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今はじめて言うが、結審のあと、判決文が書かれる先に間に合わせようと、私は寺尾洋前裁判長に手紙を送っておいた。読んでくれることを期待したが、判決文から推測して、恐らく読まなかったのだ。あるいは、読んで見てこんなもの一顧の価値もないと判断したのかも知れない。2630字のその手紙をここで公表して、判決文との比較に供するのも一つのやり方だとは思うが、それは今でなくて良い。手紙の中にいろいろなことを書いたが、最後の段で特に力を込めて訴えたのは、地上の判決の上に超越者の審判があるから、この点をくれぐれも考えて欲しい、という願いであった。彼がその部分を読んで、この発信人は神憑りの精神異常ではないかと思うかも知れない、と私にも想像できたが、ホントウに神の審判を信じているし、これ以上の表現はないと思うから書いたのである。

彼に神を信ぜよと説教するつもりはないから、宗教のことを全部抜きにして良いのだが、人間の判決のすべてが、歴史の終わりとは言わず、歴史の中で、再審査される日が来ることは常識ではないか。だから、常識ある裁判官なら、自分の裁判が裁かれる日のことを思って、敬虔なまた謙虚な気持になり、少なくとも自分の判決文を自分で読み直し、後世指弾されるような間違ったところ、言葉の不十分なところを書き改めるはずである。
しかし、寺尾さんは読み直しもしなかったように思う。なぜなら、論理的不整合性が目につく。私が失礼なことを言っているなら詫びなければならないが、多分、分からないままに使ったのであろうと思われる法律用語がある。例えば「ユス・コーゲンス」。これを原告側の人々に説明できるだけの理解を持っているであろうか。

私自身一つの研究分野においては専門家であるが、全くの素人の意見にも聞くべき点が見出される場合のあることを知っている。専門家の中からしか意見を聞こうとしない閉ざされたシステムでは、ほんとうのことが見落とされる危険が大きいという事実に、今、各界の人々はかなり気がつくようになった。だから、陪審制度が必要だと叫ばれるのだ。制度化するかどうかは別問題として、専門家は自己の専門家意識を是正するためにも、外からの声を聞かなければならない。
正しい裁判官はそういうものなのだと経験者から教えられたことがある。だから今回も読んでくれることを期待しながら、勇気を出して手紙を書いた。もっとも、近年耳に入るのは、裁判官が判決文の作文書きに追われて、学びの時間を失ったり、熟考の余裕をなくしたり、上位の者の感情を害することを恐れるため、正義よりも自己保身を大切に考える人が圧倒的に多いという噂である。その噂はホントウのようだが、それでも聞く耳ある人が万人に一人いるなら、その一人のために労を惜しんではならない。

次に訴えたかったのは、裁判以外に救済の道のない弱い立場の人の訴えを、裁判所は聞くべきではないかという点であった。裁判というものは弱い人、貧しい人、寡婦、孤児のためにこそある、と聖書は教えている。原告は正義が蹂躙されたと訴えている。我々裁判の支援者も人権の甚大な侵害を見て、正義の喪失を放置できないので、支援せざるを得なくされた。今回の判決はこの要求に全然答えていない。正義の蹂躙がないと思うなら、そう主張し、この事件を正義の侵害と見る見方こそ筋違いであると指摘すべきであろう。あるいは、別の救済の道を示唆すべきであろう。その点に何の言及もないのは、これで正義なのだと開き直ることなのだが、それはつまり、正義が侵されているという感覚がないからではないか。
不正の除去のために裁判が起こされたのであるが、今般のような判決が出るようでは、裁判によって不正が増し加わったことになったのではないか。そういう裁判に意味があるのだろうか。寺尾さんは判決文を書きながら、むなしい思いに襲われることはなかったのか。こういう判決は裁判の自殺行為、法の精神を法の名によって抹殺することになっているのではないか。余計なお節介かも知れないが、法を知らない裁判の横行は、不法状態を招き寄せる結果を生むのである。

私もその一人であるような、法律についてズブの素人である部外者が、支援のために弱い人々の裁判に関わらねばならないのは、日本の国にとって大きい不幸があることの徴しではないかと思う。私自身は戦争に参与した世代の責任から、多くの犠牲があっても、積み残した負い目のために、この裁判を支援せずにおられない。しかし、私よりも若い人たちに私同様の罪責感を負わせるのは酷ではないか。すなわち、客観的には、直接戦争に参加した世代よりは、次世代の人の方が罪責は軽いからである。にも拘わらず、そういう労が続けられているのは、この国において裁判が正義の回復のために十分機能していないからである。裁判所があって、それが正しく機能しているなら、裁判支援という運動は不要なのである。

被告(国)側の最終準備書面を読んだとき、「国家無答責」という理論が堂々と書いてあったのに驚いた。こちら側の準備書面にはズッと高いレヴェルの理論を述べていて、私も同じ考えで、国家無答責とは、旧憲法下で通用した理論の亡霊だと判断していた。そして、その考えは正しいと今も思っている。第一審の判決文の中に国家無答責という文字を読んだ時には、幽霊に出会った以上の恐怖感に襲われた。何故なら、幽霊には実害がないが、判決は作用を及ぼすからである。しかし、亡霊に過ぎないものが力を発揮している現実があることを認めなければならないのかも知れない。大江山ニッケル鉱山の裁判の判決は、国家無答責を一応認めて置いて、この場合は不正があったから国家無答責に当たらないという論法を使った。亡霊が実在であるかのように認めて置くのも一つの戦術ではあろう。勝訴のためにこの戦術を用いることもあり得ると思うが、このような考えが国側から持ち出されるのは民主主義に対する挑戦であるから、長期的には、この考えの起きる根を絶やさなければならない。私の考えでは、1945年8月まで、日本には台湾に於ける法的統治の責任があったのだから、責任不履行の国家罪責を問うのが正義回復の道である。権力と民衆とが契約関係にあるということ、また法律が権力の制約のためにあるということが明らかになれば、国家無答責の亡霊は消滅するのであるから、我々はその日を来たらせるために努力しなければならない。

除斥期間、時効について、我々の裁判には乗り越えるに困難な障碍があることを認めなければならない。時効が法律的にどういう意味と目的を持つものであるかを先ず確認し、その方向に向けて解釈の努力をすべきであろう。法律のこの項目は、正義のために設けられたと理解するほかない。訴追の正当性に限界があることを思い知らせ、犯罪者の人権を保護するために時効という規定が設けられたのではないか。時効を敢えて主張することによって、被害者が一層傷つけられ、正義がさらに著しく傷つけられることがあるならば、時効の適用を外さなければならない。ドイツにおいてナチの犯罪には時効がないとして取り扱うようになった事例は、時効の規定が固定的なものでないことの証明になるであろう。
      判 決 文 批 判      渡辺 信夫(牧師)