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台湾元「慰安婦」損害賠償請求上告受理申立事件

 

上告受理申立理由書

 

平成16年4月14日

最高裁判    御中

 

上告受理申立人高宝珠ら代理人

                           弁 護 士   藍  谷  邦  雄                         

                         弁 護 士   小 野  美 奈 子

                          弁 護 士   笠  松  未  季 

             弁 護 士   清 水  由 規 子

                          弁 護 士   鈴  木  啓  文

                          弁 護 士   中  川  瑞  代

                           弁 護 士   番    敦   子

同復代理人              

弁 護 士   吉  田 江津

        

原判決には、以下のとおり、法令の解釈に関する重要な事項についての判断の誤りがある。

 

第1 事実認定について

申立人らは、いわゆる「慰安婦」として、第2次大戦中、日本軍により組織的に性的行為を強制された台湾在住の女性達である。

 ある申立人は、台湾から南方前線に「お国の為」「看護婦補助」などと偽計甘言を持って連れ出され、帰ることも出来ない状態で軍管理下の慰安所に監禁された。暴行強迫をもって性行為を強要され続けいわば「軍用性奴隷」として扱われた。しかも日本の敗戦後は現地に放置された。

 また、ある申立人は、農業によって細々と暮らしていたところを軍の有給の雑用にと欺かれ部隊内に連れ出された。そして、日中は雑用に、夜は、閉じこめられて強姦される状況におかれた。

 当時、台湾は、日本の植民地として支配されていたが、申立人らは、さらに性的にも支配され、蹂躙されたのである。また、台湾に駐留する日本軍の雑用にと連れ出された申立人らは、植民地であった台湾においても、特に差別されていた原住民の女性であり、原住民の部族は日本の占領政策に都合良く利用され、支配されていたが、さらに申立人らは、日本軍の部隊駐留施設において、性的な奴隷とされるというあまりにも非道な扱いを受けた。

 被害にあった当時の申立人の年齢は低いものは13〜15才と幼い者も含まれた。

  申立人らは、あまりにも過酷な経験から、日本国家に賠償を求めることはおろか、この経験を口にすることも出来ず、ひたすら心の傷として内に秘めてきた。

 しかしながら、人生の終盤に当たり勇気を振り絞って被害の事実を声に出した申立人らは、平成11年7月の提訴から5年近くこの裁判の行方を真摯に見守り、日本政府の誠意ある補償を心から待ち続けていた。そして、待ちながら亡くなった者もいる。

 戦後60年近く経た現在もなお、戦時中の申立人らのあまりにも人道に反した苛酷な扱いに対する謝罪も賠償も何もなされていないのである。

 そのような事実のもと、人権擁護をその使命とするはずの裁判所すら、申立人ら被害者に何の救いの途も与えていない。原審は全く事実認定を行なわず、ほとんど第1審の判断をそのまま採用した形式的な判断しか行っていない。

  本来、裁判とは、事実に対して法を適用し一定の判断を示すものなのであるから、当然事実認定が行なわれることが前提となっている(民事訴訟法第133条、149条、179条、247条等)。

  特に、本件では、申立人らの基本的人権が国家によって侵害されたという深刻な事案であるのに、それらの事実を確定させないままに、形式的な法律論のみで申立人らの請求を棄却している。原判決は、憲法(第32条)及び民事訴訟法の大原則を誤っており、その点で重大な違法がある。

 

第2 国際法について

 原判決は、国際法における一般原則として、「国際法は国家と国家の間の権利義務を規律する法であるから、国際法において、個人に対する義務・責任に関する規定がなされた場合も、それは国家が他の国家に対して、その義務・責任を履行することを約束したものである。」とし、「国際法上、個人の生命身体及び財産などの権利利益を保護する規定が定められた場合でも、国家による国際法に違反する行為に対しては、被害を受けた個人が属する国家が、外交保護権を行使して加害国に対する損害賠償等を求めるという方法によって間接的に被害の救済を実現することを予定しているにすぎず、被害を受けた個人が加害国に対して、国際法に基づいて直接に損害賠償等を求める権利が付与されるものではない」として個人が国際法に基づいて加害国に対して直接損害賠償請求を求めることを否定した第1審判決をそのまま維持している。

そして、個人が国際法に基づき、加害国に対して被害回復のための措置を求めることができるためには、その旨の特別の国際法規範(条約の定め又は国際慣習法)が存在することが必要であるが、本件の場合にはそのような国際法規範はないとして申立人らの請求を斥けている。

しかし、このような考え方は国際法の通説的解釈に反するのみならず、内外の実行例にも反するものであり、原判決には法令に関する重要な事項についての判断を誤っている。以下この点について詳述する。

 

1 国際法上の法主体性について

これまで何度も主張してきたとおり、国際法は、一人一人の個人が基本的人権の享有者として、その人権を保障されるべきこと、すなわち国際社会全体で守るべき個人の尊厳に最高の価値を置くことを人類普遍の真理として宣言し、国家に個人の人権の保障を義務づけている。

申立人らは、条約締結の権利など国際法上の国家としての権利を主張しているのではなく、上記の個人の自由への侵害に対する救済を求めているのである。即ち、国際法上保障された個人の権利を主張しているだけなのである。

国際法が個人の権利を保障し、国家に個人の権利保護を義務づけている以上、国際法に保障された個人の権利の侵害が生じた場合に、裁判所が、侵害者に対し被害者への賠償を命じ得る点では、相手が国家であると個人であると区別される理由はない。侵害された個人が国家に損害の賠償を求めうることは必然である。

この意味で、個人にも国際法上の法主体性があると言える。

 

2 外交保護権について

原判決は、国際法は、個人の国際法上の権利が侵害された場合に、その個人の属する国家による外交保護権の行使によって、間接的に被害者の救済を図ることを予定しているにすぎないと述べている。しかしながら、これは、外交的保護の解釈を誤ったものである。

国家は、自国民が外国の領域またはこれに準ずる地域において、身体や財産を侵害された場合に、その外国に対して当該自国民に適切な救済を与えるように、外交手段を通じて請求することができる。これがいわゆる「外交的保護」である。

一般国際法上、外国に所在する私人は、所在国の領域主権に服するのと同時に、自分の国籍国の対人主権に服するが、現実には、領域主権が対人主権に優先する。そこで、領域主権と対人主権のバランスをはかるためにできたのが外交的保護の制度なのである。

 外交的保護は、国家の権利であって、義務ではない。また、私人の蒙った損害は、国家が相手国に請求する損害賠償額算定の一基準となるにすぎず、また国家が受け取った賠償も、そのまま私人に引き渡される必要はないとされる。

   このように、外交的保護は、自国民たる私人の損害を通じて国家自身の権利が侵害され、その回復を国家自身が図る制度として発展を遂げてきたものであって、原判決が言うように、国家をいわば個人の代理人として個人の救済を図ることを目的とした制度ではない(安藤仁介、田畑・石本編「国際法」<第2版>1983年・有信堂高文社233〜235頁)。

そして、国家が外交的保護の権利を発動するには、二つの要件が必要とされている。その一つが、いわゆる「国内的救済完了の原則」であり、もう一つが「国籍継続の原則」である。

   「国内的救済完了の原則」というのは、国家が、その国民の受けた損害が外国の国際法違反の行為によって生じたと主張する場合には、当該国民がその外国において利用しうるあらゆる法的救済手段を尽くした後でなければ、外交的保護権を発動し、国際的請求を提出することができないとする原則である(太寿堂、前掲田畑・石本「国際法」<第2版>、236頁)。

 この原則からもわかるように、国際法は、個人の救済手続を第一次的に加害国の国内裁判所に委ねているのであって、それでも救済されない時に限って、国家による外交的保護の発動を認めているのである。決して原判決の言うように、国家の外交的保護権の行使による間接的救済のみを予定しているのではない。原判決が国際法の解釈の重要な部分を誤っていることは、明らかである。

 

3 「慰安婦」制度の違法性

 そして、何よりも原判決が看過していることは、「慰安婦」制度が国際法的な見地から考えて明らかに違法であるということである。

申立人らは、日本国の関与の下に「慰安婦」とされ、性行為を強要された。これらの行為が、奴隷禁止条約、強制労働条約、婦女売買禁止条約に違反し、通常戦争犯罪、「人道に対する罪」に該当することは明らかである。

先にも述べたように、個人であっても国際法上、基本的人権の享有主体であることは否定されないはずである。そして、申立人らはまさにこの基本的人権を侵害されたのであり、その違法状態からの救済を加害国に対して求めるのは当然のことである。

しかしながら、原判決は、相手方国の行為の違法性には全く論及せず、ただ、申立人らの主張する国際法は個人の請求権を規定するものではないという形式的な議論に終始している。これは、結局、国は、どのような行為をしても個人に対しては国際法上の責任を負うことはないのだと言っているのに等しいが、そのような解釈が許されるはずはないことは言うまでもない。

 

4 国家責任解除義務の効果としての請求権及びユス・コーゲンス(強行法規)違反に基づく請求権について

 原判決は、「ユス・コーゲンスとはいかなる逸脱も許されない規範として、また後に成立する同一の性質を有する一般国際法の規範によってのみ変更することのできる規範として、国により構成されている国際社会全体が受け入れ、かつ、認める規範のことである(条約法に関するウィーン条約53条、64条)」として、ユス・コーゲンスの存在自体は認めつつも、ユス・コーゲンスに違反した国家に対し、被害回復の措置をとるべき国際法上の義務までを課している強行法規的な国際法規範が存在しているとは認められないとする。

しかし、国際法上の強行法規の存在を認めながらもそれに違反しても何らの義務も科せられないというのであれば、一体その強行法規にどんな意味があるというのであろうか。

 日本軍が行った組織的な強姦行為がどのような観点からも許容されるものではなく、ユス・コーゲンス違反であることは疑いを入れない。とすれば、そのような強行法規違反の行為を行った国は、その違法状態を解消する義務を負うはずである。原判決の言うように強行法規違反を行っても何の責任も生じないのだとすれば、一定の行為を禁じる強行法規があるといっても何の意味もないのであり、違反のし放題という事態にもなりかねない。そのような事態を国際法が容認しているとは到底考えられない。違法状態を作り出した国は、それを解消する責任があると考えるのが国際法の常識である。

5 以上のとおり、原判決は国際法の重要な部分の解釈を誤っており、違法である。

 

第2 民法上の責任について

 

1 国家無答責について

原判決は、日本軍が「慰安所」を設置し兵士達が「慰安婦」に対して性的行為を強要したことは、国の権力的作用に該当し、本来的に私法原理の適用が排斥されるという国家無答責の理論を採用している。

その理由として、昭和22年に制定された国家賠償法附則6項において「この法律施行前の行為に基づく損害については、なお従前の例による。」とされていることを前提に、明治憲法下では行政裁判所法16条が「行政裁判所ハ損害賠償ノ訴訟ヲ受理セス」と規定し、行政裁判所に対して国家賠償請求訴訟を提起する途はなく、また、司法裁判所に対しても国家賠償請求訴訟を提起することも否定されていたということをあげている。

しかしながら、上記判決は以下に述べるとおり不当であり、法令の解釈の重要な部分を誤っている。

 まず、旧憲法下においても、国の不法行為責任のすべてが否定されていたわけではない。旧憲法下では国の不法行為を権力的作用と非権力的作用に区別して、権力的作用については国の責任を認めないものの、非権力的作用に基づく損害については民法の適用を認め、国の責任を肯定していた。

 しかしながら、上記の権力的作用、非権力的作用という区別は、理論的に明確に分けられるわけでなく、きわめてあいまいな概念である。

 大審院の判例においても、公物または営造物の設置管理の瑕疵にもとづく損害について、当初は権力的作用としていたが、後になって被害者救済の見地から非権力的作用として国の責任を認めたものがある(1896年4月30日大民録117頁、1916年6月1日大民録1088頁)。

 本件においても、旧日本軍の行為がどういう行為であったかをまず検証すべきである。しかしながら、原判決は、全く事実の検討をなさずして、判断している。

本件事案において申立人らが「慰安婦」とさせられた経緯を検討すると、国は、民間人に委託して募集・慰安所経営・管理を行わせていたのであり、権力的作用をもって徴用ないし動員する方策は用いていない。

これらの事実を無視して原判決が、一義的、形式的に国家無答責の法理により申立人らの請求を棄却したことは、法令の解釈について重要な誤りがあるといわざるを得ない。

また、仮に権力的作用と非権力的作用とが区別できるとしても、権力的作用について国が責任を負わないとすること自体不合理である。

国家無答責の理論といってもこの原則を明定した法律があるわけではなく、裁判所による解釈上の見解に過ぎない。従って、現在の国際法、国内法の動向を踏まえたうえで、従前の国家無答責論の流れに判例変更を加えることに何ら問題はない。

 基本的人権の尊重、国民主権、平和主義を原則とする現行憲法の下では、絶対主義的、国家主権的な国家無答責論は排斥されるべきであり、国家の権力的作用に基づく損害の発生についても民法の不法行為責任の規定が適用されると解すべきである。

また、日本が締結している条約及び国際慣習法は、国内の法律よりも上位の効力があるとすることには判例学説上異論がない。

したがって、国内法は国際法に適合するよう解釈されなければならない。

 そして、日本軍が「慰安婦」に対して行ってきた行為は、国際法上「重大な人権侵害」にあたり、ユス・コーゲンス違反であって国際法に違反する行為であることは、国際法の解釈上異論のないところである。これらの国際違法行為は加害国の国際責任を生じさせ、加害国には違法行為の結果生じた責任を解除させる義務が生じるということも、国際法の基本原則であって確立した国際法規である。加害国家の責任解除は、国際違法行為によって生じた被害を回復させることによってなされ、被害回復行為が行われない限り解除されない。

 とすれば、現行国家賠償法制定以前の事件である本件においても、国家無答責論によって国の責任を認めないのではなく、民法の不法行為責任を認めて被害回復を図るべきである。

 

2 除斥期間について

 第1審判決は、本件について、「除斥期間の適用を妨げる事情があると認めることはできない」(31頁)と判断し、原判決もこれを維持している。

 しかし、これは法令及び判例の解釈を誤った不当な判断である。

 民法724条後段について、平成元年12月21日最高裁第一小法廷判決は、これをいわゆる除斥期間として、同条の不法行為をめぐる法律関係の速やかな確定を意図する趣旨に則し、20年の期間は一定の時の経過によって法律関係を確定させるため請求権の存続期間を画一的に定めたものとした。

 しかしながら、同条が不法行為をめぐる法律関係の速やかな確定を意図するものであるとしても、本来、不法行為制度の究極の目的は、損害の公平な分担を図ることにあり、公平の観点こそ不法行為制度の理念であることから、この理念を損なってでも守るべき法的安定はありえないと考えられる。そして、この理念は、民法724条前段の3年の時効の判断においてばかりではなく、同条後段の解釈、判断についても、その前提となるものである。個別の諸事情によって、20年という時間の経過で権利行使を遮断することが、正義・公平の観点から許されない場合がある。

それを明らかにしたのが 平成10年6月12日の最高裁第二小法廷判決である。同判決は、「民法724条後段の規定の趣旨は前記のとおりであるから、右規定を字義どおりに解すれば、不法行為の被害者が不法行為の時から20年を経過する前6箇月内において心神喪失の常況にあるのに後見人を有しない場合には、右20年が経過する前に右不法行為による損害賠償請求権を行使することができないまま、右請求権が消滅することとなる。しかし、これによれば、その心神喪失の常況が当該不法行為に起因する場合であっても、被害者は、およそ権利行使が不可能であるのに、単に20年が経過したこということのみをもって一切の権利行使が許されないこととなる反面、心神喪失の原因を与えた加害者は、20年の経過によって損害賠償義務を免れる結果となり、著しく正義・公平の理念に反するものと言わざるを得ない。そうすると、少なくとも右のような場合にあっては、当該被害者を保護する必要があることは、前記時効の場合と同様であり、その限度で民法724条後段の効果を制限することは条理にもかなうというべきである。」として、除斥期間の適用を排除した。

 この判決は、具体的事情の如何によっては同条の適用が排除される得ることを明らかにしたのである。つまり、「著しく正義・公平の理念に反する」場合には、20年が経過したことをもって、損害賠償請求を遮断することはしないことを表明したものである。加害者が20年の経過によって損害賠償義務を免れるという事実と被害者保護の必要性を実質的に比較検討し、当該被害者を保護すべき特別事情がある場合は、あえて民法724条後段を適用しない、とした画期的判決である。

 そうであるならば、民法724条後段の適用にあたっても、事案の事実関係を確定し、特別事情の有無を検討することが必要不可欠なはずである。

 しかしながら、原判決は、本件について、何ら事実認定すら行わず、実質的な判断を一切することなく、形式的に除斥期間の効果を認めた。このような原判決は、上記平成10年最高裁判決をまったく無視し、その意義を理解しない不当な判決である。

まず本件の事実認定を行うべきである。

 本件を検討してみると、20年の期間の起算点を不法行為時とした場合には、本件提起までにすでに50年以上が経過している。

  しかしながら、本件は、除斥期間の効果によって権利行使を遮断した場合には、不法行為制度の公平という理念に反し、「著しく正義・公平の理念に反する」場合にあたる。

 申立人らは、日本軍の性的処理のいわば道具として、連行、監禁され、強姦と同視しうる性的陵辱を受けた。申立人らは、日本の敗戦に至るまで継続的に性的被害等を被ったのであり、その被害の程度は、その後の申立人らの人生を台無しにするほど深いものであった。そして、身体的、精神的被害は、戦後50年を経過した今でも、まったく慰謝されていない。一方、相手方国は、1993(平成5)年まで、いわゆる「慰安婦」問題に関して日本軍の関与を否定し、証拠を隠蔽しており、事実上、申立人ら被害女性の権利行使を妨げていた。

 さらに、当時の台湾では、女性に対する貞操の要請が強く、女性の貞操は家の名誉に関わることであることから、本件被害事実を公表することは、被害者本人ばかりではなくその家族も社会から軽蔑を受けることとなり、また、結婚等の家庭生活を諦めることを意味した。つまり、実際上、申立人らは、被害事実を隠してひっそりと生活しなければならなかったのである。そして、被害者である申立人らが、被害事実を訴えることができるようになったのは、1995(平成7)年に、台湾国内において、いわゆる「慰安婦」の調査がなされた時以降である。

 このように、本件は、除斥期間の効果によって、加害者である相手方国を保護すべき必要性のまったくない事案である。

 また、申立人ら台湾人は、明治以来日本の植民地の住民としての日本国籍を有していたという特殊事情がある。台湾と中国大陸との関係については現在なお不透明であり、台湾との関係について、日本と中華人民共和国との関係に含めて考えることはできない。このように、日本と台湾との関係には複雑な背景事情があり、それを象徴するように日本と台湾との間には、日本と韓国のような基本協定ないし条約等は存在しない。

 以上から、本件は、仮に不法行為時から20年の除斥期間が経過したとしても、その後の事情によって、申立人らは、権利行使することができなかったことから、除斥期間の効果は及ばない。

 また、除斥期間を認めたとしても、その起算点は、不法行為時ではなく、1995(平成7)年の台湾における調査開始時に求めるべきであり、いまだ除斥期間は経過していない。

 よって、いずれの解釈を取るとしても、本件においては、相手方国の民法上の不法行為責任は、除斥期間の適用はなく、申立人らは、相手方国に対し、不法行為に基づく損害賠償請求を有する。

 にもかかわらず、事実認定すら行わず、形式的に民法724条後段の適用によって、申立人らの請求権を遮断した原判決は、極めて不当な判決であった、被害者保護、人権擁護の視点のないものである。

 さらに言えば、本件は、国際法違反行為であり、本来、民法の時効・除斥期間の規定が適用されるものではない。国際法違反行為については、国に違法解除義務が生じ、解除するまで義務が消滅することはないから、時効・除斥期間が適用される余地はない。

 

第3 国家賠償請求について〜立法不作為の違法性〜 

 

原判決は「国会議員は立法に関しては、原則として国民全体に対する関係で政治的責任を負うにとどまり、個別の国民の権利に対応した関係での法的義務を負うものではないというべきであって、国会議員の立法行為は、立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行うというような例外的な場合でない限り、国家賠償法1条1項の規程の適用上違法の評価を受けるものではないと」し、「憲法の前文及び各条項において、原告らの主張するような被害者に対する救済立法をなすべき義務が憲法上一義的に定められていると解することはできない」とする第1審判決を維持し、それ以上の何らの判断もしていない。

しかし、これは憲法及び国際法の解釈を誤った判断である。

 これまで再三にわたり述べてきたとおり、申立人らは日本軍により組織的かつ制度的に「慰安婦」とされたのであり、これらが申立人らの基本的人権を侵害する行為であることは疑いをいれない。その意味で、国の行為は憲法の各条項及び国際法の各条項に違反する。しかもそれは重大な違反であり、放置してはならない問題であることは明らかである。

そして、これらの違反行為を救済する方法は謝罪し、賠償をするしかないのである。原判決は国家責任の解除の方法は多様であるというが申立人らに対して賠償を行わずして、他にいかなる救済の方法があるのか。

これまでに申立人らになんらかの被害の救済策が取られているのであれば、その内容が不十分なものであってもそれは国会の裁量であるという論法も成り立つが、全く何もしていないにもかかわらず国家責任の解除の方法は多様だから被害補償立法をしなくていいというのは明らかに司法の役割を放棄した無責任な結論である。

基本的人権の擁護、国際法の遵守を謳った憲法の趣旨からすれば、「慰安婦」制度の被害者である申立人らに被害の補償立法が行われなければならないのは憲法上一義的に明らかである。

原判決はこの点において憲法、国際法の解釈の重大な部分を誤っている。

 

第4 まとめ

 

申立人らは「慰安婦」という言葉からは想像もつかないほど、人間の尊厳を踏みにじられ、日本軍の性的道具として、その意に反した性行為を制度的に連続的に強要された。

 本件は、申立人らに対するこれらの行為が、国家、軍によって制度的に推進されたということに対する国の責任を問うものである。

 司法に求められているのは、まず、過去日本軍がどのような行為を行ったかを確定し、その事実に法律を適用することにある。本来事実認定がなければ法の適用もありえないはずである。

しかしながら、原判決は、何の事実認定もせず、1審判決をほぼそのまま引用し、自らは何も判断をしていないに等しい。

国が救済すべきなのに、何ら救済しないまま放置した申立人らを救うのは、裁判所の役割であるが、第1審、控訴審とも、裁判所の役割を放棄してしまった。そうであるならば、人権擁護の砦としての最高裁判所が、申立人らの被害者を正面から認定した上で、法の公正な判断によって、救済を行うべきである。そうでなければ、日本は、戦時中の蛮行の後始末を何もせず、被害者である申立人らを放置する国であることを示すことになり、国際的に、極めて人権感覚に乏しい国という不名誉なレッテルを自ら貼ることになる。

最高裁判所においては、原告憲法の大原則である基本的人権を尊重した、裁判所の本来の役割を尽くした判断を求める。

以上