平成11年(ワ)第15638号 損害賠償請求事件
最 終 準 備 書 面
原 告 高寶珠 外8名 被 告 国
平成14年3月26日
東京地方裁判所民事第26部合議部 御中
原告ら訴訟代理人 弁 護 士 藍 谷 邦 雄
弁 護 士 池 田 利 子
弁 護 士 小 野 美 奈 子
弁 護 士 笠 松 未 季
弁 護 士 清 水 由 規 子
弁 護 士 鈴 木 啓 文
弁 護 士 中 川 瑞 代
弁 護 士 番 敦 子
目次 第1 はじめに
第2 原告らの被害の実情
1 「慰安婦」制度等
2 台湾の事情の特殊性
3 原告らに対する侵害行為
4 各原告の被害
第3 国際法違反の効果
第4 法的責任
第5 まとめ
第1 はじめに
1 原告らはいわゆる「慰安婦」として、第2次大戦中に、日本軍の内部又は軍管理下に
おいて将兵の性的処理の為に置かれた台湾在住の女性達である。
原告らは「慰安婦」という言葉からは想像もつかないほど、人間の尊厳を踏みにじられ、
日本軍の性的道具として、原告らの意に反した性行為を制度的に連続 的に強要されたので
ある。
日本軍、日本の男性が有していた、女性の人格人権を無視し男が性的欲求を達成する性的
放縦、女性蔑視の思想(旧刑法の姦通罪・旧民法の戸主制において原 則長男を戸主とする
家督相続・妻の無能力の規程等がそれを徴表している)は個人の尊厳、男女平等の人権思
想に反し、女性にその人格を否定し苦渋を与えるこ とを本件原告の前に再確認しなければ
ならない。
性は愛する人との間で人を大切に思う心の具現である。従って意に反し強制される性行
為は、身体的苦痛のみならず、心に深い傷を負わせる行為であること は、原告らの苦渋に
満ちた証言が示しており、又女性の多くが知っていることである。
2 その上原告らに対するその行為は、国家、軍によって制度的に推進された性差別であ
るばかりでなく、本件原告らに対しては植民地支配の一環として行われたのである。
ある原告は、台湾から南方前線に「お国の為」「看護婦補助」などと偽計甘言を持って
連れ出され、帰ることも出来ない状態で軍管理下の慰安所に監禁され た。暴行強迫をもっ
て性行為を強要され続けいわば「軍用性奴隷」として扱われた。しかも日本の敗戦後は現
地に放置されたのである。
原告らの仲間の多くが、連行、監禁のひとかけらも人間扱いされない状況下で命を落と
したり故郷に帰還出来なかったりした中で、原告らは、かろうじて生き 残り台湾に帰った
人々である。
他方国は、台湾人の徴兵制により山地先住民の男らをほとんど強制的に「高砂義勇隊」
「軍夫」として戦地に追い立てた。
山地先住民の子女である原告らは農業によって細々と暮らしていたところを、働き手の
男を戦争にとられて、生活に困っていた。この状況につけ込み警察力で 軍の有給の雑用に
と欺き駆り出し、日中は雑用に追い使った。更に夜は、閉じこめられて強姦される状況に
おかれたのである。
日本の南方進出政策の兵站基地である台湾日本軍の性奴隷とされた。しかもこの蛮行は
少女であった原告らの居住地のすぐ近くの軍駐屯地で行われた。
いわゆる「従軍慰安婦」ではないが、原告らの証言のとおりこの事例は一箇ではなく、
異なる部隊で、異なる女性を被害者として何件もあるところから、台湾 駐屯の日本軍が特
有のやり方で集団で強姦をしたことが明白であり、軍ひいては国は慰安所設置と同様の責
任を負うものである。 被害にあった当時の原告の年齢は低いものは13〜15才と幼い
者も含まれ、その後の人生を含めそれは原告らの証言をもってするに悲惨というほか無い。
これら先住民の少女は植民地民として女性として、更に先住民族として2重3重の差別を
受け、その人格を全く省みられなかったのである。
3 原告らは、あまりにも過酷な経験から、日本国家に賠償を求めることはおろか、この
経験を口にすることも出来ず、ひたすら心の傷として内に秘めてきた。
原告らの戦後は経済的に困窮し、過去の経験に地域社会の中、人間関係において隠然と
圧迫される困難で苦渋に満ちたものであったがその生活に耐えてきた。
人生の終盤に当たり、勇気を振り絞って被害の事実を声に出した9人の原告は平成11
年7月の提訴から3年余この裁判の行方を真摯に見守り、日本政府の誠 意ある補償を心か
ら待ち続けている。
原告らの被害時からおよそ60年近く経過しようとしている。当時10代20代だった
原告も今は老いて、健康を害し裁判の結果を待ちきれない状況も生じて いる。
消そうとしても決して消し去ることも忘れることもできない悲惨な被害事実の記憶に
何十年も苦しみ後遺症や生活の困窮にさらされた長い人生を取り戻すこと はできない。
しかし、屈辱の過去を勇気を持って話した原告らにせめて命ある内に、日本政府の誠意
ある償いを与えるべきである。
4 本件原告らは、戦時下、日本の植民地であった台湾の人びとである。
被告政府は、アジア諸国との間で戦争賠償について条約、協定を締結してきており、政
府は戦争で被害を受けた個人に対する賠償を国家間の平和条約によって 処理されるとの
見解を示すが、日本と台湾との間では戦争と植民地被害についての賠償はそのレベルでさ
え為されていない。
即ち日本と台湾との間では1952年日華平和条約が締結されて戦争と植民地被害の
処理がされるかであったが、しかし、1972年日中共同声明によってこ の日華条約は遡
求的に無効になった。従って日本と台湾の間では平和条約による法的戦争処理さえ為され
ていないのである。
台湾の原告らはこの裁判でしか救済されないことを忘れてはならない。
5 被告政府は、目下も国外に自衛隊を派遣している。戦争は絶える事なき国際状況にあ
り、その戦時下で、女性は今も虐げられ続けていることが間断なく報道 されている。
現時、原告の被った様な被害が生じないという保証は全くない。
戦時下女性に対して侵した過ちを二度と繰り返さない為には、原告らの被った被害事実
から目をそらすことなく国家の関わった国際法に違反する不法行為であり、戦争犯罪であ
る事実を認め、国家として公式に謝罪し、彼女らの名誉を回復し正当な補償をすることこ
そ必須である。 民法723条の趣旨を汲み裁判所は損害賠償とともに原告らの名誉を回
復するために国に公式の謝罪を命ずるべきである。
かって被告政府は、被害事実「慰安婦」の存在を隠蔽し続けていたが、この過誤を繰り
返さない為に、あとに続く国民、即ち我々の子・孫らに教科書等で語り 継ぐことが必要で
ある。
そのためにも本裁判で原告らの請求を認容しなければならない。
原告らへ名誉回復、被告政府の公的謝罪及び賠償の実現こそ、恒久の平和を念願し、専
制と隷従、圧迫と偏狭を地上から除去しようと努める国際社会において 我が国が名誉ある
地位を占める真の民主国家となることに他ならない。
第2 原告らの被害の実状
1 「慰安婦」制度等
「慰安婦」とは、日本軍が管理・統制した戦地の「慰安所」で、日本軍人の「性的慰安」
つまり性交の相手をさせられた女性を言う。
日本軍による「慰安婦」政策は、1932年の第一次上海事変の時から1945年8月
の日本の敗戦まで続いた。中国、香港、インドシナ、フィリピン、ビル マ、タイ、沖縄そ
の他日中戦争以降、日本部隊が派遣された主要な地域には、例外なく「慰安所」が設置さ
れた。
女性たちは、強制あるいは虚偽の理由によって連行され、「慰安所」に集められ、長期間
にわたり「慰安婦」として、日本軍人との性行為を強要された。「慰 安婦」は、日本軍が
組織的に行った強姦行為であり、「慰安婦」とされた被害女性らは、組織的な性暴力被害者
であり「性的奴隷」であった。
軍「慰安所」の形態は以下にように分類しうる。
@ 軍直営の軍人・軍属専用の「慰安所」
A 形式上民間業者が経営するが、軍が管理・統制する軍人・軍属用の「慰安所」
B 軍が指定した慰安所で、一般人も利用するが、軍が特別の便宜を求める「慰安所」 設置場所は、大都市等にあって、駐屯部隊だけではなく、通過部隊が利用する場合や、前線基地に設置され、特定の部隊に専属する「慰安所」もあった。
「慰安婦」制度は、軍関係者には公知の事実であったが、日本政府は軍の関与を公式には否定していた。その後、1992年1月に軍の関与を文書の存在 が指摘されたことによって日本政府も軍の関与を認めたが、強制徴集については、責任回避の姿勢を継続した。その後、1995年7月、「お詫びと反省を表す 措置」として「女性のためのアジア平和友好基金」を創設したが、それは日本政府が法的責任を公式に認めた措置とは言い難く、逆に、被害女性の名誉を毀損するという反発を受けた。被害女性らにとっての被害の回復はまったくなされていない。
2 台湾の事情の特殊性
台湾は、1875年の日清講和条約締結以来、日本の植民地として日本によって支配された。
台湾の先住民族について、日本政府は「高砂族」と呼称して、理蕃事業としてその居住地を制限し、「撫蕃政策」の名の下、日本語教育を強制し、天皇崇拝等 の思想を押しつけた。そして、太平洋戦争においては「高砂義勇兵」 として駆り出したが、日本政府の台湾先住民族に対する対応は、彼らを「蕃人」とするものであり、未開・野蛮な民族という差別意識を強く有していた。
太平洋戦争期、植民地であった台湾は、南進を企てる日本軍の重要な基地であった。高雄港、基隆港は海軍の重要な港であり、軍艦や陸海軍徴用船の寄港地と なっていた。台湾自体が直接の戦場とはならなかったが、日本軍の重要な兵站として台北に台湾軍司令部が置かれ、重要拠点には部隊が配置された。これに伴 い、台湾内に「慰安所」も設置された。また、高雄や基隆という港から、台湾の多くの女性が南方に「慰安婦」として船で連行された。本件原告らの受けた侵害 行為によって明らかとなったように、南方戦線は前線基地であり、前線部隊のために設置された「慰安所」も、危険かつ劣悪な環境であった。また、船で激戦地 に連行された被害女性らは、実質的に逃げ出すこともできず、日本の敗戦による解放後の帰還も容易ではなかったのである。
敗戦後、台湾は日本の植民地支配からは解放されたが、中国内の紛争を経て現在の状態に至っており、台湾と日本とは、戦後問題において、直接の解決はなさ れていない。
3 原告らに対する侵害行為
本件原告らは、日本の南進政策に伴い、台湾内から南方のまさしく「慰安所」に連行されたもの(原告高、原告廬、原告黄、原告鄭、原告楊李)と、台湾の 先住民族で、居住地近くに駐屯する日本軍部隊に洗濯等の雑用のために雇われ、その部隊の軍人から組織的に強姦されたもの(原告曾、原告林、原告蔡、原告 鐘)とがいる。
南方の「慰安所」での被害 @ 徴集態様 原告らのうち、自ら志願して「慰安婦」となったものはいない。皆、虚偽の誘い文句等によって、「慰安婦」となることを知らずに、南方に渡ったものである。
例えば、南方で看護婦や給仕を求めているという募集に応募して徴集されたもの(原告廬、原告黄、原告楊李)や役所からの徴集を受けた者(原告高)、人身 売買されて連行されたもの(原告鄭)とがいる。皆、目的地につくまで「慰安婦」として働くとは考えてもいなかった。
これら原告に共通して言えることは、当時、年齢が若く(17歳から22歳)、貧しかったということである。また、原告鄭以外は、水商売の経験すらなかった。また、原告らは、南方の戦況についての知識はなく、前線地帯に行くという認識すら乏しかった。
徴集については、直接軍が行ったものではなく、日本人の民間人(原告黄、原告楊李)あるいは台湾人(原告廬、原告鄭、原告楊李)が行っており、こうした 事実も、原告らが通常の仕事の募集と思った一因でもあった。
原告らは、基隆(原告高)、あるいは高雄(原告廬、原告黄、原告鄭、原告楊李)から軍艦あるいは日本の徴用船で南方の「慰安所」に連行された。
@「慰安所」の設置等
原告らが連行された「慰安所」は、原告らを徴集した日本人や台湾人らが管理していたが、南方の「慰安所」は前線基地に置かれていることから、利用は日本 軍人に限られていた。さらに、日本軍医による性病等の検査が行われており、日本軍の関与は明らかである。 原告らが連行された後、「慰安所」が作られた場合もある(原告廬、原告黄)。
A 「慰安所」での状況
原告らは、1日に何十人もの日本軍人を相手に性的行為を強要されていた。
原告廬及び原告楊李は妊娠した。また、前線基地に送り込まれたことから、空襲や爆撃の被害もあり、原告黄は途中の爆撃で片目を失明し、原告高は爆音で片 耳の聴力を喪失している。
原告らは、船で連行されたものであり、航海そのものが危険を伴い、さらに到着後、前線基地に設置された「慰安所」での生活を強要された。原告らは、監禁 状態に置かれ、勝手に「慰安所」を出ることは許されなかったが、たとえ、「慰安所」を逃げ、台湾に帰ろうとしても、船の手配をしなければ帰れず、激戦の島 からの帰還は実際に不可能であった。
B 帰還
また、原告らは、日本の敗戦後、「慰安所」から解放されても、台湾に帰ることにも苦労した。日本軍は、原告らを性的処理の道具として酷使した が、敗戦後は自軍の撤退が最優先で、彼女らを帰還させることに積極的努力をせず、放置すらしている。連行の際は、言葉巧みに徴集し、軍の徴用船等に乗せ連 行したにもかかわらず、帰還についての配慮はほとんど皆無であった。
原告黄は、敗戦後、完全に放置された。原告鄭は、日本人兵隊の個人の努力によって赤十字の病院船に乗船することができた。また、原告高は日本の憲兵から 通行許可書等をもらったが、そのため、日本人と疑われ抑留されそうになった。また、原告廬は妊娠8か月のためようやく帰郷が許されたが、船賃はチップを貯 めた自費で払った。原告楊李はスラバヤまで船で行ったが、その後は自力で台湾まで帰らざるを得なかった。
4 先住民族女性の被害
@ 徴集態様
原告らのうち、先住民族である4名の原告らは、被害態様は極めて似通っている。
先住民族に対しては、居住地の日本の警察の派出所が支配を及ぼしており、住民全員を管理していた。派出所の日本人警官は先住民族の住民を掌握しており、 住民にとっては怖い存在であった。部族内に協力者を置いていた場合もある。
原告らは、皆、居住地の派出所の日本人警官から、駐屯する部隊の雑用の仕事に行くよう指示されている。原告らは、その警官の名を「コバヤ」(原告曾)、 「タケムラ」(原告林)、「ツバキ」(原告蔡)、「カワハダ」(原告鐘)と記憶している。原告らは当時若く(13歳から19歳)、働き手である男性は日本 軍に徴用されている等で貧しかった。こうした情報を、駐在所の日本人警官はすべて把握した上で、原告らに部隊で報酬を得る仕事をするよう誘ったのである。 当時の日本人警官からの誘いは、原告らにとっては命令と同じであった。
そして、原告らは、各駐屯部隊に仕事をしに行くこととなったが、その部隊は、紅葉村の「シマヤ部隊」(原告曾)、榕樹の「倉庫部隊」(原告林)、水源部 落の「倉庫部隊(大山部隊)」(原告蔡)、清泉の「ダキ部隊」(原告鐘)とそれぞれ異なる。
A 被害の実態
先住民族の原告らは、「慰安所」という形式ではなく、皆、日中は部隊の雑用をし、夜間は輪姦されるという性被害を蒙った。
被害場所は、部隊内の洞窟(原告林、原告蔡)というまさに部隊駐屯地内の場合か、仕事場の休憩場所(原告曾)、部隊そばの労働者寮(原告鐘)という、ほとんど部隊内と言うべき場所である。原告蔡をのぞく3名の原告らは、部隊内に住み込みで働いていた。まさしく日本軍部隊によって直接に監禁されていた性奴 隷状態であった。
さらに、通常の「慰安所」と異なり、避妊具等の利用がまれであったため、妊娠したものが多く(原告曾、原告林、原告蔡、原告鐘)、出産に至ったものもいる(原告鐘)。
B 軍の関与の直接性
4名の原告らは、部隊内で人間の尊厳を徹底的に蹂躙されたものと言えるが、このような軍による直接的な性被害が生じたのは、先住民族に対する日本軍あるいは日本人一般の偏見、差別によるものである。日本軍は、先住民族は「蕃人」であることから、何を行っても構わないと考えていたのである。
要するに、4名の原告らは、女性に対する差別、植民地住民に対する差別のみならず、先住民族に対する民族的差別を重層的に受けたものと言える。日本が台 湾を植民地とし、その先住民族に対する支配政策を徹底し、派出所の日本人警官が各部族を完全に掌握していたという社会構造そのものが、この性被害をもたらした背景である。
C 軍の関与の組織性
上記のとおり、日本軍は、先住民族の女性に対して、直接的に性奴隷としたのであるが、これは、各部隊が個別に行ったとは考えられない。
原告らは、別の場所に居住しており、被害を受けた部隊も異なるにもかかわらず、その徴集の経緯、被害実態は酷似している。台湾に駐屯する部隊のうち、先 住民族の居住地域近くの駐屯部隊が、任意に秘密裏に行った行為ではなく、台湾に駐屯する日本軍が、組織的に行ったものである。
その方法は、当初は徴集の際に話したとおりの雑用の仕事のみをさせ、給料を支払い、しばらく後に、ある夜、働いていた先住民族の女性数人すべてを強姦 し、以後、性的行為を強要し続けるというもので、4名の原告らに皆共通している。
台湾支配における軍と警察の密接な関係を根底とし、組織的に緊密に連携した上で、先住民族に対する日本人警官の威圧的な影響力を用い、若い女性を徴集し たと考えられる。徴集にあたった日本人警官は、当然、事前に事の次第を知った上で、軍に協力して先住民族の若い女性を送り込んだのである。
各部族を掌握している日本人警官から徴集されたということは、被害女性にとっては部隊を抜けだし家に戻ることは許されないことであり、また、先住民族の 部族は、女性に対する貞操意識が厳格であり、被害女性らが、被害事実を家族に話せないであろうことも、日本人警官は十分認識していた。軍は、こうした情報 を警察を通じて収集した上、若い原告らをまるで性的玩具とすることについて、先住民族との衝突を避けられると判断したものと思われる。問題の発生を避ける ため、しばらくは被害女性らを安心させるために何も行わず、落ちついたころに強姦行為を始めたという事実も、極めて巧妙な策略を示すものである。 以上のとおり、先住民族の原告らに対する日本軍の野蛮かつ愚劣な行為は、一部の駐屯部隊において突発的に起こったものではなく、周到かつ組織的になされ たものであって、軍そのもの深い関与は明らかである。
4 各原告の被害(個別の侵害事実)
原告高宝珠(甲26号証)
@ 徴集、連行
原告高は、1938年、17歳のとき、役所からの招集通知によって、広東に行って日本軍のために働くように言われそれに従い、他にも招集された18名 の女性と共に基隆から広東に渡った。そしてトラックで向かった金山寺で「慰安所」という看板を見て、初めて自分が「慰安婦」として連れてこられたことを 知った。
原告高は、金山寺から軍隊の移動に伴い香港から陸軍の船でシンガポールを経て、ビルマに連れて行かれた。途中、原告高の乗った陸軍の船が潜水艦の攻撃を 受け、原告高は、その轟音によって、右耳の聴力を失った。「慰安婦」として、軍隊と共に前線を移動していたことから、このような被害に遭ったものである。
A 「慰安所」で状況と移動
タツ部隊が駐屯するビルマの山奥に2棟の「慰安所」があり、台湾からの18名の女性以外にも、朝鮮から連行された女性たちも加わって、日本軍人相手に性 的行為を強要された。原告高は、山奥の前線に連れてこられ、食事も軍隊から渡された野菜や米で被害女性たちが自分たちで作るという閉鎖された監禁状態で あったが、実際にも安全な帰路はなく、帰りたくても帰れなかった。
その後、日本軍の撤退に伴い、女性たちもいくつかのグループに分けられ、タツ部隊と共にさらに山奥に連行された女性たちもいたが、原告高は、ラングーン に連れて行かれ、そこに設置された新しい「慰安所」で日本軍人の性的相手をさせられた。 B 帰還 日本敗戦後、原告高は、憲兵の指示によってベトナムに移動して船を待ち、結局、1947年に台湾に帰還した。帰還にあたっては、日本の通行許可書をも らったが、これを持っていたことから、日本人と疑われ、抑留されそうになったり、金品を巻き上げられたりし、苦労した。なお、原告高と共に、台湾から広 東、ビルマに渡った女性のうち、帰還したのは原告高を含め4名だけであった。
原告高は、日本軍と共に激戦地を移動し、性的行為を強要され、心身共に傷害を負った。 原告高の心の苦しみは癒えず、家庭的にも苦労をした。
原告 廬 滿妹(本人尋問調書)
@ 徴集、連行
原告廬は、1943年、17歳の時に、南方で看護婦の仕事をしないかと誘われ、字
の読めなかった原告廬は躊躇したが、お茶運びや厨房の仕事もあるからと言 われ、これに応じた。
原告廬は、高雄から30名くらいの女性たちと共に軍艦に乗って、海南島の楡林港に着き、そこからトラックで紅砂に行った。紅砂にはまだ何も建物はなく、 原告廬らが到着した後、ひと月ほどして板で作った20数個の部屋に分かれた平屋の建物が建ち、女性たちひとりひとりに1部屋ずつ与えられた。3日目には日 本軍人がやってきて、性的行為を強要された。原告廬はこのとき初めて、日本軍人の性的な相手をするために連れてこられたということを知った。原告廬の住む 建物は、「ケイナンソウ慰安所」と呼ばれた。原告廬は、逃げたくても、逃げようもなかった。
A「慰安所」での状況
原告廬らがいた「ケイナンソウ慰安所」の近くには、朝鮮人女性が連行されていた「慰安所」もあった。日本軍人は、海口や三亜から来ると原告廬は聞いていた。
原告廬は、「マサコ」という日本名をつけられ、朝の8時か9時ころから夜の12時まで1日15人から20人の日本軍人の性的行為の相手をさせられた。隊 長とか連隊長とかは、泊まっていくこともあった。
A 妊娠、帰還
軍人には、避妊具が渡され、それを使用していたが、それでも原告廬は妊娠した。そして、妊娠中、マラリアにも罹患し、医師の証明書を得て、チップを貯めた金で船賃を払い、ようやく帰還することになったが、マラリアのために乗船予定の船に乗り遅れ、その後の船で帰った。ところで、原告廬が乗船を予定していた船は、途中で沈没したと聞いている。 原告は妊娠8か月で、何とか台湾に帰還できたが、生まれた子供は生後38日で亡くなった。原告廬は、亡くなった子どもと同じ日に生まれた子どもを引き取 り、育てた。
Bその後 原告廬は、子どもを育てながらさとうきび畑などで働いていたが、38歳で結婚した。結婚して5年間はうまくいったが、夫が原告廬が「慰安婦」だったこと を知り、離婚はしなかったものの夫の心は離れてしまった。夫はすでに亡くなっているが、夫との間に小児麻痺の男の子がひとりいる。
原告廬は、夫の愛情がなくなったことで、辛い結婚生活を送らなければならなかった。騙されて海南島に連れていかれ、日本軍人によって「慰安婦」とされたことに、現在でも苦しみを感じている。
原告 黄 阿桃(本人尋問調書)
@ 徴集、連行
家が貧しかった原告黄は、18歳から台北に出て飯炊きの仕事をしていたが、1943年、20歳のとき、南洋で看護婦を募集していることを知り、看護婦で なくても炊事の仕事もあると聞いて友人と応募した。原告黄をはじめ23名の若い女性が集められ、日本人の男女に連れられて、高雄から海軍の徴用船「浅間 丸」(甲第25号証)に乗って、マカッサルに到着した。1週間後、マカッサルから次の船(青島丸)に乗って、バリクパパン(ボルネオ)に連行された。
バリクパパンでは毎日空襲があり、原告黄と一緒に連行された女性のうち3名が死亡し、原告黄も腹部と目に怪我をした。原告黄はバリクパパンの軍人病院で 治療を受けたが、腹部に爆撃の破片がささって、子宮をとり、左目は失明した。
A「慰安所」での状況
バリクパパンは空襲ですべて建物が壊れたため、原告黄らはマカッサルに戻り、マカッサルの山の上に移動した。空軍基地のそばにやしの葉で建てた建物があり、中は1部屋、1部屋区切れていて、原告ら女性たちは、ひとり1部屋あてがわれた。1週間ほどの間に切符売り場となる別の家が建てられ、「慰安所」という看板が立てられ、原告黄らは、何をするために連れてこられたかがわかった。この「慰安所」は「松乃家慰安所」と言った。
原告黄らは騙されて連れてこられたことを知り、高雄から自分たちを連れてきた日本人男女に抗議をしたが、彼らは原告黄らが決して帰ることができないこと を知っていることから、「お国のため」と言って、あきらめるように説得した。
原告黄は、「セツコ」という日本名をつけられ、毎日20数人の日本軍人の性的相手をさせられた。昼間は兵隊、夜は士官の相手をした。利用していたのは、 日本軍人だけだった。逃げたくても、外には軍人の見張りがおり、不可能であった。
原告黄らは、月に1回は軍隊内の病院で検査を受けていたが、病院内で、近くの「慰安所」に連行されていた朝鮮や日本人女性と会った。「慰安所」は、原告黄 らがいた「松乃家」のほか、朝鮮人女性のいる「はな乃家」と日本人女性のいる「月乃家」があった。
原告黄は、マラリアの罹患したこともあった。
B 帰還
1945年の敗戦後、日本軍は敗退し、原告黄らは放置された。原告黄らは、インドネシア現地の人に日本人と疑われ捕まったが、台湾同郷会の人に助けら れ、スラバヤで台湾への船を待ち、帰還した。
原告黄の両親は、原告がすでに死亡したものと思っていた。原告黄は、南洋で「慰安婦」にされた話を、両親には一言も言わなかった。バリクパパンでの空襲 による怪我で、子宮を取ってしまった原告黄は、子どもが産めなかったので、姉の子どものひとりを養子とし育てた。原告黄は、子どもも産めないし、精神的な 苦痛からも立ち直れなかったので結婚をしなかったが、友人に勧められ、38歳のときには結婚した。
C その後
原告黄は、連行途中の爆撃によって、子宮を摘出され、左目失明という被害を受けた。そして、それ以上に、騙されて南洋の最前線に連行され、「慰安婦」と されたことは、生涯消えがたい傷として残っている。原告黄は、このことについて、両親にはまったく話をすることができず、ひとりで苦しんでいた。
原告 鄭 陳桃(甲第27号証)
@ 連行
原告鄭は、実の両親が早く亡くなり、16歳のときに継母と叔父から第三者に売られた。そして、酒場を経営する者に売られ、女給として働かされた。原告鄭は、酒の相手はするが、客と性行為をさせられるというようなことは一切なかった。
1942年、原告鄭が19歳のとき、原告鄭は、さらに高雄の者に売られ、看護婦助手としてアンダマン(インド洋上の島)に行くよう命じられた。2年間ということであった。 原告鄭をはじめ21名の女性が高雄から日本の貨物船で、アンダマンに連行された。
A「慰安所」での状況
アンダマンには日本軍が海岸線にそって駐留しており、石川部隊という部隊の基地内の建物のひとつが女性たちに割り当てられ、女性ひとりに1部屋ずつ割り当 てられた。
原告鄭らは、上陸後すぐ、その場所が「慰安所」であることを知らされ、諦めるよう諭された。実際に、何と言っても離島であり、自分たちだけでは帰ること もできなかった。 原告鄭は、「モモコ」という日本名をつけられ、日本軍人の性的相手をさせられた。
原告鄭らは、1943年秋、ジョホールに移され、日本軍管理地域の倉庫建物に入れられ、この間チップを貯めた金もなくなり途方に暮れた。そこで、原告鄭 らは、生きるために致し方なく、倉庫の世話をしていた兵隊の世話で、日本軍管理地域内の「慰安所」である「見晴荘」において、「慰安婦」として入った。 ジョホールのその地域で、原告鄭らが生きるためには、「慰安婦」となるしか、方法がなかったのである。
A 帰還
1945年7月、原告鄭らは、日本軍の病院に所属するらしい者の世話で偽造の疾病証明書を作成してもらい、赤十字の病院船で高雄に帰還し、台北に戻った。 原告鄭の継母や叔父は、彼らが原告鄭を売ったことから、原告鄭がこのように数奇で悲惨な運命をたどったにもかかわらず、原告鄭が「慰安婦」であったことを 軽蔑した。原告鄭は、彼らを恨み、台北をすぐに出て働いて暮らした。28歳のとき結婚したが、子どもができなかったため離婚され、その後放浪して、45歳 で再婚した。2度目の夫はすでに亡くなったが、原告鄭は、夫には過去のことは話せなかった。
原告鄭は、未だにアンダマンやジョホールでの生活を思いだし、苦しんでいる。その後の人生の不幸もすべて、「慰安婦」とされたことに起因していると考えている。
原告 曾 雪妹(甲第28号証)
@ 徴集、連行
原告曾は、台湾先住民族のタロコ族で、この部族は、日本軍によって、原告曾が12歳のとき、花蓮県天祥の山地のシラク部落から、瑞穂郷紅葉村に移された。 原告曾が19歳か20歳の1943年か1944年ころ、幼なじみの友人と共に村の派出所の日本人「コバヤ」に呼ばれ、軍人が利用する警察の下のそばやで働くように指示された。
A 強姦行為
当初、仕事は朝10時から夜遅くまで続いた。原告曾を含め3人のタロコ女性が住み込みで働いていた。そばやを利用していたのは憲兵隊の「シマヤ部隊」で あった。
原告曾らが働き初めて2,3月経った夜10時ころ、原告曾らを管理していた憲兵の「ミズグチ」が、他のふたりを外に連れ出し、原告曾だけを休憩部屋に残し、部屋にいた4人の軍人たちとともに原告曾を押さえつけ、代わる代わる強姦した。その後、他の女性2人も同じように強姦された。
それ以来毎日、原告曾らは、そば屋の仕事が終わった後、夜10時から12時ころまで日本軍人に強姦された。原告曾らは「ミズグチ」らに管理されており、 1946年3月に部隊が撤退するまで続いた。 軍人らは、避妊具を用意することもなく、原告曾は3回妊娠して、3回流産した。家族に言うこともできなかった。
B その後
4回目の妊娠をしているとき、日本軍が撤退したが、原告曾は妊娠していたので父が恐く家にも帰れず、山の畑の小屋で子どもを生んだが、その子は生後3日で 亡くなった。 原告曾には婚約者がいたが、このような辛い体験をしたため結婚できず、その後結婚してもうまくいかなかった。原告曾にとっては忘れられない忌まわしい過去であり、この体験のせいか子宮にも問題があり、その後子どもにも恵まれなかった。
原告 林 沈中(本人尋問調書)
@ 徴集、連行
原告林は、花蓮県の榕樹の山の上に住むタロコ族に生まれた。後に部族は山の上から平坦な土地に移動させられ、原告林は、「尾崎信子」という日本名で、小学 校で日本語教育等を受けた。
1944年の12月、原告林が14歳のころ、派出所の竹村部長に榕樹の倉庫部隊に働きに行くよう言われ、他の3人の女性と一緒に雑用等の仕事を通いでする ようになった。その後、他の部族からも2人の女性が働きにきて、女性は6人となった。
A 強姦
しばらくは、当初言われたような掃除、洗濯、ボタン付け等の仕事であったが、3か月くらい経ったころ、倉庫部隊の「ナリタ」班長から、住み込みにするよう 言われ、部隊内の建物で住み込むようになった。何週間か後、夜9時ころ、原告林は、「ナリタ」班長に連れ出され、部隊内にある洞窟(トンネル)に連れて行 かれた。洞窟内には兵隊が居て、原告林は、その兵隊に強姦された。原告林だけではなく、その他5人の女性も、代わる代わる洞窟に連れて行かれ、同様に強姦 された。 原告林は、辛くてどうしていいかわからず、布団に入ってひとりで泣いた。 原告林は、3回生理が遅れたが、そのことを軍医に話すと、薬をくれて、それで流した。 一緒に働いていた女性のうちひとりは妊娠して出産した。 原告林らが、倉庫部隊の軍人から強姦される生活は、1945年8月まで続いた。
B その後
部隊撤退後も、原告林らは、部隊内で受けた体験を家族にも話すことはできなかった。原告林らは、一緒に働きに言って被害を受けた友人たちと会い、自分たち の不幸を嘆いた。 原告林はその後結婚したが、原告林の過去の噂で、夫との夫婦仲はうまくいかず、結婚、離婚を繰り返した。 原告林は、この過去を忘れることができず、また、体の不調も続いている。現在、原告林は、当時倉庫部隊が駐屯していた駐屯地の近くに住んでいるが、強姦された洞窟を見ると、50年以上も忘れることのできない過去を鮮烈に思い出す(甲23)。
原告 蔡 芳美(本人尋問調書)
@ 徴集、連行
原告蔡は、霧社春陽部落のタロコ族に生まれた。父は、霧社事件に参与し、日本人に殺された。その後、母も亡くなり、原告蔡は、叔母に引き取られ、銅門の榕 樹部落で暮らすようになった。
1944年、原告蔡が13歳のとき、銅門派出所の「ツバキ」という日本人警官に、西村部長の大山倉庫部隊に雑用の仕事をしにいくよう命じられた。原告蔡 以外にタロコ族の4名の女性が集められた。皆、若い女性であったが、原告蔡以外の4人は既婚者で、その夫たちは日本軍に徴兵等され、不在だった。
A 強姦行為 原告蔡らは、当初は、部隊内の掃除、洗濯物畳み、お茶運び等の仕事をし
ていた。通いで、朝8時から午後5時までであった。 1945年4月、西村軍曹が、原告らを休憩室に連れて行き、以後午後5時には帰らせないこと、午後10時まで留まることを命じた。そして、その夜、原告蔡 は、西村に洞窟に連れて行かれ、中にいた兵隊に強姦された。入口には警備の兵隊が立っており、逃げようにも逃げられなかった。原告蔡は、何をされるのかも わからなかったが、抵抗することもできず、ただ泣いていた。 原告蔡だけではなく、他の4名の女性も代わる代わる洞窟に連れて行かれ、同じように強姦された。 その日以来、部隊が撤退するまで毎日、原告蔡は、日中の仕事が終わった後、洞窟に連れて行かれ日本軍人の性行為の相手をさせられた。 原告蔡は、3回妊娠して流産した。友人に頼んで婦人科の医者の診察も受けた。
B その後 原告蔡は、1947年に結婚したが、部隊内での辛い体験を、夫にも話せず、
ひとり苦しんでいた。1992年に夫が亡くなる直前に、原告蔡はようやくこの事 実を夫に伝えた。原告蔡は、被害事実を1日も忘れたことはなく、現在は、信仰にすがって生きる毎日である。原告蔡が被害を受けた洞窟は、今も残っている (甲24)。
原告 鐘 榮妹
@ 徴集、連行
原告鐘は、苗栗県梅園村のタイヤル族に生まれた。1944年、原告鐘が15歳ころ、
派出所の日本人警官「カワハダ」が、原告鐘を含む3人に、清泉区に駐屯 する日本軍部隊の雑用の仕事をしに行くよう命じた。原告鐘はすでに婚約していたが、婚約者は日本軍に徴兵されていたことから、日本軍部隊に働きにいけば、 婚約者の消息がわかるかもしれない、とも期待し、その命令に従った。 原告鐘らは、途中まで「カワハダ」に連れられ、途中から迎えに来た3人の軍人(「スズキ」「キムラ」ほか)に連れられて、清泉区の「ダキ」部隊に行った。 そこで、住み込みで洗濯、お茶くみ、裁縫などの仕事するようになった。「ダキ」部隊は、清泉温泉区のすぐ横に駐屯しており、原告鐘らがいる労働者寮もその すぐ横にあった。
A 強姦
原告鐘らが働き初めてひと月くらい経った夜8時ころ、原告鐘は、キムラ班長から別の部屋に連れて行かれ、強姦された。原告鐘は抵抗し、大声をあげて逃げようとすると、キムラ班長に口をふさがれ暴力で押さえつけられた。そして、その夜、原告鐘は、6人の日本兵に強姦された。原告鐘以外の2人も、同様に強姦さ れた。 それ以来、昼間は洗濯等の仕事をし、夜は複数の日本兵に強姦されるという毎日が続いた。原告鐘らは、寮の敷地から外には出られず、監禁状態であった。原告 鐘は、1年くらい、清泉区にいなければならなかった。
日本兵たちは、避妊具を付けず、原告鐘は妊娠し、他のひとりも妊娠した。
B その後
解放されたとき、妊娠8か月となっていたもうひとりの女性は、解放後、人
知れず山中で出産したが、子どもはすぐ死んだ。原告鐘も妊娠していたことから、原 告鐘の母は、婚約者との結婚を急がせ、結婚後、原告鐘は日本軍人との子どもを産んだ。しかし、夫には子どものことも部隊内で受けていた被害についても、原 告鐘は、長い間話せなかった。 原告鐘の夫は、日本軍に徴兵され、南洋で辛酸をなめた。1996年、原告鐘が、このようにひどい行為を受けたことを初めて知った夫は、愕然とした。 原告鐘は、当時、日本軍人から受けた暴行が原因で、腰痛等に苦しみ、精神的な苦痛も続いた。
原告 楊李玉串(甲第29号証)
@ 連行、徴集
原告楊は、台北で生まれたが、生後すぐ養女に出され、幼いころから生計を助けるため、働きに出ていた。 1943年、原告楊が22歳のとき、幼なじみの女性に一緒に海外で働くことを誘われ、貧しかったために海外に行くことを決心した。原告楊らは、どんな仕事かははっきり聞いていなかったが、食堂での仕事もあると言われていた。事前に「慰安婦」になることは聞いていなかった。原告楊と友人は、台湾人男性の引率で、高雄から「カマクラ丸」で出発したが、他にも32名ほどの若い女性が一緒だった。 原告楊らは、ボルネオ島のパリクパパンに上陸し、そこからサンマリンラに移動した。原告楊らは、到着後、初めて「慰安所」で働くことを聞かされ、騙された ことを知った。
A「慰安所」での状況
原告楊は、当初、性行為の相手をすることを強く拒絶したが、強要されて応じざるを得なかった。 原告楊らは、サンマリンラ、サンガサン、ロアクルの3ヶ所の「慰安所」を交替で回り、性的行為を強要された。サンガサンには日本軍の司令部があった。ロア クルは、石炭採掘をする日本人及び現地人の性的相手もさせられた。 原告楊は、1日に何人もの客をとらされたため、たびたび子宮に炎症を起こした。原告楊は、約2年間「慰安所」で働いた。また、原告楊は1度妊娠し、流産した。
A 帰還
原告楊は、日本の敗戦後スラバヤに送られ、1年後、自費でようやく台湾に帰郷した。
B その後
台湾に帰った後、原告楊は、結婚の約束をしていた男性から、「慰安婦」をし
ていたことを理由に、結婚を断られ、実家も貧しかったことから、経済的にも苦しい生活を強いられた。その後、結婚もしたが、夫と の幸せな期間は少なかった。 原告楊は、南洋の2年間の「「慰安婦」としての生活を思いだし、以後も精神的に苦しい日々を過ごした。
5 損害
原告らは、上記の侵害行為及び戦後の体験によって、以下に述べる損害を蒙った。
「慰安婦」あるいは「性奴隷」状態に置かれたことによる精神的損害
@ PTSDあるいは抑うつ状態
原告らは、騙されて「慰安婦」あるいは「性奴隷」にされ、抵抗を抑圧された状況において、継続的に性被害を受け続けた。 まだ若かった原告らが、人間としての尊厳をふみにじられる性被害を受け、その後の人生は、一様に苦渋に満ちたものとなった。 心的外傷体験による心の後遺症である心的外傷後ストレス障害(以下「PTSD」と言う)が、現在ではよく知られているが、原告らになされた侵害行為は、か かる精神的被害をもたらした。 PTSDは、犯罪や災害による心理的外傷(トラウマ)によって、さまざまな精神的苦痛や適応障害を生じ(外傷性ストレス反応)、それが容易に克服されない 状態となり、病的な症状が長期間継続して、専門的治療を必要とするような高度のものを言う。
性被害の被害者は、ストレス反応を起こしやすく、PTSDあるいは抑うつ障害の克服には長期間を要すると言われる。恐怖感、自責感を強く感じ、うつ的に なり特に自殺企図をする、自己評価が低くなり、不安が増幅するというような精神面での大きな後遺症を残す。
原告らは、騙されて性奴隷状態に陥ったにもかかわらず、自責の念にとらわれ、幸せな家庭生活を自ら避けるなどの傾向が見られる。皆、被害を家族にも話せ なかったことから、自分で苦しみを抱え込んだため、何年たっても精神的回復はなされなかったのである。原告らが、被害事実を公表するまでに50年という時 の経過を必要としてことが、原告らの被害が、いかに精神的に深く、トラウマが強いかを表している。
A 二次被害
性被害に関しては、二次被害が起こりやすいということは、よく知られている。性被害という一次被害に加え、その後、さまざまな方面から、二次的被害を受けることが多いのである。被害者でありながら、社会から逆に批判されるという事態も起こりうる。そして、被害者はその被害を公表することをためらう。社会の 無理解によって、性被害者のストレス反応は、さらに強まるのである。原告らの多くが、「慰安婦」あるいは「性奴隷」状態であったことを夫が知って、離婚されたり、夫婦の愛情が欠如したりした、という経験を有している。
原告らは、日本軍、つまり日本によって、組織的に一方的に性被害を受けたにも関わらず、日本が公式謝罪もせず、何ら損害の回復措置を行わないため、二次 被害が拡大した。 日本の敗戦後56年以上が経過した現在も、日本がその事実を認め、適切な損害の回復措置を行わないのであれば、原告ら被害者の精神的回復はあり得ない。 A 身体的、経済的損害 原告らは、解放後の体調の悪化を訴えており、婦人科系の疾患等の訴えも多い。また、原告黄及び原告鄭は、連行中に大けがを負っている。
原告らは、解放後も、精神的損害を蒙ったため、安定した家庭生活を営めないまま、経済的にも困窮した生活を余儀なくされた。 これらは、原告らが、騙されて「慰安所」あるいは部隊に連れて行かれ、性的被害を継続的に受けたことに起因する。
まとめ
以上、原告らが受けた被害は筆舌に尽くし難く、その損害も算定が困難なほど大きいものである。
少なくとも、被告である国には、原告らの損害の回復のために、訴状、請求の趣旨記載のとおり、各1000万円の損害賠償を支払い、また、名誉回復のため に、公式謝罪を行う義務がある。
第3 国際法違反の効果
1 国際法違反
原告が「慰安婦」として性的奴隷状態におかれていたことはこれまで述べてきた事実から明らかである。これは当時の国際法においても重大な人権侵害といわなければならない(甲第14、15、20〜22号証)。そこで、原告がおかれた状態がいかなる国際法に違反するかを最初に述べる。
@
奴隷禁止条約違反
奴隷制の禁止は、最も早くから確立した国際慣習法であり、19世紀初頭からパリ条約、ロンドン条約、ワシントン条約で規定されていた。
1927年発効の奴隷条約は、その第1条で、奴隷制度ないし類似状態の発生を防止するために必要な措置をとることを義務づけている。日本は、この条約を 締結・批准していないが、奴隷制度の禁止については原告らが被害を蒙った1930年代には奴隷制の禁止は国際社会で確立した国際慣習法であった。
原告らの被害事実を検討すると、原告高寶珠、廬満妹、黄阿桃、鄭陳桃、楊玉串が、戦地に騙されて連行され、慰安所で兵士らの性処理の相手を強制された状 況は行動の自由、自己の性的活動の決定権も奪われたものでまさにこの条約に禁止される奴隷状態であった。 また、原告曾雪妹、林沈中、蔡芳美、鍾栄妹らは、軍隊の雑用などに従事しながら、兵士に強姦され続けている。このときの原告らも、逃れようのない強制のも とにあり、条約の禁止する奴隷状態にあたる。
国は、奴隷制度を防止すべき義務を負っていたにも係わらず、防止の義務を果たさなかったばかりか、自らの手で原告らを奴隷状態に置いたのである。
AILO29号条約違反(甲第16号証)
1930年強制労働に関するILO29号条約および勧告35号、36号が採択され、女子の強制労働を全面的に禁止し、違反した場合に刑事罰を科すべきことを定めたが、日本はこれを、1932年に批准している。
慰安婦としての性的行為を強制されたことが労働にあたることは、ILO専門家委員会の決議に照らし明らかである。 原告高寶珠、廬満妹、黄阿桃、鄭陳桃、楊玉串らは、暴力的制裁や脅迫的言辞、厳重な監視の元に性的行為を提供させられた。また、原告曾雪妹、林沈中、蔡芳 美、鍾栄妹らは、軍隊で雑用などの仕事に雇われながら兵士の性処理の相手を強制され、強姦されており、いずれの原告も強制労働をさせられたということは疑う余地はない。
よって、国が原告らを強制労働下に置き、性的被害を与えたことは、同条約違反である。かかる違法行為に対し損害賠償義務が生じること、これは時間の経過
によっては消滅しない義務であることは@で述べたとおりである。
B 婦人子どもの売買禁止条約
上記条約は1904年協定、1910年条約、並びに最終議定書、1912年の3つの条約からなる。1910年条約第1条は、「何人たるを問わず他人の情 欲を満足せしむる為醜業を目的として未成年の婦女を勧誘し、誘引し又は拐去したるものは、本人の承諾を得たるときといえ又右犯罪の構成要素たる各行為が異 なりたる国に亘りて遂行せられたるときと雖罰せらるべし」と定めている。 本条約は直接的には女性を性的行為に従事させるための売買をした者を加盟各国に処罰することを求めたものであり、加盟国が右のような売買をすることについては言及していない。
しかしながら、醜業目的のために女性を売買することを処罰しなければならないはずの国が、自ら右の売買に関与することが許されないのは当然である。右条 約は、国家がそのような行為に関与することが予想外のことであったため直接的には触れられていないに過ぎない。
原告高らはいずれも台湾の内外に欺もうや強制によって連れ去られ、性的行為を強制されたのであり、これらの行為が右条約に抵触することは明白である。
そして、これまで述べてきたとおり、「慰安所」の開設は日本国家の意思・政策により設けられたものであり、原告らについても移動、その後の性的行為の強 要について日本軍若しくは日本国家が直接間接に関与したものである。とすれば、日本国家は、右条約に基づき自らを罰しなければならないことになる。 しかしながら、日本は敗戦後も右の行為の責任を何らとることなく過ごしており、ここに日本の醜業条約違反がある。
C 通常戦争犯罪への該当
古くから民間人への攻撃、兵士による女性の強姦、強制売春等は禁止されており、これらは戦争犯罪として処罰されてきた。
成文法としては1907年のハーグ第4条約に付属する戦争の法規慣例に関する規則の46条があげられる。これは、条文上は「家の名誉及び権利」を尊重すべしという規定があるが、内容としては女性への強姦、強制売春をも禁ずるものと解されている。本来は女性への強姦、強制売春は「家の名誉」というようなものではなく、端的に女性に対する暴力と位置づけられるものであるが、1907年当時は、女性の地位が低かったため、女性個人の権利侵害として捉えられず、 「家」という概念を通して保護されたのである。 いずれにせよ第二次世界大戦時において、強姦と強制売春が通常戦争犯罪とされていたことは間違いない。連合国はこの大戦での戦争犯罪を処罰するために、各 国の戦犯法廷の管轄すべき事項をガイドラインとして策定したが、その中に強姦と強制売春が管轄事項となることがはっきり定められている。
そして、原告らに日本軍がなしてきた行為が強姦や強制売春にあたることは間違いなく、通常戦争犯罪に該当する。
D人道に対する罪の違反
東京国際軍事法廷条例第5条は、通常戦争犯罪を処罰することを定め、その定義として「戦争法規または戦争慣例の違反」とした。加えて人道に対する罪を付加 し、その定義として「人道に対する罪、即ち、戦前または戦時中なされたる殺戮、奴隷的虐待、追放、その他の非人道的行為」を定める。本件については、この 人道に対する罪の定義の中、奴隷化が該当する。その奴隷化の内容については先に奴隷制の元で検討したことと同一である。人道に対する罪の適用は武力紛争下 であると否とにかかわらないが、武力紛争下における奴隷化はより高度の内容をもって人道の罪とされる。 原告らは、強制的に台湾の内外に連れていかれ軍人の性的行為の相手をさせられ奴隷状態におかれた。 これは、まさに人道の罪に違反する行為である。
国際法違反の効果 以上述べてきたとおり原告に「慰安婦」として性的行為を強制したことは、当時の世界における国際法に違反する。これらの違反は重畳的に適用されるものであ り、いかにその重大な違反であったかを示すものである。 国の国際法違反に関する責任については、訴状で詳細に述べたとおりであるが、ここで再度述べると、「国際不法行為を行った国家は、それによって何らかの損 害を蒙った国家に対して国際責任を負う。即ち被害国には違法行為国に対する国際請求の権利が発生し、他方、加害国には違法行為の結果生じた責任を解除する 義務が発生する」のである(甲第14号証)。即ち、国にはあらゆる方策をもってかかる違法行為により生じた違法状態から正常な状態を回復する措置をとるべき義務がある。
ここで留意しなければならないのは、被害国に損害としては国家の直接の損害だけ出なく、個々に国民が受けた損害も含まれるということである。責任の解除を なすためには、個々の被害者も満足させるものでなければならない。ここでは、誰が請求をしうるかの前に国家の被害といえども、個々人の被害を下に算定されるのである。 本件のような重大人権侵害に関しては、個人は国際法の下で実効的な救済と正当な賠償を受ける権利がある。特に、国には積極的に国家責任を果たすための解除 措置をとる義務があることから、解除措置をとらない限りこの責任は消滅しない。すなわち国の国際法違反に対する責任は、消滅時効にかかるなど時間の経過に よっては消滅しない責任なのである。国は、過去の違法行為を認める限りは、いかに長時間が経過した昔のことであっても、責任解除の措置をとって違法状態を 解消しなくてはならないのである。
責任解除のために必要な国の行為 では、国はどのような行為を行えば、責任を解除されるのか。 奴隷制の禁止への違反、強制労働条約の違反については、賠償金支払いであり、また、公式の謝罪である。被害者に対してこれらの行為をして初めて被害回復措 置を講じ、責任を果たしたといえる。原告らは、性的陵辱による苦しみ、その後の生涯にわたり癒やされることなく残った身体的・精神的苦痛に対し公式の謝罪 と慰謝料の支払いを求めているのである。
また、人道に対する罪、通常戦争犯罪については責任者を処罰することである。この処罰がなされない限り、責任の解除はありえない(甲第19条、22 条)。 国際社会の中では、重大人権侵害に対してはその行為を処罰することが、その後の侵害を防止しうる重要なファクターであることが衆目の一致するところとなっている。この点に関し、現状では日本国内と国際社会の間に大きな認識のずれがある。
2 本件において国家責任を主張することの意味
次項の国の法的責任のところで詳述するが、国際不法行為においての国家責任の主張は以下のようなことを意味する。
まず、国家責任が解除されていない以上、国はその責任を解除する義務を有している。後の民法での不法行為の主張においても、解釈・適用に当たってはこの点が前提とされなければならない。即ち、上位概念としての国家責任を問う時に、国家無答責は適用されないことはもちろん、時効・除斥期間等によって請求 を退けるならば、新たな責任が生じる。即ち責任解除を怠った国家の行為とみなされる。
次に、被害回復は本件請求が認容されることで図られるとも言えるが、一方で立法行為によって回復が図られることが重要である。本件でも、立法不作為による損害賠償を請求するが、その場合国家の義務として国際不法行為の責任を解除するための立法との観点から立法義務を根拠付けることになる。
更に、前述のとおり責任者を不処罰のままでこれまで推移してきたことは不処罰自体が国際不法行為として損害賠償の対象となる。 このように、国家責任が解除されていない状態においては更に損害を加重せしめるような行為は国家としてはならないのである。 A 上記は、国際不法行為の国内法への間接的適用を述べるものであるが、そのことは個人が直接に加害国家に対して賠償を請求しうることと矛盾しない。
第4 法的責任
1 国際法に基づく請求
国際法に基づく賠償の根拠についてはこれまで訴状、準備書面で詳述してきた。本書面ではこれに付加して若干の主張を敷衍する。
国際不法行為に基づく個人から国家への請求 被告国は、国際法主体は国家のみに認められ、個人は国際法違反行為による損害賠償請求の主体たりえないと主張する。その根拠として、国際法が、国家と国 家の間を律する法であることを主張する。 確かに、国際法は、直接には、国家に国際法上の義務を負わせ、国家と国家の間の関係を律しており、条約締結の主体となりうるのは国家である。また、宣戦布 告・交戦権も国家に独占され、領土・領海への権利を主張する主体となりうるのは国家のみである。
しかし、国際法はまた、一人一人の個人が基本的人権の享有者として、その人権を保障されるべきこと、すなわち国際社会全体で守るべき個人の尊厳に最高の 価値を置くことを人類普遍の真理として宣言し、国家に個人の人権の保障を義務づけている。奴隷とされない自由、奴隷的労働を強制されない自由などの基本的 人権については、国家の特別の措置を待たなくとも、これを侵害された個人への救済を国家に直接義務づけている。
原告らは、この個人の自由の侵害に対する救済を求めているのである。原告らは、条約締結の権利など国際法上の国家としての権利を主張しているのではない。国際法上保障された個人の権利を主張しているのである。国際法が個人の権利を保障し、国家に個人の権利保護を義務づけている以上、国際法に保障された 個人の権利の侵害が生じた場合に、裁判所が、侵害者に対し被害者への賠償を命じ得る点では、相手が国家であると個人であると区別される理由はない。侵害された個人が国家に損害の賠償を求めうることは同様である。 国の主張は、別個の次元の問題を同一場面で論ずる誤りを犯しているものである。
1 強制労働に関する条約に基づく請求
先に若干述べたとおり、ILO条約は強制労働を科せられたものに対して報酬請求権を規定する(第14条)。容認される強制労働に対しては報酬規定があるのに違反の強制労働には何らの対価もないというのはいかにも不合理である。
この条項は租税としての強制労働を除き、「一切の種類の強制労働は使用せらるる地方または労力が徴収せらるる地方のいずれかにおいて類似の労働に付通常おこなわるる率より低からざる率において現金を以って報酬をあたえらるべし」とする。本件では、原告らの行為については対価を考えることはできず、通常の率 の報酬は考えるべきではないが、損害賠償としてこれを考えることはできる。その意味で本条約は現金の支払を規定しているものということが可能と考える。 ちなみに、同条約15条は労働災害について、強制労働が強要せらるる者及び任意労働者に等しく適用さるべしとして、補償を義務付けている。これらをあわせて考察すれば、本条約は強要された労働に対しても金銭の支払を規定していると言える。
よって、ここでは不法行為の一般理論とは別に強制労働に関する条約基づく請求を主張する。
2 国内法上の責任
@民法709条の不法行為責任
これまで述べてきたとおり、「慰安所」ならびに「慰安婦」の制度は日本軍が戦争目的追行のために設けた制度であり、慰安所の設置、慰安婦の募集への国 の関与し、原告らが日本軍が管理支配する慰安所あるいは軍の部隊内において日本軍兵士によって継続的に強姦されるという被害を受けてきたことは全証拠より 明らかである。 日本軍のこれらの行為は不法行為を構成し、原告らは被告に対し、民法709条に基づく損害賠償請求権を有する。 これに対して、被告は国家無答責の原則の適用、及び民法724条後段の時効乃至除斥期間の適用を主張するがそれは以下の理由より認められない。
A
家無答責について
A 日本が締結している条約及び国際慣習法は法律よりも上位の効力があるということについては、判例学説上異論がない。国内法は国際法に適合するよう解釈 されなければならないことは当然の帰結である。 そこで本件を検討してみるに、国が原告らになした加害行為の態様は、訴状記載のとおり各国際法規に違反し、国際慣習法上「重大な人権侵害」にあたることは 明らかである。 そして、これらの国際違法行為は加害国の国際責任を生じさせ、違法行為の結果を生じた責任を解除させる義務が生じるということも国際法の基本原則であっ て、確立した国際法規である。これらの責任解除義務は、違法行為によって生じた被害を回復させることによって始めて果たされる。 そして、民法の不法行為についても上記の国際法に合致するよう解釈されるべきである。即ち、国家無答責の理論も民法の一つの解釈の仕方に過ぎない以上、本 件に適用すべきではない。本件において、国は国際違法状態を解除しなければその義務を果たしたとはいえないのである。被告が原告らになした加害行為は国家 無答責の理論との関係でも上位規範たるべきユス・コーゲンスに該当する違法なのである。
B 女性を性的に陵辱することをもって達成される公務はあり得ない。本件のような、いかなる観点からしても国の権力的作用として保護される公務としての外 形を有しない違法行為に対し、公権力の行使に優越を認める国家無答責の理論を用いること許されない。本件は、たとえ明治憲法下であってもこの理論を適用することが許されなかった事案である。
C また、原告らが被害を受けた実体を見ると、原告高寶珠、廬満妹、黄阿桃、鄭陳桃、楊玉串は、戦地に連行され慰安婦として雇用され、また、原告曾雪妹、 林沈中、蔡芳美、鍾 栄妹らは、軍隊の雑用などに雇用され賃金の支払いを受ける関係にあったのであるから、いずれも、雇用契約関係から生じた被害、すなわち非権力的作用によって受けた被害として救済されるべき事案である。
B
民法724条の時効ないし除斥期間の主張に対する反論
国は、加害行為から本訴提起まで20年以上が経過しているので民法724条後段の適用により原告らの損害賠償請求権は消滅していると主張する。 しかし、民法724条後段をもって本件請求を排斥することは以下の点から許されない。
A 平成元年12月21日最高裁第1小法廷判決は 民法724条後段の20年期間は「被害者側の認識の如何を問わず一定の時の経過によって法律関係を確定 させるため請求権の存続期間を画一的に定めたものと解するのが相当である。」として「除斥期間の援用に対して信義則違反や権利濫用の主張をする余地はな い」と判示し、時効中断ないし消滅時効の援用を待つまでもなく権利が消滅するとの判断している。不法行為からの被害の回復の必要に対し、不法行為から20 年という長期間安定して継続した法的状態を維持するべきとの判断を示したものである。 しかし、上記判決は、本件のような事案、すなわち、戦後50年以上事実が隠蔽され請求権行使が不可能であったような事案までも対象として判断されたもので はない。すなわち、上記判決は、昭和24年の国の不発弾処理に際して民間人である被害者が消防団員として作業に従事していたところ至近距離で不発弾が突然 爆発し、重傷を負ったことにつき、療養見舞金、障害給付金、休業給付金、特別障害給付金が支払われていたところ、なお、28年を経過して国家賠償法に基づき損害賠償を請求した事案についてなされたものである。
これに対し、本件は、不法行為制度の究極の目的に照らし、本条後段を適用し法律関係確定の要請に沿うことよりも、損害の回復をして、適法状態を回復する 必要が大きい特別な理由のある事案である。本件のような重大な違法状態については、その違法状態を放置したままではたとえ20年以上の期間が経過したとしても到底法的に安定した状態であったとは言い難い。
しかも、被害者の権利行使は、加害者によって妨害されていたともいうべき状況にあり、権利行使は、不可能に等しい状況で年月が経過していたものである。ま た、本件原告らの受けた被害は、特殊であり、本件につき20年の除斥期間による権利消滅を認めないことによる法的安定への影響は微少であり、逆に、権利の 消滅を認め、女性に対する想像を絶する非道な扱いに対し「法による正義の実現」がなされず違法が正されず、被害も回復しないことにより「法に対する信頼」 が失われることによって法秩序全体に及ぼされる弊害はあまりに大きいというべきである。
最高裁第二小法廷は、平成10年6月12日判決で 民法724条後段の効果が生じない場合があることを判示している。すなわち、判示の事案は、予防接種 過により被害者が心身喪失の状況にあって権利行使すべき後見人が選任されていなかった場合であるが、被害者が、加害行為によって権利行使をしようにもでき ない状況にあった点を捕らえ、正義・公平の観点から権利行使を認めるべきとの判断に至っているものである。民法724条後段の適用につき、同判決は「心身 喪失の状況が当該不法行為に起因する場合であっても被害者はおよそ権利行使が不可能であるのに単に20年が経過したということのみをもって一切の権利行使 が許されないことになる反面、心神喪失の原因を与えた加害者は、20年の経過によって損害賠償義務を免れる結果となり、著しく正義・公平の理念に反するも のと言わざるをえない。」と判示する。
上記判決の論理に照らすと、本件は、まさに、724条後段の効果を否定すべき事案である。
本件原告らが今日まで権利行使しえなかった原因は、加害者である国の加害行為故である。 国は、本件加害の事実を40年以上の長期に渡って隠蔽し続け、1993年に学者の調査で動かぬ証拠を示されようやく事実調査をして加害の事実を認めたもの である。そして、一方、本件当時の台湾にあっては、女性の貞操は、家の名誉にかかわる事柄であり、女性が、慰安婦等として兵隊に性的陵辱を受けた事実が公 になれば到底当たり前の人間としての生活を維持することは不可能であり、生命の危険にも晒される状況にあったから、原告らが自ら、被害を訴えることは自殺 行為であった。そして、原告らは、1993年以降、国の関与と強制性が認めらたことに端を発した正義回復・名誉回復の社会運動によってようやく被害を訴えることが可能になったものである。 原告らの権利行使が困難であった状況は、まさに心身喪失状態にあった被害者に比すべき事案であり、かつ、この間加害者であった国が、被害者の権利行使を困 難ならしめる対応を取っていたとの事実を合わせ考えると、まさに、前記最高裁判決が指摘した「心身喪失の状況が当該不法行為に起因する場合であっても被害 者はおよそ権利行使が不可能であるのに単に20年が経過したということのみをもって一切の権利行使が許されないことになる反面、心神喪失の原因を与えた加 害者は、20年の経過によって損害賠償義務を免れる結果となり、著しく正義・公平の理念に反するものと言わざるをえない」場合に劣らず被害者救済の必要な 事案である。 よって、民法724条後段を適用して原告の請求を排除することは許されない。
原告らは、更に、同最高裁判決の河合伸一裁判官の意見を引用し、民法724条後段の適用が許されないことを主張する。すなわち、「不法行為制度の究極の 目的は損害の公平な分担を図ることにあり、公平が同制度の根本理念である。この理念は、損害の分担の当否とその内容すなわち損害賠償請求権の成否とその数 額を決する段階においてのみならず、分担の実現すなわち同請求権の実行の段階に至るまで貫徹されなければならない」、「これを、民法724条後段の規定に ついていうと、不法行為にも基づく損害賠償請求権の権利者が、右規定(民法724条後段)の定める期間内に権利を行使しなかったが、その権利の不行使について義務者の側に責むべき事由があり、当該不法行為の内容や結果、双方の社会的・経済的地位や能力、その他当該事案における諸般の事実関係を併せ考慮する と、右期間経過を理由に損害賠償請求権を消滅せしめることが前記公平の理念に反すると認めるべき特段の事情(以下「前記特段の事情」という)がある場合に まで、それを顧慮することなく、単に期間経過の一事をもって損害分担の実現を遮断することは、その限りにおいて、前記不法行為制度の究極の目的を放棄する ことになるからである。そして、この理は、国家賠償法に基づく損害賠償請求についても、そのまま適用されるべきものである(同法四条)。」
B 原告らは、1993年7月に日本政府が、慰安婦に関する調査をして軍の関与「強制性」を認め、1995年に台湾において婦援会が原告ら元慰安婦の救済 活動を開始したことにより、ようやく損害賠償請求権を行使することができるようになったものである。1995年まで、原告らが本件被害に対する賠償を求めて損害賠償請求権を行使することは不可能であった。
東京高等裁判所は、平成12年11月30日宋神道さんの損害賠償請求権につき、国際法上の国家責任の発生を認定し「国には軍関係者に対する処罰や被害者 救済の義務が生ずる」とし、「国は、慰安所経営者とともに監督者として不法行為責任を負う余地があった」としながら日韓請求権協定が発効した1965年か ら20年たった段階で請求権が消滅した。」と判断している。しかし本件台湾については、かかる協定ないし条約は存しない。 C 国際法に適合する解釈・適用 憲法98条は、条約に国内法に優越する効力を認めている。日本が締結している条約および国際慣習法は、国内の法律よりも上位の効力があることは判例学説 上異論がない。また、政府の公的見解も同様である。すなわち1981年国際人権規約委員会において、日本政府代表富川政府委員は「日本では条約は通常の国 内法に変形されるものではない。しかし、実務において条約はずっと以前から日本の法制の一部を構成すると解されてきており、それに相応する効力を与えられてきた」「換言すると、行政と司法当局は、条約の規定を遵守し、その遵守を主張してきたのである。条約は、国内法より高い地位を占めると解されている。こ のことは裁判所により条約に適応、合致しないと判断された国内法は無効とされるか、改正されなければならないことを意味する。・・・・・・・政府が条約を 侵犯しているということで政府に対して一個人が訴訟を起こした場合、裁判所は通常その場合個人に関係のある一定の国内法を見つけだし、この国内法に基づいて判決を下す。希な場合関係国内法を見いだせないことがある。このような場合は、裁判所は、直接その条約を援用し、条約に基づいて判決を下す。もし、裁判 所が、国内法と条約との間の不一致を発見した時は条約が優位する」と答弁している。
従って、国の国際違法行為に対して、国内の法理論たる国家無答責理論をもって責任を免れることは許されないのと同様、民法の時効・除斥期間の規定も適用 されない。国際違法行為に対して国に違法解除義務が生じ、解除するまで義務が消滅しないから、民法の規定をもって権利を消滅させ、義務を免れることは許されない。従って、民法724条後段の適用は排除される。
国家賠償法にもとづく請求
@ 国の立法義務 日本が、原告らを慰安婦としあるいは軍隊に雇用して陵辱した行為は、
前述のとおり国際法に違反する行為である。国には軍関係者に対する処罰や被害者救済の 義務が生じている。しかるに、被告国は、加害者を処罰せず、原告らに対し何らの救済措置もとっていない。
慰安婦とされ軍隊とともに故郷を遠く離れた戦地に連れ出された女性は、敗戦とともに戦地に放置されている。そして、身体的・精神的被害にたいする補償も 一切なされていない。また、戦後個人の被害に対してなされた幾多の補償立法についても原告らは、国籍条項により除外され、比すべきもない深刻かつ甚大な本 件被害について何らの救済策も講じられていない。
ところで、国は、本訴訟で争っているとおり、被害者の損害賠償請求権は、現行法上認められないと主張しながら、未だに何らの被害者救済のための立法をし ていない。しかし、日本国政府は、1993年8月4日内閣外政審議室の調査報告書ならびに河野洋平内閣官房長官談話に明らかなとおり、本件原告らの被害に 国が関わっていたこと、人権侵害が重大なものであり救済につき高度の必要性があることを認識していたことは明らかである。そして、ドイツの外国人被害者へ 謝罪・救済などの動向に照らしいかなる救済・賠償立法が必要かなど立法の方策も明らかになっていたのである。
国は、1993年慰安婦の存在を認め、国の 関与と強制性を認めている。そして、原告らに先立ち賠償を求めた多くの女性たちの訴えによりその被害の重大さも十分認識していたのであるから、救済立法の 必要も当然認識していたのであり、かかる立法が可能であったことは他の戦争被害への補償立法による救済の実体、我が国の戦後の経済発展の事実に照らしあまりに明らかである。
ところで、国は、個々の国会議員の責任を否定し、立法不作為の違法を否定するが、日本は、議員内閣制をとり、内閣に法案提出権がみとめられているのであり、国の施策に必要な場合、内閣は法案を作成しこれを国会に提出して立法を求めることができるのである。従って、原告被害者の救済につき国には、その救済 のために必要な法案を作成し国会に提出する義務があることも当然である。 A 不作為の違法 しかるに、国は、戦後50年以上、1993年原告らへの加害行為を認めて以後、各国慰安婦から訴訟提起され、被害の実態をつぶさに認識しながら10年近く を経過してなお、作為義務を果たしていない。
A 回復の未了
原告らは、日本軍の行為により筆舌に尽くしがたい苦痛を味わい、甚大な被害を受けながら未だに損害賠償を受けることなく被害を回復していない。この損害 は、国の立法によって得られるべものであるところ、国の立法不作為により未だ損害の賠償を得ていないのでその賠償を求める。
第5 まとめ〜国家責任と司法の役割
本件裁判では、加害者の被害回復義務という国家責任が問われている。では、その国家責任は具体的にどの機関によって遂行されるのか。
我が国の国家機関は、立法、行政、司法の三権が分立構造をとっている。 したがって、これら三つの国家機関それぞれによって遂行され、実現されなければならない。具体的には以下のとおりである。
1 立法府
事実の究明と被害者に対する公式の謝罪、及び被害救済を実現するために必要な立法措置、責任者に対する刑事処罰を行うために必要な立法措置を講じるべきである。
2 行政府
被害事実の調査及び証拠収集を行い、その結果及び資料を公表すること、被害者に対して公式の謝罪をすること、被害賠償のための特別の行政機関を早急に設 置すること、被害賠償の予算措置を講じ、賠償を実施すること、実施に当たって立法措置が必要な場合は立法府に対して必要な立法案を提出すること、犯罪者に 対する刑事訴追を行うこと、被害者の更生を援助するための措置を講じること、被害者の社会的名誉回復のための措置を講じること等をすべきである。
3 司法府
司法もまた三権の一つの国家機関として被害回復という国家責任を遂行すべき主体である。司法が果たすべき被害回復義務の内容を以下に述べる。
事実の公的な認定
「被害事実の公的な認定」が原告らの精神的被害の回復にとって非常に重要であることはこれまで述べてきたとおりである。 本件訴訟において原告らは日本軍による加害行為の全容及び原告らの被害の実態についてさまざまな立証活動を行ってきた。本件被害事実の立証は十分であると 思料する(被告も事実関係については争っていない。)。 したがって、裁判所においては、法的請求権についての判断の前提として,本件証拠に基づき被害事実の認定を判決文中において行うべきである。
責任の所在の明確化と謝罪 更に、右認定した事実についての国家責任の存否を明らかにすべきである。つまり、本件加害行為が国際違法行為に該当し、我が国が国際法上の国家責任を有することを判決文中に明記すべきである。
その上で、国としての責任の受諾を含む謝罪がなされていない現状に鑑み、そのような公式謝罪を命ずることも求められる。
損害の賠償 裁判所はあらゆる国際法及び国内法を適用して、原告が蒙った損害の賠償を命ずべきである。
被告は、国際法上、個人の直接的請求権は認められていない旨主張している。 しかし、この考えに裁判所が拘束されなければならない理由はない。現在の国際社会の動向は、個人の直接的請求権を認める方向にある。当裁判所がそのような 国際的動向を踏まえて国際法上の個人の請求に道を開く先駆的判断を下せば、国際社会はその勇気ある決断に対して賞賛をするに違いない。
また、原告らは、民法に基づいても損害の賠償を請求している。この場合にも国際法の概念に沿うよう民法を解釈しなければならないのである。
仮に、国際法や民法の解釈を駆使しても現行法上の解釈では損害賠償を認めることが困難であると判断した場合、裁判所としてはそのような現行法の限界即ち 立法の不備に対して建設的批判を行うべきである。つまり、前述のとおり立法府が被害の賠償のための立法の措置を講じないことは憲法上及び国際法上違法性を 帯びるとして国賠法上の責任を認めるべきである 。
まとめ
司法に付与された機能は、「法」に従って裁きを下すということである。 しかし、法がなければ被害の救済を放置していいということではない。 自ら違法行為を行っておきながら、「法」がないことを理由にその責任を逃れるなどということは、およそ、近代民主主義国家として許されるべき態度ではない。国家責任の一端を担う司法としても、その権限の範囲内で、できる限りのことを行うことが求められているのである。 今裁判所に求められているのは、安易に過去の判例理論や裁量権理論を繰り返すことではない。過去の判例理論の変更をも辞さず、新たな解釈の導入にも取り組む決断求められているのである。
裁判所においては、本件事案の構造、被害者に対する深い配慮を忘れず、正義にかなった法解釈をなされたい。
以上