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 年待って、言渡しは
     日本軍による台湾の性暴力被害者に対する東京高裁の判決に抗議する

 

 本日(2004年2月9日)、「台湾元『慰安婦』損害賠償・謝罪請求事件」に対する日本の東京高等裁判所が下した敗訴判決に接し、私たちは深い悲しみに襲われました。

 裁判長は判決文を言渡すと、阿媽たちや傍聴人が理解する間も与えないまま法廷を立ち去ったのです。残された人たちはただただ呆然とする他ありませんでした。
 盧満妹阿媽は涙を流しながら「こんな結果ならば最初から来なかった。」そして堪えきれずに日本語で思わず「日本政府はバカ野郎。人でなし。」と声を震わして言ったのです。「日本政府に罪がないならば私たち台湾人に罪があるというのか。なんでこんな目にあうのか」と話したのです。

 日本の高裁の裁判官は、「国家無答責」という法理論を理由に原告敗訴の判決をおこない、被害者にまたもや敗訴の苦痛をもたらしました。しかも、一審判決に引き続き、この「事実認定」すらしない敗訴という結果は、日本政府の終始一貫した残酷で冷淡な態度を代弁しています。地裁に提訴して以来5年近くもの歳月を経て得た結果が、このような人道と人権の尊重を無視したものだったのです。

 「わたしは絶対、受け入れない!」 この結果を受けて、台湾の元「慰安婦」の原告の一人鄭陳桃阿媽は、上告し、最後まで闘うことを強く主張しました。

彼女は言いいました――「わたしの一生の幸福は、すべて壊された。わたしは今でもひとりぼっちです。賠償金の額はどうでも、闘い抜かねばなりません」。これは元「慰安婦」の阿媽たちを今日まで支えてきた言葉でもあります。

阿媽たちは、すぐにこの現実を受け入れることができませんでした。
希望を胸に抱いて自分の耳で判決を聞こうと東京地方裁判所の
 法廷まできた盧満妹阿媽は、台湾に帰ると、飛行場で出迎えた支援の人々にむかって、堪えきれずに号泣しました。そして涙がまだ乾かぬうちに、泣きながらこう言いました―「最後まで頑張りますから、私たちが正義を取り戻すのを支援してください。このままでは死んでも諦めきれません」。


 原告である阿媽たちは、第2次大戦中の1940年代に受けた屈辱を50年間耐え忍んだ後に、やっと大きな勇気をもって名乗り出て、1999年になって、はじめて日本政府に道理を求める正義の道を進み、東京地裁に「日本政府国家賠償」請求を提訴しました。この訴訟は、年老いた阿媽たちに生きる勇気を与えたものの、延々と続く裁判の長い道は年老い衰えた身体をすり減らしてもいったのです。現在まで生き残っている阿媽は35名に過ぎず、平均年齢は82歳です。

 一昨年(2002年10月15日)、東京地裁は「台湾元『慰安婦』損害賠償・謝罪請求事件」に原告敗訴の判決を出しました。東京地裁の裁判官は無表情な顔で、わずか数分間で原告敗訴の判決を宣言したのです。被害事実さえ認定しない残酷な判決に、「慰安婦」支援団体の人々の心は激しい怒りに満ちました。そして一審判決の当日、元「慰安婦」の阿媽たちと、日本と台湾の支援団体の人たち約100人が、裁判所の外を1時間ほどかけて大声で訴えながらデモ行進をしました。
それから、わずか1年半近い、本日、東京高等裁判所は阿媽たちに、被害事実すら認めない無情な判決を再び下しました。戦後補償問題は何ら解決せず、阿媽たちの戦後60年近く続いてきた心の傷と、日本政府に対する恨みは、さらに深まるばかりです。

私たちは、日本の裁判官の良心と人間性を覚醒させることができると思いました。しかし、この一年余りのあいだ、東京高裁は台湾の原告が法廷で証言することを許可しませんでした。
原告の阿媽は、一度たりとも法廷で裁判官にむかって被害事実を陳述することができなかったのです。
日本は表面的には文明国家でも、人道と人権を軽視しているのです。

 私たちは最高裁に上告し、さらに多くの良心ある日本の国会議員にもはたらきかけ、司法と立法の両面で、60年来の未解決の戦後補償問題を解決するための努力をします。

 私たちは、日本の最高裁の裁判官が人間的な判決を出し、戦時中に性奴隷にさせられた被害者たちが、生あるうちに、実質的な賠償と、人間としての名誉と尊厳の回復を、法によって獲得できるようにして下さることを希望いたします。

                   台湾における元「慰安婦」支援団体

       「台北市婦女救援社会複利事業基金会」

                     2004年2月9日

台北市婦女救援社会福利事業基金会の声明