今日のタイトルは「戦争責任に向き合うドイツと目をそむける日本」ということですが、私は30年以上ドイツに住んでいますので、ドイツに軸足をおいてお話ししたいと思います。
日本の問題は、みなさんがご自分で考えていただければと思います。

それから私が「ドイツ」という場合には「旧西ドイツ」のことが主になります。
「旧東ドイツ」は「ナチと戦った人たち」が戦後東ドイツを作ったという前提に立っていましたから、「自分たちはナチの残虐行為には全然責任がない」という態度をとっていました。
壁が崩壊して、旧東ドイツで最初で最後の自由選挙が行なわれた後に作られた民衆的な政府が初めてで、統一の直前に初めてユダヤ人や戦争責任についておわびしたという状況ですので、私がお話しするのは「旧西ドイツ」のことが中心になります。それから統一ドイツというのは90年に統一された後のドイツのことです。


去年、当時の町村外相が言った言葉がドイツに伝えられてきて、私は非常に驚きました。
どういうことかと言いますと、「ドイツは全てのことをナチの責任、つまり戦争責任とか、そういう全てをナチのせいにして、一般の人たちは頬かむりできるけど」、正確にはそういう表現ではなかったですけど、「ドイツは全てのことをナチのせいにできる。だけど日本はそうはいかない」というようなことを話されたんですね。
私はそれを聞いて、びっくりしました。


 
★政府・政治指導者そして市民の両側から変わっていった

 西ドイツでも敗戦直後は、やはり「自分たちには責任がない」「自分たちは知らなかった」「ナチがやったことだ」という態度が社会に蔓延していましたが、そういう態度をとったのはせいぜい戦後20年くらいです。
その後は社会の動きが変わりましたが、それは一度に変わったわけではありません。

政府とか政治指導者の側と、市民の側の両方から変わっていったわけです。
日本とドイツは同じ敗戦国で共通の課題を持っている国。その日本の外相が、そういう事実を認識していないことで、私はすごく驚きました。それはただ認識していないのか、あるいは「新しい歴史教科書を作る会」の西尾幹二さんたちが、やはり「ドイツはそういう責任をぜんぶナチのせいにしている」というようなことを言っていた時期がありますので、その人たちの言い分がずいぶん浸透したのかと思ったのです。
でも日本の外相たちはすごく認識不足だと思いました。そして外務省の人、あるいは在独の日本大使館の人たちが、ドイツについてどういう情報を伝えているのかなと疑問に思いました。


 
★ドイツの新憲法は戦争責任の反省から生まれた

たとえば、1949年に 西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が誕生して一番最初にドイツの憲法である基本法というのができましたけれど、それもやはり戦争責任に対する反省から新しい憲法が生まれました。そして連邦基本法の最初には「人権の尊重」が謳われています。日本の平和憲法も同じだと思います。
ドイツの憲法もやはり、ワイマール憲法が世界で一番進んだ憲法と言われながら、現実がそれを飲み込んでしまって、ナチのようなものが出てしまったということです。

今日はまず、統一ドイツの首都に返り咲いたベルリンには、いたるところに戦争責任、あるいは戦争の反省が見られますので、具体的にそういうものをご紹介したいと思います。


●<以下、写真スライドを上映しながら>●



西ベルリンのシンボル、戦争被害の象徴
  ウィルヘルム皇帝記念教会の塔の跡










 
























これはベルリンにいらした方ならご存じですけど、日本の原爆ドームと同じように戦争を忘れないために保存されている、爆撃にあったベルリンのウィルヘルム皇帝記念教会の塔の跡です。西ベルリンの目抜き通りの真ん中にありまして、ベルリンの、西ベルリンのシンボルになっています。これは戦争の被害を象徴したものですけれども、そういうものが西ベルリンの真ん中に残っています。



★ケンピンスキーホテル
    ドイツの戦後克服への道の一つ


























★東ドイツの国境警備隊に殺された人たちの記念碑











これはベルリンの一流ホテルで、ケンピンスキーホテルです。
ここは、1928年からケンピンスキーというユダヤ人一家が経営していたレストランがあって、それが1937年ナチによってアーリア化された、つまりドイツ人によって没収されて、その家族は強制的にこれを売らなければならなかった。売るといってもただ同然に取られてしまった。そしてケンピンスキーの家族は殺害されたり、外国に逃げたりした。

そして1952年に作られたホテル・ケンピンスキーが、「彼らの運命を忘れない」ということでこういう碑を作りました。これに対してもすごい論議がありました。

日本ではドイツは戦争後の克服に対して、非常に多くのことをやっていると言われています。確かに日本に比べてはいろんなことが行なわれているんですけど、それは60年の間に反対、賛成、いろんな議論が行なわれながら、前進したり後退したりしながら、それでいながら、いろんなことが行なわれてきたのだということを私は言いたいのです。

このホテルもすごく論争があったあげく、こういうものが作られました。





 これはちょっとナチの戦争責任とは関係ないんですが、第2次大戦の結果、ドイツは東西に分断され、その時にかつての東ドイツから西ドイツに逃れてこようとして、東ドイツの国境警備隊員に射殺された人の記念の碑です。

中には壁が崩壊する直前に射殺された人もいて、非常に胸に迫るものがあるんですけど、その記念碑も連邦議会の国会議事堂の近くティーアガルテン公園にあります。



★ホロコースト記念館、
 600万のユダヤ人犠牲者の顔がわかるように


 これはまだオープン前に撮ったものですが、虐殺されたヨーロッパのユダヤ人を記念するホロコースト記念館です。すでにでき上がっているんですけど、5月10日のオープン直前に行ったから中に入れませんでした。まだ建設中の時から市民がお花を捧げたりしていました。

・それは17年前の市民運動から始まった

 
これはこちら側から見るとわからないんですが、大きさの違う石が置かれて奥の方へ行くと迷路みたいになっています。そこに4メートル以上の高い石があって、その中に入ると、大勢で行っても途中で見失ってしまって、ユダヤ人たちが一人で非常に不安を感じただろうというようなことを少しだけ、ほんの少しだけ体験できるようなものなんですね。

これは17年前の市民運動から始まりました。
その市民運動をブラント元首相とか、ノーベル文学賞作家のギュンター・グラスなどが支援して、それがコール政権の時に政府が認めるものになって、このベルリンの一等地のブランデンブルグ門のすぐそばに、広大な敷地を提供して、こういうものを作ったんです。

アメリカ人の建築家のアイゼンマンのコンセプトがコンペで入賞して、ドイツ連邦議会が作るということを決議して、市民運動から始まった虐殺されたヨーロッパの人たちの記念碑を作る計画が、国の費用で作られたわけです。民間の寄付ももちろん入ってます。

名前も何も書かれていない犠牲になった600万人のユダヤ人の何ていうか、「墓標」みたいな感じの芸術作品なのですね。24時間オープンで柵も何にもないから誰でも入れて、一人ひとりがそこで何を考えるかは、入る人たちに任せられています。ネオナチの人たちが来ることも、ハーケンクロイツの落書きをすることも考えられました。今のところ心配されたことは起きていません。

・加害の国と犠牲になった国の人たちが犠牲者の情報について協力するというシンボルの場所

最初の計画と一番変わったところは、情報センターがつくられたことです。
最初の計画では芸術作品だけだったんですけど、ドイツ政府の要請で、地下に情報センターが作られました。

オープン当初は本当に、ドイツ人も行列して入ったんですけど、あまりの酷さに泣きべそかいて出てきた人も多かったくらいドイツの人たちがすごい衝撃を受けました。

アウシュヴィッツが象徴的な場所になっていますが、アウシュヴィッツみたいなところが、たくさん他にもあったということがわかるような展示です。
そして、ひとりひとりの犠牲者の、人間の顔がわかるような展示になっています。

それからこれはドイツの過去の克服と関係があるんですけど、この地下にイスラエルのホロコースト記念館のデータベースが置かれており、被害を受けた国のデータがここですぐわかります。
イスラエルがすごい努力をして、世界中に散らばっていた犠牲者の300万人の情報をデータベース化したんですけど、それを使わせてほしいとドイツ側が申し入れたら、最初はイスラエル側もびっくりして、「それはちょっと・・・」という感じだったんですけど、でも非常に真摯な、誠実なドイツからの要望だったもので、そのデータベースを使ってもいいということになったんです。

ですからこの記念碑は加害の国と犠牲になった国の人たちが、被害者の情報について協力するというシンボルの場所でもあるんです。こういうことになったのは、ドイツ政府と、ドイツ国民が、やっぱり自分たちの過去を誠実に考えて、そこから教訓を汲み取って未来につなげようという姿勢をずっととってきたということの表れだと思います。

★ブランデンブルグ門

 これはブランデンブルグ門ですけど、5月8日がドイツの敗戦記念日ですから、それを前にドイツの歴史を示す写真展と、その裏側には歴史的な記録が記されていました。

記念館ですが、最近日本でも上映された「ヒットラー最後の日々」の舞台になった、ヒットラーの地下壕のすぐそばなんですね。
この写真では戦火にまみれたベルリンの写真しか出ていませんけれど、ここにはドイツが空爆を開始して、ロンドンを爆撃した日が何日だとか、そういうドイツの戦争の記録がずっと連ねられていて、戦争から戦後について勉強できるようになっていました。

 この記述については大学の歴史学者や、政治学者たちが協力して作りました。


★現ドイツ連邦議会

これは今、ドイツ連邦議会の建物になっていますが、昔の帝国議会です。そこにこういう黒い板が並んでいるんです。これはどういうものかと言いますと、ナチの犠牲者というとユダヤ人とかシンティ・ロマの人たちだとすぐ思うんですけど、ドイツ人もナチに反対した人たちがすごく犠牲になっています。これは昔のドイツ帝国議会の議員で、ナチのために殺された人たち・・・共産党員だとか社会民主党員とか、そういう人たちが一枚一枚の板に名前が書いてあって、その党籍と亡くなった場所とか・・・たとえば「アウシュヴィッツ」とか書かれているんですね。

このドイツ連邦議会は首都がボンからベルリンに移るにあたって改築されたんですが、この建物の上に丸いガラスの天井のドームを作りました。
これもひとつのシンボルでして、ドイツ連邦共和国は民主的で、自由で、それこそ「ガラス張り」の透明な政治を行なっているということを示すために作ったそうです。
ここは連邦議会が開かれている時も、ドイツ国民だけではなくて外国からの人、外国人観光客もこの上の部分だけは入れるんですね。議場には入れないんですけど、議会が行なわれているところを少しのぞくことができます。議会の上に立つとベルリンの東西南北すべてが見渡せるすばらしいところなんです。登って行く途中にはドイツの議会をめぐる歴史が書かれています。
そういうふうに開かれた議会というものも、ベルリンで体験できるわけです。

★ベルリン・フィル


これはベルリン・フィルの建物です。
この前にもナチの犠牲になった音楽家たち、ユダヤ人をはじめとする人たちを追悼する記念碑が作られています。たいていはきれいな花輪が置かれています。



★エーリヒ・ケストナー念館


これはドレスデンにあるエーリヒ・ケストナーの記念館です。

有名な児童文学者でナチに抵抗したエーリヒ・ケストナーという作家、「エーミールと探偵たち」などで有名な人ですけれど、その人はドレスデンで生まれ育った人です。

ドレスデンにはそのエーリヒ・ケストナーが書いた本なんかも、ナチは禁止処分にしまして、焚書と言うんでしょうか、ナチの思想にそぐわないと判断した人たちの本を焼いた事件がありました。
その場所は、ベルリンのウンター・デン・リンデンにあるシュターツオーパー(国立歌劇場)の隣の広場で焼かれたんです。

そこには、ケストナーの記念館とは関係がありませんが、その焚書事件を忘れてはならないという記念碑があります。それは地下を覗くと、全くからっぽな本棚がずらっと並んでいるという記念碑なんですね。

そのそばにはハインリッヒ・ハイネの言葉が書かれています。

 「本を焼く人は人間も焼く」。

そういうものもドイツ人たちは自分の、それも市民たちの動きから始まった記念碑なんですね。

そういうものがベルリンだけでもたくさんあります。



 
●<スライド上映終わり>


★ニュルンベルグ裁判で
  「人道に対する罪」という観念ができる


 最初、敗戦直後は「自分たちには関係ない。ナチがやったんだ」というようなことをドイツ国民も思っていたわけです。
「自分たちは知らなかった」というようなことをずっと言ってたんですけど、そういう雰囲気がだんだんと変わってきた。長い時間かかってそういうふうになったんですけど。

よく言われるように、東京裁判と同じようにニュルンベルク裁判が1945年8月8日に開始されて、侵略的な戦争は犯罪であるとか、占領地での虐待とか、捕虜の虐殺、そういうものに対して罪を問われたわけですが、「人道に対する罪」ということがユダヤ人の虐殺などに関連して問題視されて、結局12人に死刑が言い渡されました。

ニュルンベルク裁判で「人道に対する罪」という観念ができたわけです。

★自分たちの反省と犯罪を追及することを継続
 〜自分たちでナチの犯罪の追及をする〜

 
・政治的指導者たちが率先して過去を反省


その後でドイツは自分たちの反省と犯罪を追及することを続けたんですね。「人道に対する罪」といっても、例えば戦争が終わる直前に、軍事施設も何もない、エルベ河畔のすばらしい文化都市だったドレスデンを占領軍が無差別攻撃して、10万人の人たちが殺された、そういう連合軍の戦争責任は問われなかったんですけど、ドイツでは自分たち自身の手でナチの犯罪を追及することが行なわれました。

アデナウアーというドイツ連邦共和国初代の首相は非常に保守的な人でしたけれど、やはりケルン市長の時にナチに抵抗して闘った人です。

そういう人たち、首相あるいはその当時政治的な指導者だった人たちは、やはり最初から自分たちの過去を反省しなくてはいけないと、そしてそれは自分たち、ドイツ人の名誉に関わる問題だと考えていたんですね。

それでも最初は、指導層が新しい憲法を作り、戦争責任を問いかけても、一般の人たちはそれに応えませんでした。

それがだんだん変わるようになったのは、1960年代になってからなんですね。1958年に旧西ドイツは各州の検事を西南部のルートヴィヒスブルクに集めて、「ナチス犯罪追及センター」を発足させた。1958年の段階でそういうものを発足させています。

・アウシュビッツ裁判での衝撃が一般の人たちも自分たちの責任を考えるきっかけになった

それから1963年から65年にかけて、フランクフルトでアウシュヴィッツ裁判というのが行なわれました。
それはドイツが行なった裁判なのですが、アウシュヴィッツ強制収容所の元看守たちが22人被告になりましたけれど、それで、それまであまり詳しく知られなかったアウシュヴィッツ強制収容所でのすさまじい状況、大量虐殺が明らかになって、ドイツ国民は衝撃を受けた。

一般の人たちが自分たちの責任について考えるようになったのは、そのアウシュヴィッツ裁判がきっかけになったと見られています。

・学生運動が画期的な転機になった
 〜若者たちが親・祖父母のナチ時代の行動を追及、 過去を問い直す〜

それからまたもっと画期的な転機になったのは、1968年の学生運動の成果なんですね。
「1968年世代」と今でも言われますけど、当時の学生たちが保守政権に対する抵抗を行なって、抗議行動をして、それはベトナム反戦運動とからんでいたんですけど、ドイツの学生運動は特別な意味を持っていました。

ドイツの学生たちが親の世代の行動を追及する動きだったんです。

ドイツの若者たちは自分の父親、母親、あるいは祖父母たちが、ナチ時代、どう行動をとってきたのか追及しはじめたんですね。
高校生たちが自分の街にかつて住んでいたユダヤ人の運命をたどったり、それから当時のナチの有力者の過去を問い直すような動きが生まれたりするわけです。

1968年の反逆の動き、それがドイツ社会をすごく変えました。
戦争責任についてもナチや政治家とかそういう人たちの責任ではなくて、それを支持した自分たちの、市民一人ひとりの責任を問うような傾向が生まれたと思います。

そして、この「1968年世代」に属していたのが、社会民主党の、この前まで首相だったシュレーダーさんとか、緑の党のフィッシャー外相だったりするんですけど、その人たちが30年後にドイツの与党の政権を担うようになってから、やはり過去の克服とか、被害者に対する補償問題を大きく進展させたという経過があると思います。

★西ドイツの政治家たちは自分たちの責任を感じ、近隣諸国との和解をめざした

第二次大戦後の西ドイツの政治家たちは、とにかくヨーロッパを荒廃させた自分たちの責任を感じて、まずアデナウアー初代首相は西ヨーロッパとの和解をしまして、ヨーロッパの近隣諸国との善隣友好関係を築くように努力しました。

西側に属するようにしたので、それが良いか悪いかという論議もありましたが、アデナウアーは、まずドイツは西ヨーロッパの一員として生きていく、という方向を打ち出しました。

それから1970年代になって、社会民主党のブラントが首相になりまして、東西両陣営の緊張緩和を目指す東方外交を進めたわけですけど、そのヴィリー・ブラントはナチに抵抗して、ナチから国籍をはく奪されて、スウェーデンとかノルウェーに逃れて、そこからナチへの抵抗運動をした人です。
首相としてのブラントは東方外交を進め、ソ連とか、ポーランドとか、東ドイツとかと条約を結びました。

そして和解につとめたブラント首相がポーランドのワルシャワに行ってユダヤ人のゲットーの碑の前で思わずひざまづいてしまった。これは計画した行動ではなくて、ナチに抵抗した人が西ドイツの首相として、ポーランドに行って、ワルシャワでそのことをいろいろ話を聞いているうちに、くちびるを震わせて、突然ひざまづいてしまったというのです。
その人間的な姿勢がポーランド人の心を打って、当時のポーランドとドイツの関係好転に非常に寄与したと言われています。

★ヴァイツゼッカー大統領の「荒野の40年」


でも若い人たちの間には自分たちが直接行なった犯罪ではないのに、外国に行くと「ナチスドイツの末裔」ということで軽蔑されたり、ののしられたりするし、いつまでもナチスの行為の責任を自分たちで負っていかなくてはいけないのかという不満が高まってたんですけど、これに応えた歴史的な演説が、1985年5月8日の敗戦40周年の記念日にフォン・ヴァイツゼッカー大統領が連邦議会で行なった演説なんですね。

これはドイツ語では「あれから40年」というだけのタイトルなんですけど、日本語に翻訳された永井清彦さんは「荒野の40年」という訳を付けて、ヴァイツゼッカー大統領の言わんとするところを翻訳しました。
みなさんもご存じのように、このヴァイツゼッカー大統領の演説は「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目になります」という言葉で有名です。
ヴァイツゼッカー大統領の演説はそういうふうに若者たちの不満をとらえて、ドイツ人としてどう考えるべきかを言ったわけです。

昔からドイツの国内で、敗戦の日である5月8日をどう理解するかということで論議があったんです。
ドイツが敗北した屈辱の日なのか、それともナチから解放された喜ぶべき日なのか。
ドイツとして皆で一生懸命戦ったのに、敗けてしまった。その日をどういうふうに理解するかということで、ずっと論議があったんですけれども、フォン・ヴァイツゼッカー大統領は、ドイツがナチから解放された日であると言って、市民運動の人たちと同じような考え方をはっきり宣言したんです。

これはドイツ国民のためにドイツの大統領が行なった演説、ドイツ連邦議会での演説なんですが、これはドイツの若者たちに考え方の指標を与えたと同時に、勇気も与えたと見られています。
勇気づけられたドイツ人たちも多かったんですけど、被害にあった国々からも好感をもって受け入れられたんです。それは転機というか、画期的な出来事だったと思います。

★「過去を心に刻む」とは


そしてそれ以降は「過去を心に刻む」というようなことが現在のドイツ人のアイデンティティーになりつつあるんですね。
それはどういうことかと言いますと、今生きているドイツ人たちにはナチの直接的な責任はないけれども、そのドイツ人の名において行なわれた犯罪の過去を、一人ひとりのドイツ人が心に刻んで、それを思い起こし、それから教訓を汲み取って未来につなげる、という意味なんです。

この演説からもう20年も経っている。1985年の5月8日ですから、去年の段階で20年経っている。でも去年、日本の当時の外相は、そういうことを一切認識していないような発言をしたので、私はびっくりしたわけです。

1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊して、翌1990年、ドイツ統一がすごく早く実現しましたけれど、それには長年の西ドイツの平和と善隣友好外交が功を奏した面もあるんですね。
もちろんドイツが統一して、ヨーロッパ一の八千万人の人口を持つ大国になることに対して、周辺の国々には恐怖があって、恐慌をきたしたようですけれど、それにもかかわらず、やはり、ドイツが続けていた反省とか、近隣の国々と仲良くやっていこうというドイツ努力が評価された。戦後のドイツは、ヨーロッパの中のドイツをめざし、昔のようにドイツのためのドイツではないということを皆が納得したのだと思います。

話がとびますけれど、ドイツの連邦議会ではいつも敗戦記念の5月8日にいろんな記念式典が行われています。その式典ではドイツの大統領や首相が演説するだけではなくて、たとえばポーランドの外相が演説したり、いろんな国の人が演説したり、ユダヤ人のホロコーストの生き残りの人が演説したりします。去年はユダヤ人として強制収容所から生き残った人が演説しました。

敗戦60周年にあたった去年5月8日の前に、ベルリンでホロコーストの生き残りの人たちが作っている国際委員会が主催した記念式典があったんですね。それになんと加害の国のシュレーダー前首相、当時の首相が招かれて、そこで演説するチャンスを与えられているわけです。
シュレーダー首相自身が言ってますが、そういうことは非常に特異、特別なことなのです。
今日の資料にその演説の翻訳をお配りしましたので、読んでいただきたいと思います

そのシュレーダー首相は、今生きているドイツ人はほとんど、過去に直接責任があるわけではないけれども、ドイツ人としてナチの過去を伝えていかなければならない。それをいつも思い起こして、現代と未来に生かしていかなくてはいけないというような演説をしているんですね。それはフォン・ヴァイツゼッカー大統領の演説のように格調の高いものではないかもしれませんけれど、非常にはっきりと「過去を心に刻むことが、ドイツ人のアイデンティティーになりつつある」というようなことも言っています。


もうひとつ資料としてお配りした中に、「梟」に書いた私の原稿のコピーもあります。
それは去年、反日デモが韓国や中国で荒れた頃に、ドイツで戦争責任を考え、憲法改正について思いをめぐらせた原稿です。
そこにも書きましたように60周年が経って、ドイツはかつてのものすごい被害を与えた国々から仲間として認められていて、友好国として認められている。それに反して日本は中国や韓国の人たちから責任をとっていないと見られているんですね。補償を求める要求が爆発的に起こったりしています。

日本の首相の靖国参拝とか、「新しい歴史教科書を作る会」の動きとか、そういうことによって、彼らが今までずっと抑えていたこと、日本がちゃんと謝罪して適切な行動を取らなかったということに対する不満が爆発したのだと私は思います。

それを日本の人たちは、かえって逆に、日本に対する反感にまた反発して、反中国、反韓国、そのような感情的な動きが出ているのは非常に残念だと思います。


首相としての行動がシンボルとしての重さをもつと自覚

ドイツの政治家たちはシンボルとしての行動を非常に大事にします。たとえばシュレーダー首相をはじめ、歴代の首相や大統領は、首相としての行動がシンボルとしての重さを持つということを自覚して、かつての被害を与えた国の首相との話し合いをいつも前面に出したり、自分たちは過去を克服して、こういう中でヨーロッパの一員として生きなくてはいけないんだというようなことを言ったり、象徴的な行動も意識してするようにしています。

だから日本の首相が、靖国参拝することが、彼は「自分は憲法で認められている権利を行使しているだけ」みたいなことを言っているようですけれど、やはり首相としての自覚に欠けて、歴史の反省というか、そういうことを何もしていない人だと受け取られても仕方がないと思います。


・ドイツは、日本がどういう態度をとるか注目
  〜謝罪も補償もしていないとみている〜

ドイツは日本がどういう態度を取るかということを、同じ第二次大戦で悪いことをした国として、非常に注目しているわけですけれど、ドイツの人たち、あるいはドイツのメディアは、日本は日本軍「慰安婦」の問題にしても、強制連行した人たちにしても、ちゃんと謝罪をしていない、はっきりと謝罪をしていない、そして補償もしていないというふうに見ています。
そしてドイツ人と時々そういう話をするんですけど、やはり日本はこのままでは済まないだろうというふうに見ている人が多いんです。

国連の人権委員会が日本軍「慰安婦」のことについて警告をするような時代になってきています。

ドイツは苦しみながらこういう結果になりました。指導層からも、市民の下からの運動も、両方が相まって今のようになりましたから、やはり日本人も考えた方がいいんじゃないかと思います。

日本の細川護熙元首相とか、謝罪をなさった人たちがいましたけれど、ドイツ人たちに言わせると、全然補償はしていないし、それは本当の謝罪したことにはならないということになります。

ドイツは補償を継続してきた、そして個人補償も
 
 〜「戦争・記憶・未来」という基金が誕生〜

被害者にたいする補償は戦後西ドイツはずっとやってきています。

最初は西ヨーロッパの被害者に対する補償だったり、ナチスドイツ当時はイスラエルという国はなかったわけですけれども、ユダヤ人が作った国に対する補償とか、非常に多くのことをやってきているわけですけど、積み残してきたことがひとつあって、それは東ヨーロッパの、例えば強制労働に従事させられた人たちに対する補償ができていなかった。個人補償ができていなかったということが、統一後あるいは鉄のカーテンが崩壊した後で、問題が出てきました。
それと同時にアメリカにいるユダヤ人たちが、昔の強制労働者について集団でドイツの企業を訴えるというようなことが起こって、それに対してずいぶん紆余曲折があったんですけど、ドイツ政府と企業とが費用を折半して、まず連邦補償基金を設立するということが決まりました。それは当時の1940年代、要するに戦争中に占領地から連れてこられた強制労働者たち、そして軍需産業に従事させられた人、それから農場で働かされた人たちなど、そういう人たちが1200万人くらいにのぼったと見られています。そのうち生存者は120万人くらいいたんですが、その人たちに対して個人補償をするということをドイツは決めました。

その合意が生まれたのが1999年12月17日ですが、その後それが「記憶・責任・未来」という基金となって、実際に犠牲者たちにお金が支払われるようになったのは2000年7月以降なんですね。

なぜ「記憶・責任・未来」なのかということになるんですが、過去を「記憶」し、「責任」を取り、そして「未来」につなげるということで、「記憶・責任・未来」という基金の名前になったんです。

その実現には2人の功労者がいました。ひとりはドイツ政府を代表してアメリカの補償問題の担当だったアイゼンシュタット財務次官などとの交渉に当たったラムスドルフ元経済大臣、自由民主党の政治家なんですが、この人がものすごく粘り強い交渉を行なったこと。それから途中で挫折しそうになった時に、その時のシュレーダー首相が、政府が拠出するお金を上積みしてまで実現させたという経過があります。

結局ドイツ政府と企業が50億マルク、合わせて100億マルク、これは当時のお金で約5500億円くらいになるんですけど、これが決まるにあたっては、やはり社会民主党と緑の党の連立政権だったからことが進展したというところもあります。

・マス・メデイアの感動的な働き〜日本との違いを痛感〜

この「記憶・責任・未来」基金が設立して、配分の具体的なことが決まるまで、ずいぶん時間がかかったんですけど、その間のドイツのマスメディアは非常に感動的だったんですね。

それはNHKと同じようなドイツの公共テレビ、アー・エル・デーとかツェット・デー・エフなんかが、強制労働者の名前を毎日のように、テレビに映し出して、この人たちはもう高齢だから、早くまとめないと手遅れになると毎日のようにキャンぺーンを続けました。

日本のマスメディアとはずいぶん違うと思いました。

当時のラウ大統領も、ナチスの独裁体制のもとで強制労働に従事しなくてはならなかった全ての人に、ドイツ国民の名において許しを乞うというような、これも感動的な話をしています。

このあたりで一旦話をやめて、質問などがありましたらお答えするということにしたいと思います。その後で、ベルリンにはそういう戦争の過去の克服とか反省の記念碑も、まだたくさんありますので、そのことについてもお話できればと思います。
(このあとの質疑応答省略.2006年5月17日、中野ゼロで行われた公開学習会の内容をまとめたものです。)




阿媽とともに・台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会

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●ゲアハルト・シュレーダー連邦首相の演説


<公開学習会>2006年5月17日

戦争責任に向き合うドイツと目をそむける日本

  〜被害国に受け入れられたドイツの戦後補償の歩み〜

                                   永井 潤子