りました。『息子がこのくらいの時、病院からもらってきたんだよ』といいながら。
その後、一人ずつその絵を説明していきます。どの阿媽もちょっとはにかんだりしながら、真剣に答えます。小学生のような初々しさでした。
休憩後、先生は、紙でできた真っ白なお面を阿媽たちに渡し、『表には、いつもみんなに見せている顔を描いて、裏には人に見せていない本当の自分を描いて』といいました。みんな、表にはお化粧でもするように、きれいな顔を描きました。眉が失敗して、左右が違うようなことはありましたが。
イアン・アパイさんはさすが!タロコ族の刺青をいれた女性の顔をきれいに描きました。それは見事でした。
ところが裏面になると、どの阿媽も複雑で、真っ黒にグチャグチャと色を塗ったりするだけという人が結構多くいました。これも、みんなに説明します。一人ずつ自分の作ったマスクを顔につけて説明します。誰も照れたりせず、素直に真剣に話します。裏面のグチャグチャは、『いつも心が苦しいから』ということでした。
すべてがゆっくり進みます。先生が制限したりすることは一切ありません。婦援会のスタッフも私たちも、邪魔にならないようにソッといるだけです。私は絵が面白かったので、覗いて回りましたが。
(中略)3月2日:朝食後、昨日と同じグループ分けの各テーブルに、大きな模造紙が広げられました。
目を閉じ、先生の言葉に耳を傾けます。
『自分の生活のなかで幸せだったことを思い出して描いてみて』ということでした。
大きな紙を前にして、鄭陳桃さんは『私はこういうの大嫌い』といって、手を出そうともしません。
鄭陳桃さんは、自分の頭で考えて思い出して描くことは大嫌い。昔のことを思い出すから嫌なんだよ」と言いました。
私が、『アンダマンの海はとてもきれいだったでしょ』と言ったら、やがて太めの絵筆にブルーの色をつけて、大胆に大きく塗り始めました。だんだん色を微妙に混ぜたりして、海ともつかない色が重なっていきました。隣の陳[チェン]さんの絵にまではみ出して、陳品[チェン・ピン]さんが白っぽい雲を描いていたのに、彼女がタバコを吸いに行っていた間に、白い雲はすっかり夕焼け雲になっていました。
この絵も、それぞれがみんなに説明します。鄭陳桃さんは、何を描いたか聞かれ、『分からない。ただ気持ちがよかったので、こんなふうに描いた』ということでした。
印象的なのは、イアン・アパイさんの絵とその説明でした。絵は自分の
歩いている左右の足跡を中心にし、地面を茶色で表現、地面には小さな
木があり、そして成長した木があり、草があり、花が咲いていました。
咲き誇っている花だけでなく、先の方には新しい芽が出ていました。
『木もあって、花も咲き、芽も出ている。地面はずうっと先まで伸びて
いる。これは私の財産でしょ』『今までの辛かったことや悲しかったこ
とは、ここに入れて(と、頭を指し)、楽しかったことや嬉しかったこ
とは、ここに入れて(手を胸に当てる)、これからは歌ったり、踊った
りして楽しく暮らしていくようにしましょう』と、張りのある日本語で、
みんなに呼びかけるように話しました。そして『この足は、日本政府が
いつまでも謝らなかったら、私は死んでからも、こうしてズンズン日本
へ歩いていくよ。幽霊になって行くよ』と、茶目っぽく笑いました。拍
手が起きました。台湾語には高さんが通訳しました。
イワル・タナハさんが元気がなかったので気がかりでした。
血圧が高く、途中で目眩がするということでしたが、いつも飲んでる薬を持ってきていませんでした。他の阿媽の血圧の薬を飲み(いいのかなと、私は思ったけど)、元気になっていました。絵は、げんこつを一つドカッと描いて、『日本政府への抗議』だと説明しました。
ラピンさんは少女の顔を描き、その頭のまわりに豊富な髪の毛のように沢山の曲線を描きました。『考えていると、頭が膨れ上がっていくような気がする』ことを表現したものでした。『何を考えているのか』という問いに、『いろいろなこと』とボツリと答えるだけのラピンさんに、許[シュー]阿媽はサバサバと『昔、よくしてくれた軍人のことを考えているのではないか』と言います。そこで、ラピンさんが日本人の子供を産み、その父親を日本に探しに行ったことがあることなどが、私の耳に入ってきます。ラピンさんはその間、静かです。絵を囲んでいる周囲がにぎやかなのです。
こういう辛い部分を共有している仲間たちだから、サバサバと問いかけもし、言われたほうも否定もしないし、怒りもしない関係ができているのだと私はあらためて感じました。阿媽たちが、このように集まって、お互いを共有してきたことは、阿媽たちの力になっていることは確かです。(後略)」
現在、生き残っている台湾の阿媽は27名。
「裁判に負けても、私たちの心は負けない」という。
注:阿媽(アマー)は、台湾語で「おばあさん」の意味です。
★社会労働衛生4-1(職業性疾患・疫学リサーチセンター発行)に書いた原稿を編集部のご好意により転載させていただきました。
阿媽とともに・台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会
晩年の高宝珠さん
(06年2月に亡くなった)
若い時の高宝珠さん
この足でズンズン日本に歩いていくよとイアンさん