(翻訳)
 BBCニュース
プロフィール:
エリー・ホベイカ


 エリー・ホベイカ。もとレバノン閣僚、もと親イスラエル民兵のリーダー。1982年のベイルートでのパレスチナ難民大虐殺で果たしたとされる役割のために主要に記憶されるであろう。

 ホベイカ氏45才は、右翼キリスト教徒レバノン民兵軍の諜報主任だった。この民兵軍は、1982年のイスラエルによるレバノン侵略中に起きたサブラとシャティーラの難民キャンプでの幾百人のパレスチナ人虐殺に責任がある。
 キリスト教徒民兵の指導者でありホベイカ氏の親友であった大統領当選者バシール・ゲマイエルの暗殺の後に、キリスト教徒民兵によってこの難民キャンプが攻撃された。
 しかしながら、ホベイカ氏は、この殺戮について自分が無実である「否定しえない証拠」をもっていると述べた。
 だが、彼はまた、サブラとシャティーラについて「私は命令を遂行していた。」と述べたことも知られている。

 彼は、昨年、ベルギーでの訴訟手続で進んで証言する意志があることを述べていた。この訴訟では、虐殺を生き残ったパレスチナ人たちが、イスラエル首相アリエル・シャロンを人道に対する罪で告発しようとしているのである。シャロン首相はレバノン侵略時の国防相であった。


‘ホベイカは危険を感じていた’

 フランスの報道機関AFPによれば、ホベイカ氏はあの虐殺について開示すべき「新事実」をもっていて、「脅威を」感じていると、ベルギーの上院議員に語った。
 その上院議員ジョウジー・ドゥブレによれば、知っている事実をすべて直ちに明らかにしないのは何故かと尋ねたところ、ホベイカ氏は「それは裁判のためにとっておくのだ。」と述べたという。

 シャロン氏の関与を調査したBBCドキュメンタリーが昨年放送されたが、その中で、あるイスラエル兵士が証言したところによると、ホベイカ氏は、難民キャンプで捕らえた50人の女性と子供をどうすべきか一兵士に尋ねられていたという。
 そのイスラエル兵士によれば、ホベイカ氏は「私にそんな質問は二度とするな。何をすべきかは、はっきりとわかっているだろう。」と答えていたという。
 その兵士によれば、ホベイカ氏の民兵たちは、その時、騒々しくどっと笑ったという。

告発と否定

 ホベイカ氏は、パノラマ・ドキュメンタリーとのインタヴューを断ったが、BBCの特派員との会見に応じた。
 「私は戦争犯罪人ではない。私は自分を戦争犯罪人とはおもわない...。私は国際法廷をおそれない。」とホベイカ氏は特派員に述べた。

 レバノンの15年にわたる内戦が1990年に終結した後、ホベイカ氏は、100万人の難民を再定住させることを担当する政府閣僚となった。
 「戦争には戦争のルールがある、そして平和時にも平和時のルールがある。」とホベイカ氏はその時のコメントで述べている。「戦争は終わった。今や私は自分の努力を、レバノン人が戦争によって被ったことを克服する手助けをすることに集中する。」
 彼は、また「私はモンスターではない。」とも述べていた。


イスラエルからシリアへ

 他の多くのマロン派キリスト教徒と同じように、ホベイカ氏も最初は、シリアの支配の脅威とみなしたものに敵対してイスラエルと同盟を結んだ。
 しかし、イスラエルが、彼やレバノン民兵軍の他の指揮官をパレスチナ人や左翼やイスラム教徒と戦うべく訓練した5年後には、ホベイカ氏は、シリアとの新しい、より持続的な同盟をうち固めていた。
 彼は、死の時まで、シリアと密接な関係にあるレバノンの有力者であった。


恩赦

 ホベイカ氏に対する譴責のいくつかは、1991年に議会を通過した内戦当時の犯罪に対する恩赦でカバーされた。
 ホベイカ氏は、かつて大統領候補とみなされたことがあるが、2000年に議席を失った。1992年と96年に当選していたのだが。

 ホベイカ氏の殺害は、レバノン内戦を特徴づけた幾千万の爆撃と暗殺の記憶を再び甦らせた。
 この国の敵対しあう民兵団は、暗黒街のギャングのようなやり方で政治的敵対者を抹殺した。二人の大統領と一人の首相が暗殺された。
 ホベイカ氏の爆殺は、ベイルートでは1994年以来の大きなものである。
 ホベイカ氏の以前のボディガードの一人は、1980年代の暗殺を命じたのはホベイカ氏自身であったと述べている。


(翻訳:事務局 YK)



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