キム・スノク(金順玉)さん
1922年、北朝鮮平壌(ピョンヤン)生れ。
家が貧しく、幼いときから日本人の家に子守奉公に出た。その後も、中国東北部に売られたり等苦労をするが、20歳のとき、工場で働けるとだまされて中国東北の黒龍省東寧の慰安所に連行された。
慰安所では、日本軍人の相手を強いられ、病気になったり、お客をたくさん取れない女は主人にひどく殴られて、自殺者も出るほどだったが、将校専用の「慰安婦」になったので、少しはましだった。
将校の子を産んだが、家にも帰れず、生まれた子どもを中国人の養子にやって自身は石門子の慰安所に。ここでも軍医の子を産み、子どもは主人の養子にしたが、5箇月で亡くなった。
日本の敗戦後の混乱の中で、故国へ帰れず、そのまま東寧に残留して生活のために中国人と結婚した。後に離婚して、朝鮮人の男と結婚。2004年に夫が亡くなった後、息子や孫といっしょに暮らしていたが、死ぬまでにもう一度朝鮮の土を踏みたいと2005年秋、韓国に引きあげ、現在ナヌムの家に居住。
ヤスクニ キャンドル行動に参加したハルモニたち
2006年8月13日、ヤスクニ キャンドル行動へ参加するためにハルモニ3人が来日した。8月9日、韓国でも行われた世界連帯水曜デモの行動に参加し、その後、疲れていた身体をおしてどうしてもと日本にいらして、この行動に参加した。
もうひとり黄錦周さんも来日予定だったが、寸前に入院せざるを得なくなり、3人だけの来日となった。
暑い日が続いたが、ハルモニたちは14日一日中休みもせず、明治公園で行動を共にし、「YASUKUNINO]の人文字に加わった。
15日は、早稲田の女たちの戦争と平和資料館で行われたハルモニたちを囲む集いにも参加され、16日早朝の銀座デモに参加した。
イ・ヨンス(李容洙)さん
1928年、韓国大邱生れ。
貧しい家の一人娘だったが、1944年の秋、日本人にだまされて連行、1945年1月から、台湾で海軍の特攻隊基地のあった新竹の慰安所で、出撃する軍人たちの相手を強要された。
空襲下でも防空壕の中で軍人の相手をさせられた。
日本の敗戦後帰国したが、心と身体に負った傷のために結婚もできず、ずっと独り身のまま働いてきた
。日本政府の謝罪と補償を求める活動や、証言活動に積極的に参加したことから、生きた国際法の見本として慶北大学の学長から名誉学生の称号を与えられた。
キル・ウォノク(吉元玉)さん
1928年、北朝鮮平安北道熙川生れ。
1940年13歳のとき、旧満州(中国東北部)のハルビンに「慰安婦」として連行された。42年、性病にかかって一時帰国したことがあるが、その後再び、中国北部の石家荘に。
日本の敗戦により、1945年、引揚船で仁川に着いたが、北の故郷に帰ることができず、そのまま南の韓国に留まった。
忠清北道の温陽や富川で、雑貨商をしたり、いろいろな仕事をして生計をたてた。54年、養子を迎えた。
1998年に「慰安婦」であったことを申告。
現在、ソウルの挺対協の「ウリチプ」に住む。
阿媽とともに・台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会