台北市婦女救援社会福利事業基金会が92年から実施した調査結果を、99年「台湾慰安婦報告」という1冊の本にまとめた。第1篇は「歴史背景」、第2編は「調査記実」第3篇は聞き書きなど、第4編は日本に対する賠償要求運動について述べている。以下は「調査記実」のなかの分析報告を翻訳したものを会報の2号に掲載したものである。漢民族の「慰安婦」調査に関しては、会報の4号に、原住民族の「慰安婦」調査報告は5号に掲載予定である。  
 なお、( )内の01,02などの数字は、調査対象者を特定しているもの。          


                  第二篇  調査記録   

       


                    台湾慰安婦調査分析記録     

           


 はじめに
 
第二次大戦の期間,日本が東南アジアの女性を徴集し従軍慰安婦にしたことは,争う余地のない事実である。歴史文献と各方面の証人の証明で,日本政府と軍関係者は,徴集・管理に関与したことを認めた。 1992年2月,伊東絹子議員が国会図書館で三通の電報を探しだし,台湾にも被害者がいることが証明された。台北市婦女救援基金会は,2月20日,ホットラインを開設し,元「慰安婦」の訴えを受けつけ,訪問調査をはじめた。王清峰理事長は,積極的に日韓両国を訪問し,資料を集めた。台湾政府も民意に応じて,3月12日にホットラインを設けるとともに,「台湾慰安婦専門委員会」をつくり,史実の調査と処理にあたった。 台北市婦女救援基金会は「台湾慰安婦専門委員会」の一員として,台湾地区の元「慰安婦」の訪問調査を委託され,責任を負った。第一段階の訪問調査は1992年3月から6月までで,この文章は,おもにこの段階の調査にもとづいてまとめたものである。聞き取りによって台湾の慰安婦の事実と特質,社会への影響の分析をこころみた。            
  
 調査対象

名のりでた人たちの状況はさまざまであったが,ここでの研究対象は,つぎの条件を満たす人たちに限定した。
1 台湾人であること。
2 健在で,直接話し合いのできること。
3 現在,台湾に居住し,接触に便利なこと。
4 訪問を望んでいること。5元慰安婦であること。したがって,台湾在住の韓国人,すでに亡くなった人,外国にいる人,名のりでたが実際は看護婦だった人などは,この対象から除外した。この条件で,3月17日から6月15日までに計13人の訪問調査をおこなった。   

   調査の目的,方法,内容  

台湾人慰安婦が日本軍に徴集され,「慰安」を強いられたという事実を確認し,日本政府に政治的,道義的責任を要求し,台湾人慰安婦の権益を勝ちとり,その人格の尊厳を守ることが,この調査の目的である。 直接一人ひとりと面談し,事実を書き留める。筆記と録音で,事実の記録と分析をおこなう。プライバシーを守り,被害者を再度傷つけないために,それぞれの状況と必要に応じて,直接家庭に訪問するか,人に知られない場所をえらぶかして面談する。 
訪問調査内容は,以下の理解と確認を含める・・1 基本資料 2 家庭背景・・状況と関係 3 徴集された事実・・徴集されたきっかけ,原因,方法,関係者,台湾を出るときのようす 4 「慰安」の事実・・「慰安」の内容,方法,境遇,環境,関係機関,終わりの原因と方法 5 現在の状況,帰台後から今日までの健康,生活,結婚,就職状況,人間関係と心理状態 6 なにを期待して名のりでたか・・名のりでた理由,期待・・日本人あるいは日本政府に対する態度と見解,およびわが国の政府機関に対する期待など。 「慰安」の事実に重点をおき,それぞれの過去の家庭状況と職業,徴集された当時の状況と事実,その後に受けた社会的心理的影響,現在の期待など,五つの重点について分析する。

   家庭状況と職業の分析

 台湾慰安婦の家庭状況と職業には,かなりの一致点がみられる・・

一,家庭背景・・ 
1 家庭の貧困 父母の仕事は,農業(01,11),漁業(19),労働者(13),芸人〔野台戯〕(07),風水師(13)で,収入は生活を維持するに足らなかったり,父母が早く亡くなったり(案02,03,04,06,08)して生活が貧しいことが,主な家庭背景である。 2「養女」または「トンヤンシー」(将来,息子の嫁にするために買う少女) 家庭が貧困なために,幼いときに養女(04,06,07,10,11)やトンヤンシー(12)にされて,転々と売られる現象(02,06,07,12)。

二,家族関係 
両親を早く亡くし,家計を助け,弟妹の面倒をみなければならなかった者(案02,07,12),あるいは近親者の養女となった者(案04,10)で,家族との関係は比較的よく,密接な関係がある。 2 両親を早く亡くし家が貧しかったため,転々と売られた者(02,07,12),あるいは虐待されて家から逃げたり,学校から逃げたりした者(08,11)で,家族との関係は比較的悪く,連絡は少ない。 したがって家族関係の良し悪しには影響がない。

三,職業 1旅館,茶室,バー,売春宿などで働いていた者は,客をとって身体を売っていたか否かにかかわらず,徴集の対象とされ,七割以上(02,03,06,07,08,10,11,12,13)を占めている。 2 医院で看護婦の仕事をしていた者は,「看護婦」の名目で徴集され易く,「慰安婦」にされた例(01,05)がある。  

 徴集状況と事実の分析

一,徴集のされ方 
1 騙されて  いかなる理由であろうと,騙されて従軍慰安婦目的で召集された例(01,06,07,08,09,12,13)。これらは,また三種類に分けられる。 1,単純に騙される(06,08,09,12)。 2,騙され,強制される・・看護婦をしていた病院で,直属の上司(日本人の男性看護婦長)に強制的に命じられる(01)。 3,騙されたうえ,売られる・・ブローカーに売りつけられた者(07),ふつうのバーでの接客だと思っていたのが,キャンプ内の兵士の「慰安」だった(07,13)。 2強制的に 役所がバーや売春宿の女性を無理やり抜き出して,強制的に慰安婦にする(03)
二,徴集したときの理由 
1 食堂,バーの給仕,酌(04,07,12)と接客(10,11,13)の名目。 2 看護婦(01,05,06,08)。 3 炊事(09)。
三,徴集を受けたときの理由 
強制的な場合を除き・・ 1 金のため(10) 2 おもしろそうだから・・海外はおもしろいと聞いているから,この機会に遊べるだろう(06,10)。 3 人間関係の重荷から逃れるため(13)。
四,徴集された人数 
すべての被害者が目撃した台湾人慰安婦を合計すると,少なくとも180〜225人以上(01,02,04,05,07,09,10,11,12,13)となる。同船あるいは同一地点での重複計算は避けた。
五,徴集を受けたときの年齢 
だいたい18〜25歳のあいだ(01,03,04,05,06,07,08,09,12,13)。
六,徴集にあたった人 
台湾人または日本人(01,02,05,06,07,09,12,13)。
七,徴集地 
台北(01,04,07,10,11,13),新竹(05,09),南投(02),屏東(06,08)。
八,契約時の手当て 
民間経営の慰安所の場合,台湾を離れる前に契約し(04,13),100〜500円の手当てを受け取っている(02,04,10,11,12,13)。しかし,この手当ては借金であって,海外で働いて返すことになっている。九,出入港 高雄(04,07,09,10,11,12,13)と基隆(01,02,03,05)。

   「慰安」の状況と事実の分析

一,状況・・ 
強制的に慰安婦にさせられた例が最も多く,8名(01,03,06,07,08,09,12,13)。
二,「慰安」地点・・ 
海南島が最も多く,6名(01,06,07,08,09,13),フィリピン5名(02,04,10,11,12),中国大陸,広州,上海3名(03,05,09),インドネシア1名(11),ビルマ1名(03),小琉球1名(02)。
三,慰安所の場所 
1 キャンプ内が最も多い(02,03,06,07,08,09,13)。 2 キャンプの外だが,近く(03,06)。 3 ふつうの民間の家または店(04,05,10,11,12)。
四,慰安所の種類 
1 軍営タイプの慰安所 純粋に「慰安」行為だけをするところで,最も多い(02,03,06,07,08,09,13)。この種の慰安所は,設備が粗末で,板で間仕切りして臨時につくったものである。 2 食堂バー・タイプの慰安所 給仕をしたり,酌をしたりしたあと,さらに「慰安」行為を強いられる(04,05,12)。 3 高級将校倶楽部の慰安所 レストラン,会議室,ベッドルームを備えていて,設備は豪華。ただ将校クラスだけが来て,食事をし,会議をし,「慰安」を楽しむ(10,11)。
五,経営方法 
1 日本軍の直接経営 キャンプ内にある慰安所は,すべて軍が直接管理する(02,03,06,07,08,09,13)。
2 民間経営 1,台湾人と日本人が共同出資で開設した倶楽部あるいはバー(04,10,11,12)。 2,台湾人が独自でつくったと疑われるもの(05)。 民間経営,日本軍の管理下であるかどうかは確かめられないが,慰安対象が日本人将校と兵士,台湾人軍夫に限られていた。
六,一日の「慰安」回数 
だいたいが3回から20回(01,06,07,08,10,12)。なかには一晩で60回という人(07)もいた。60回というのは,いままで調査したなかでは最多。
七,一回の「慰安」時間 
一定ではない。最短は3分(07),最長は一晩。後者の慰安対象は将校(07,10)。
八,「慰安」の方法 
1一般的な軍営タイプと食堂タイプの慰安所は,時間の制限があった(02,03,04,07,13)。「慰安」の回数が増えると,切符を買って並んで待つ。キップの値段は兵士が1〜2円,将校が約3円ぐらい(02,03)。キップを買うと,兵士も将校もコンドーム(サックまたはゴムといった)が配られた(04,06,07,10,12,13)。 2 高級将校倶楽部の場合は,特定期間内「恋人」と称する固定の相手をもたされた。このため相手は少ないが,軍隊が移動するときに相手が替わり,別の将校か軍医が「恋人」になった(10)。
九,「慰安」対象 
日本軍の将校,軍医,兵士,台湾人軍夫(04,06,07,08,09,10,12,13)。そのうち海南島の海口軍墾地では台湾人軍夫が主であった(07,13)。
十,身体検査と性病 
慰安婦はすべて定期的な身体検査を受ける。週一回(03,04,06,07,08)の場合や,半月に一回(12),月一回(02)のところもあった。身体検査とコンドームの配付を確実に実行したところでは,性病に罹った人はいない。
十一,慰安婦に対する態度 
一般的にいって,台湾人慰安婦は美人でおとなしかったので,日本軍に愛され,親切にされた(02,10,11,12,13)。しかし,おとなしく「慰安」に従事しないときは罵しられたり(06,07,13),平手打ちをくらったり(08)した。妊娠した慰安婦は7,8か月になるまで休ませてもらえなかった。産後もまた「慰安」をつづけなければならなかった。日本軍の兵士は,慰安婦を愛することは禁止されていたため,いっしょに逃亡したりすると,即座に首を斬られた(09)。
十二,当時の心理状況と処理 
1 恐れ  恐れは主要な反応である。恐れの原因は,見知らぬ環境,見当の着かない未来,いまだ経験したことのない性体験,束縛された自由,恥ずかしい仕事内容,大勢の見知らぬ相手への「慰安」など(06,08,09,12)。なかでも慰安所ではじめて性体験をした人(06,12),武力で脅迫された人(06)の味わった恐ろしさは深刻である。たとえば,最初の性体験のとき,恐ろしいので拒否すると,一日中,兵士に喉に尖った刀の先をつきつけられ,ふざけたようすで脅迫がつづけられる(06)ということなど。泣くことが,共通の感情の表現であった(06,08,09)。 2 苦痛  いちばん大きな苦痛は,脅迫されて,自由も尊厳もない恥ずかしい仕事内容からくるもの(06,08,09)であった。 3 心配  心配の主な原因は,家から遠く離れ,ホームシックにかかり(06,08,09),過度の心配から気絶して倒れた人(08)もいる。 4 寂しさ 最大の寂しさは,異郷に身を置き,家族や親しい人に会えないことで,ほかの慰安婦と「早く台湾に帰れるよう」慰めあうしかなかった(06,09)。 5 反抗「慰安」を拒否したり,恐れたりして反抗した例(06,07,08,13)。 6 消極的態度・・諦めと従順 最初の恐れ,苦痛,心配,反抗から,最後に抵抗できない環境を悟り,能力の限界から諦めと従順にたどりつく。たとえば,逃げだそうと思っても,「どうして逃げたらいいかわからず」,どうせ「ここで死ぬ」なら,「怒ってもしようがない」(01,08,09,13)と思う。そのほか,台湾にいたときに売春していた慰安婦は,騙されて軍隊につれてこられ,相手も回数も自分で選ぶことができない強制的行為に抗議するが,かえって日本軍将校に,ここは日本の軍隊なのだから,いうとおりにしろと脅迫された(07,13)。
十三,自由 
1 日本軍直接経営の慰安所では自由がない(03,06,08,09)。 2 軍墾地の場合,夜は「慰安」のため自由がないが,昼間は出入りが自由(07,13)。 3 民間経営の場合は比較的自由がある(04,10,11,12)。
十四,「慰安」の期間 
七ヵ月余りから六年のあいだ(01,02,03,04,05,06,08,09,12,13)で,そのうち前後6年がいちばん長い(08,09)。十五,「慰安」が終わった原因 1日本の敗戦で,台湾に送り返されたり,逃げ帰ったりした(01,02,03)。 2契約の満期(04)。 3個人的な理由。病気でたおれたり(05),台湾軍夫の夫が同じ軍墾地にいたため,顔を合わせるわけにはいかなかったり(07),読み書きができたため,会計に昇進したり(08)したためである。    

    社会的,心理的影響の分析  

ここでは,帰国後の生活状況,社会面,心理面などの影響について解説と分析をおこなう。
一,結婚の状況 
結婚は不安定で,うまくいかなく,未婚の独身と未婚の同棲が主である(02,04,05,06,10)。正式に結婚しても,配偶者が呑む打つ買うの道楽者であったり(07,08)と複雑で,2〜5回結婚した人(01,03,09)もいる。唯一夫婦が比較的円満な結婚は,配偶者が貧しいため,互いを思いあい助けあって,幸せな生活を送っている(12)。もう一つの例は,夫が妻の過去を知らないため,平穏な生活を送っている(13)。
二,仕事 
洗濯,飯炊き,掃除,手先の仕事などが主である(02,06,07,08,09,13)。ほとんどの人が,台湾に帰ってから接客や売春の仕事にはついていない(02,05,06,07,08,09,12)。
三,生活状況 
仕事のあるところには,どこにでも出かけていって生活を維持する。生活は孤独で寂しい晩年である(03,06,08,,9,12)。経済力の低さから,生活保護を受けている(02,08,09,12)。
四,健康状態 
「慰安」後は,不妊になるのが一般的(01,02,03,04,06,07,08,09,12)。13人中,9人が不妊(そのうち8人が比較的長いあいだ結婚生活,同棲生活をしており,1人が結婚生活が短い)で,7割近い比率になる。現在は身体も衰え,胃病,喘息,心臓,肺気腫などの病気をもっている(01,03,07,08,10,12)。
五,心理状態と社会への適応 
50年たった今でも,強烈な心理的影響は消えず,社会への適応に響く。 1 恥ずかしい思い 「慰安」の仕事をしたことが恥ずかしいことだと思い,「人にもいえず」,「評判を悪くする」のを恐れ,両親にも,夫にも,子供たちにも,友人,隣人にも知らせず,友人とのつきあいは少ない(04,06,08,09,10,11,13)。そのため社会に適応せず,「ずっと自殺したかった」(08)人もいる。ただ1人だけ,自分は「強制されたてやった,隣人に話すことも恐れないし,面子を失うことも恐れない」といい,顔を出して名のりでることを望んだが,その人の養女は子や孫のことを考えて,彼女が顔を出すことに反対している(07)。 2 嘆き 自分は「若いときには人に好かれ」,「悪いこともしたことはなく」,「怠け者でもない」,それなのにこのような目に遇った,「どうしてこんなに運が悪いのか」,だから「自分の一生には,非常に不満だ」と思っている(01,06,07,08,09)。 3 怒り 憤慨して,「不満である」,「許しがたい」,「償ってほしい」と思っている(06,07)。
六,人生観 
宿命だと思っている人が最も多く,「すべてが運命だった」,「運命にもてあそばれた」,「過ぎたことはしかたがない」,「恨みを語る相手がない」,どうせ「運命と諦めている」(05,07,08,12)。
七,日本人と日本政府に対する態度 
1 強制的に慰安婦にされたとき,大部分の人は日本人に対して非常に腹をたてたが,時がたち,今は怒りもなく,日本政府も恨んでいない(02,05,08,09,12)。「君子は古い過失を根にもたない」とか,「死ななかっただけでもよかった」という人すらいる(12)。 2 二人だけが,決着がついているとは認めてなく,仇をうって「鬱憤を晴らしたい」,「彼ら(日本軍)は国のためだといった。それでは,わたしたちはだれのためなのか?彼らのためだった!」と,いまだに憤慨する(06,07)。    

    なにを期待して名のりでたか

 大部分は賠償を要求している(02,03,05,06,07,08,09,11,12,13)。しかし,その態度は強く求めるのではなく,「韓国に賠償があるのなら,こちらもほしい」,「みんながどうするか見てから,自分もどうするかきめたい」という人が多い(05,07,09,11)。 そのほかの賠償要求の原因としては,補償としての賠償の必要という見方ではなく,生活を補助するための援助金と見ている(02,06,08,09,12)ことである。貧しくて生活が苦しい(02,06,08,09)からとか,病弱の自分が先に死んだら,孤独と貧乏のなかに残された夫になんとかしてあげたい(12)とか,もう少し金があったら,生活はもっとよくなるだろう(04,13)というものである。 二人の被害者はいまだに不平を抱き,賠償のほかに,政府が仇をとってほしいと,積もり積もった長年の憤怒をぶちまけた(06,07)。    

    結論  

この度の調査によって,台湾人慰安婦の存在を証明することができた。台湾人慰安婦は,ついに朦朧としたベールを棄て,はじめて歴史の舞台に姿をあらわした。日本軍の慰安婦制度がいかにして形成されたかについては,すでに批判の余地はない。しかしながら,台湾人元「慰安婦」のなめた苦労は,もはや軽視することはできない。日本政府は勇気をもって政治的道義的責任を負い,これ以上,歴史の事実から逃避すべきではない。わが国の政府はさらに積極的な行動で,社会大衆はさらに寛容な心で,ともに台湾人元「慰安婦」の人格の尊厳を守り,その権利を勝ちとるべく努力すべきである。 最後に,聞き取りによるさまざまな断面から,台湾人慰安婦の家庭環境が徴集に与えた影響,「慰安」事実,社会への適応などについて,おおざっぱに理解することができた。これらの相関連した指標は,後継者のさらに進んだ研究と分析を生みだすことができるかと思う。
〔陳美鈴『最初の台湾人慰安婦調査分析報告』(1992・6・30)よりの抜き書き〕

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