2005年12月7,8,9日の3日間にわたり、写真展が文教大学厚生棟2階多目的ホールで開催されました。
また、写真展の中日である8日には、茅ヶ崎カトリック教会において証言集会が行われました。
それぞれ詳細を報告させていただきます。主に、藤巻ゼミナール生16人と奥田ゼミナール生6人が、写真展の準備、証言集会の準備をしてくれました。
 この報告は、そこで彼女ら・彼らが経験した、写真の中の阿媽たちや証言集会で証言をなさった呉秀妹阿媽との「出会い」に関するものです。短い間ではありましたが、まさしく記憶生成の現場に身を置いた彼女ら・彼らのささやかな記録としてご一読いただけたら幸いです。

   





 1.山中のキャンパスに多くの人が

 多くの人びとがこの写真展を訪問しました。茅ヶ崎市の山中にキャンパスを持つ文教大学が会場であるにもかかわらず、市街地から足を運んでくださった方も多く見られました。また、神奈川県の近隣の大学からだけでなく、遠く埼玉からも学生らが来てくれました。初日こそ来場者は少なかったのですが、最終日には絶え間なく来場者がいる状態になりました。これは、8日の証言集会に参加した方や学生らが、阿媽らへのさらなる関心を持ったためであると思います。最終日には、写真展会場にて、映画『おばあさんの秘密』を夕方4時から上映しました(12月1日にも、文教大学国際学部主催でこの映画の上映会を行いました)。
 来場者の数ですが、初日が32人、2日目が127人、最終日が52人で、合計211人もの人たちが、この写真展の中の阿媽たちと「出会い」ました。この211人という数字は、リピーターの数を考慮していないため、実際の総合来場者数は230人を超えると思います。


 2.写真に命の「温かみ」を感じて

 藤巻ゼミと奥田ゼミの3年生らが中心となって、この写真展の準備を行いました。その準備段階で学生たちが気が付いたことがありました。この気付きにより、彼女ら・彼らにとっての写真展が、本当に意味のあるものになったと思います。

 私も含めて学生たちは、写真展の準備は、今も心に残っていることから考えてみれば、もう少し簡単で単純な「作業」であると考えていました。ここでいう簡単で単純な「作業」とは、写真パネルの一つひとつを傷つけないように大切に扱い、写真パネルを写真集と同じ順番に並べるだけである、という認識から生まれたものでした。そういう意味で、写真展の開催準備は、学生らにとっては「大道具」的「作業」であり、私自身にとっても(恥ずかしながら)大学事務局との書類のやり取りをするくら

いの「作業」であると考えていたということです。もちろん、写真パネルを壁に貼り付けたり、会場の都合で毎日写真パネルを取り込まなければならなくなった結果、貼り付け方に工夫が求められたことを考えれば、写真展開催準備のための「作業」は、私たちの想像以上のものであったことは本当です。

 しかし、そんな「作業」であるという認識が一気に吹き飛ぶのに、多くの時間は要りませんでした。まず、写真パネルを並べて行くうちに、パネルに収められた阿媽たちの存在が、単なる二次元の平面上に存在しているだけの存在でないことに気が付き始めたのです。適当な言葉が見つかりませんが、阿媽らの写真が徐々に、一種の「温かみ」を持ち始めているような気持ちになったのです。ここでの「温かみ」とは、言葉にすると陳腐なものになりますが、かけがえのない、たった一つの命であるとか、取替えのきかない生身の身体を持った存在であるとか、もしかしたらそれは(写真を)見る人の実感を伴った「人権」という言葉に該当するのかもしれません。

 この写真展における写真の数々は、戦時性暴力に特有の強い抑圧作用の強さも表現していました。これは、写真展パネルを準備段階から何回も読んだ学生らも、よく理解していたと思います。約60年間も、自らの受けた性暴力を自分の言葉で語ることもできずに、まさに彼女らはお面をかぶっていた状態であったわけです(写真展は、お面をかぶった阿媽たちの姿から始まります)。しかも、その間、誰かが彼女らを代弁してきたわけでもなく、日本軍による戦時性暴力は公的な場で明らかにされることもなかった現実もあるわけです。教科書記述に司法判断、どれをとっても閉塞感のある現実の中で、阿媽たちが自身で声をあげざるを得ないことも理解できたと思います。そういう意味において、沈黙させられてきた阿媽たちが、ワークショップなどを経て、自らの「声」を獲得してゆくプロセスを納めた写真の一枚一枚は、彼女らが再び生身の「温かい」身体を取り戻そうと試み、「証言者」として立ち上がってきたことを表現しています。また、阿媽たちが社会から受ける仕打ちも引き受けた上で、沈黙を破るというその果敢な行為に、一種の驚嘆と感動が学生の心のなかに準備段階からありました。


阿媽との「出会い」とは

台湾の元「慰安婦」写真展『阿媽的瞼』
ならびに「阿媽たちのお話を聞く会」の報告

藤巻 光浩(文教大学国際学部助教授)


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<報告1>
  写真展「阿媽のまなざし」


 60年の時を経て自分自身の「声」を取り戻して行くプロセスを表現した写真の数々は、「温かみ」を持ち、それはこの写真展にとり重要なものでありました。ですから、その「温かみ」が損なわれないようにすることを、学生たちは大切にしたいと考えました。そのため、この写真展で工夫した一つ目のポイントは、まず写真パネルの一つひとつを、来場者の目の高さに配置することでした

 写真展開催期間、毎夕写真パネルを取り外し、夜の間は倉庫に戻さなければならなかった状況を考えれば、写真パネルを椅子の上などに置くだけという処置が最も適切であるように思っていました。なぜなら、設置と撤収が楽だからです。

 しかし、写真パネルを来場者の目の高さに位置することを最優先にしたことで、写真パネルの貼り付け方に関する試行錯誤は難航しました。目の高さに写真パネルを貼り付けることは、壁に穴を開けるか両面テープなどで貼り付けることを意味します。その一方で、大切な写真であることを考えれば、両面テープの使用はテープの粘着力によりパネルがはがれたりする可能性もあります。また壁に穴を開けることは不可能でありました。

結局、椅子の上に縦長のネットを置き縛りつけ、そのネットにフックをかけてその上に写真パネルを載せるという方法に落ち着きました。これで、ようやく写真パネルの一枚一枚を、来場者の目の高さに配置させることができるようになったのです。そして、それは成功したと思っています。

 第2に、カラー写真が何枚かあったために、この写真展に写真集を超えた物語を付与することができるかもしれないと考えました。カラー写真は、「裁判を支援する会」の柴洋子さんによれば、ナヌムの家の矢島さんら(写真集のカメラマン)とは別のカメラマンが撮ったものとのことでした。

美しく工夫された写真の展示

阿媽にみつめられ、阿媽を見つめ

一連のカラー写真の中の一枚には、「国民基金失敗」というプラカードを掲げ、握りこぶしを天に突き上げている勇ましい阿媽たちの姿がありました。本来の写真展の写真はモノクロでしたが、このカラー写真を展示に加えることで、「温かみ」を取り戻した彼女らが「証言者」として立ち上がったプロセスを表現できると考え、今回は、一連のカラー写真を展示の最後の方に入れることにしたわけです。当初は、「モノクロ写真の間に置こう」とか「阿媽別に写真パネルをまとめよう」という意見もありましたが、ここに書いた理由により最後に配置することになりました。そうすると、阿媽たち自身による声の獲得、ならびに「再生の物語」になるような気がして、学生たちと私の気分は明るかったのでした。



 3.失われ、取り返しのつかない存在に気がついて
   〜喪によるの記憶形成の現場に立ち会う〜


 準備が終了し、写真展が始まりました。
 まず、準備にあたった学生らが、来場者になったつもりで、写真パネルの一枚一枚を順路に沿って観て行くというシュミレーションを行いました。

 当初は、この写真展は「再生の物語」だと思っていました。しかし、阿媽らの中には勇気を奮って仮面を取り声をあげたにも関わらず、途中で亡くなってしまった方たちもいたということの深刻さに気が付いたのです。そして、阿媽らが亡くなってしまっていることの重さにどのように対応してよいのか分からなくなってしまったのです。写真展に訪れた多くの学生も声を詰まらせていましたが、「死ぬことで、ようやく苦しみから解放される」という説明に、打ちのめされたことは確かです。

準備の段階では、一点の曇りもない「再生の物語」であると理解していたわけですが、やはりこれは取り返しのつかないものであること、そしてかけがえのないものが失われてしまったことを理解しなくては、写真展の意味が失われてしまうことを認識したのです。

証言集会などに出かけると、現在生きていらっしゃる阿媽たちにだけに目が行きがちです。
彼女らだけを見ている限り、(彼女らの)強い意思を感じたりもするのですが、実際には志半ばで亡くなってしまった阿媽たちもいるわけです。しかも、「死ぬことで苦しみから解放される」わけですから、「私たち」の一方的な感情移入(どのようなものであれ)により、それを「再生の物語」などと理解したつもりになってしまうことは、居心地が悪く、しかも陳腐であることに気が付いてしまったのです。

 「失われた青春」などという凡庸な言葉になってしまいますが、それはやはり永遠に失われてしまったロス(loss)であること、しかもそれは取り返しのつかないものであることを知る重要性は強調しても強調しすぎることはありません。「温かさ」を取り戻す「再生の物語」を目撃することも必要なことですが、やはりロスの部分を忘れないように、そのロスを心に刻む必要性を充分に認識しなくてはならないのだと、学生たちも感じていたようでした。

また、証言集会も行う中で写真展を開催することの意義は、まさにここにあるような気がします。

第1に、証言集会という限られた時間(だいたい2時間くらい)の中でしか、阿媽の姿を知りえないという現実があるため、証言するという行為にまで至った阿媽たちの「(仮面をかぶっていたがそれを外してきた)歴史」をどうしても知る必要があるということ。

そして、第2に、その歴史が、一種の「再生を試みる物語」であり、しかし、それはセラピーを必要とする程センシティヴでデリケートなものであるということ。写真展は、これを伝えることができると思います。

第3に、生きている阿媽だけに注意が向きがちな日本に住んでいる「私たち」に、志半ばで亡くなっていった阿媽たちもいるのだという現実、しかも、「死んだほうが苦しみから解放される」という現実に向き合いロスの部分を知る必要性が、写真展においては認識できること。

 まだあるかもしれませんが、少なくともこの3つが写真展を行うことの主な理由なのかもしれないと思いました。とにかく、写真展と証言集会が終了した後のゼミディスカッションではこの3点が挙げられました。
 
まとめるなら、失われたものを弔う「喪」の場が、この写真展であるということです。

また、「再生の物語」は、失われたものがあるからこそ特定の意味を持つことができるのであり、そのロスの存在は、再生の物語の中に奥深く根を下ろし、払拭することが不可能なほど浸透しているのです。再生の中にロスを常に見出してゆくこと、これがこの写真展の意義なのではないでしょうか。そして、ロスに関しては、「私たち」は安易に感情移入しがちですが、そのロスを冷静に目撃し、それは私たちの想像など及びもつかないものであることを理解した上で、次につなげて行かなくてはならないものでしょう。

 このような喪を伴った記憶形成は、「喪」と「生成」という2つの逆のベクトルを合わせ持つものであり、図り知れない困難を伴います。それでも、写真展の開催は、学生らにとり、まさしく喪の記憶形成の現場に立ち会うことのできた貴重な体験でした。


4.阿媽たちが来場者を「見つめる」関係を求めて
 
〜友人を一人ひとりつれてきては丁寧な解説を、または、チラシを持って外へ〜


 
さて、写真展そのものですが、学生らは3日間、順番を決めて会場に詰めかけ、受付・案内を行ってきました。
実行委員長であったS脇くんは、自分の友人を一人ひとり連れてきては、丁寧に解説を行っていました。ゆっくりとしたペースで訪問者を案内する彼の姿に感心したのは私だけではないはずです。
また、初日は、出足がよくなかったです。これは、水曜日には学生があまりキャンパスに来ない日であったためです。しかし、奥田ゼミの2人がチラシを持って外に広報に飛び出していったことは、忘れることができないことです。証言集会への右翼の襲撃(?)を恐れ、広報を控えがちだった私は、自分の小心者さを少々反省しました。

また、8日の中日ですが、証言集会の準備もあり17時ごろ写真展をお開きにしてしまいました。証言集会において通訳をなさった許照美さんは、わざわざ茅ヶ崎の山中キャンパスまで足を運んでいただいたにもかかわらず、写真展をご覧になることができませんでした。

最後に、写真展のタイトルに関してです。
「阿媽的瞼」というのが、写真集のタイトルでした。日本人向けにルビを振ろうと思い、中国人留学生らの意見を聞きました。写真集の英語の翻訳も参考にしたのですが、英語ですと「瞼」が「faces」と翻訳されていて、中国語の意味とは少々違うような気がして、こちらで修正しました。私たちは、「瞼」に「まなざし」とルビを振らせていただきました(英語だとgazeです)。

理由は、2つあります。第1に、中国語の意味に近いものであるということ。第2に、「まなざし」とは、通常は他人から「受ける」ものであるため、「見る」というコミュニケーション行為が本質的である写真展とは、全く逆の関係を被写体である阿媽たちと来場者との間に作りだすことができると考えたからです。

この写真展において、「見る」主役はあくまでも阿媽たちであり、来場者が「見る」のではなく阿媽たちが来場者を「見つめる」という関係を作り出したかったのです。
 来場者は、上にも記したように、私たちと同じような感情移入をすることもあるでしょう。しかし、「私たち」の想像力の及ぶことのできない領域(つまり、ロス)が存在することを、私たちが「見る」ことではなく、阿媽たちが「私たち」に「まなざし」を投げかけることで記憶すべきであると考え、「まなざし」というルビを入れました。

写真展は、「私たち」が阿媽たちと「出会う」場所ですが、それは「私たち」が彼女らの「歴史」を知る場所でもあり、その一方で彼女らの「まなざし」を受けることで、「私たち」の想像を超えた領域、つまり「喪失(ロス)」を心に刻む場でもありました。このように写真の中の阿媽たちと「出会い」、今後も喪の記憶を紡ぎだしてゆくことになる場所が、学生たちと私にとっての写真展でありました。(2005年12月19日)


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To 報告 阿媽たちのお話を聞く会 in 茅ヶ崎カトリック教会

学生たちの感想 写真展  証言集会