小泉首相の靖国参拝に明確な違憲判決
−−率先して憲法を守るべき立場にある首相の、やりたい放題の違憲・違法行為に厳しい批判−−


1.はじめに−−もはや裁判官すら認められなくなった、権力者たる首相による違憲行為・違法行為の連続とエスカレーション。

 2004年4月7日、福岡靖国訴訟の判決において、福岡地裁の亀岡清長裁判長は、小泉首相の靖国神社参拝を「憲法で禁止されている宗教活動に当たる」と、明確に違憲判断を下しました。裁判の目的である損害賠償請求そのものは棄却されましたが、4月15日、原告は「実質勝訴」と判断して控訴しない方針を固め、この判決は確定しました。(形の上で「勝訴」した被告側からは控訴できないので。)
 小泉首相は、これまで、自らの靖国参拝が、公式参拝か私的参拝かを問われたとき、繰り返し「私はこだわらない。首相である小泉純一郎が参拝した。」(2002年8月13日)、「答えないことにしている。どう判断されてもいい」(2004年2月27日)などと答えてきました。憲法に抵触する恐れのある公式参拝をはっきりと否定しなかったのは、首相の公式参拝を求める日本遺族会のような人々の票を失いたくないという配慮からであったと思われます。しかし、今回の判決に際して初めて、小泉首相は、「私的参拝」であったと言いだし、「伊勢神宮参拝」とどこが違うのかなどと主張して、今後の靖国参拝の継続を表明しました。 
 しかしながら、いまさらそうした言い逃れをすることは許されません。小泉首相がなすべきことは、これまでの行為が憲法違反であったことを真摯に認め、靖国参拝を中止することです。一国の首相が国の最高法規に違反するという恥ずべきことを行い、それを司法判断によって指摘されたにもかかわらず、居直り続けるとはどういうことでしょうか。これは自衛隊派兵を憲法に違反していると指摘されても、居直り続ける姿勢と全く同一のものです。

 「憲法の隙間」「常識」などの言い方で自衛隊を侵略軍化し、ついには憲法を公然と破ってイラクに戦闘部隊を派兵して平然としているこの国の首相。この首相のやりたい放題がメディアから批判されない異常さ。選挙でも国民からとがめられないと見るや、益々その違憲行為をエスカレートさせる首相の破廉恥さ。まるで液状化し始めたかのような「法治国家」。もうこれ以上、権力者たる首相による違憲行為・違法行為を許すことが出来なくなった。これ以上権力者によるやりたい放題を許せば、もはや「法治国家」ではなくなる。−−今回の判決を下した裁判官はそのような危機感を持ったのではないでしょうか。
 本判決の意義はいくら強調しても強調しすぎることはありません。小泉政権の下、自衛隊のイラクへの派兵で、戦後初めて本格的な形で兵士の“戦死”が現実のものになろうとしています。小泉首相の靖国裁判は今後相次いで結審を迎えようとしています。軍国主義化・反動化の嵐の中で、“戦争神社”(war shrine)と呼ばれている靖国神社とその周りに結集する右翼反動勢力が活発化しうごめく中で、この画期的な判決が出たのです。−−私たちは、この実質勝利を何としても、次の前進に生かして行かねばなりません。

 ここでは、この歴史的とも言える画期的な判決を、出来るだけ判決の具体的な内容に則して紹介していきたいと思います。


2.原告の訴えは訴権の濫用に当たるか。

 原告の訴えに対して、被告は「訴訟の名を借りて、被告小泉の有する信教の自由を制限しようとするものであるから、訴権の濫用として不適法である」と主張しましたが、裁判所は、原告が「被告小泉が内閣総理大臣の職務として本件参拝を行ったことにより精神的損害を被った旨主張して損害賠償を請求するものであって、被告小泉が一人の自然人として私人の立場で本件参拝を行った旨主張して損害賠償を請求するものではない」と認め、「訴権の濫用には当たらない」と結論づけました。
 裁判所は、原告が主張してもいないことを被告が勝手に決めつけて訴えの趣旨をねじ曲げていることに対して、厳しい態度を取りました。


3.靖国神社とはどのような性格の神社か。

 損害賠償責任を判断するための前提となる認定事実として、裁判所が靖国神社の沿革と性格について示した文章は、靖国神社の本質を示し、なぜ原告らが首相の靖国神社参拝に特にこだわるのかを明白に示すものとなっています。伊勢神宮や明治神宮参拝も、厳密に言えば政教分離原則に抵触します。しかしながら、訴訟をもってしてその違憲性を認めさせ、今後の靖国参拝を差し止めさせたいという強い衝動力を原告らが抱くのは、靖国神社が「軍の宗教施設」であったという事実にあり、今日もその性格を維持し続けているからです。

 「靖国神社は、日清戦争及び日露戦争を経て、これらの戦争における戦死者を祭神として合祀することによって、戦死者を慰霊顕彰するための軍の宗教施設としての役割を果たした。」
 「靖国神社は、第1次及び第2次世界大戦中も、臨時大祭を執り行うなどして戦死者を祭神として合祀し続け、国家神道の精神的支柱の役割を果たした。また、国家神道に対しては事実上国教的な地位が与えられ、キリスト教系の学校生徒が神社に参拝することを事実上強制されるなど、他の宗教に対する迫害が加えられた。」
 戦後、靖国神社は「民間の宗教団体である神社本庁に所属しない東京都の単立の宗教法人」となり「国家神道の廃止により一切の国家的性格を喪失し、同時に近代天皇制下で続けられてきた祭神の合祀も国家の主体的な援助の下でなされることはなくなった。」
 しかしながら、宗教法人となった靖国神社は、その規則等に定められた趣旨から、「戦前の靖国神社との継承性が謳われている。」
「靖国神社は、戦後も合祀祭を執り行い、戦前の基準を踏襲して軍人軍属、準軍属その他を合祀の対象とし、昭和53年には、戦後のいわゆるA級戦犯とされた者も合祀し、平成14年1月1日現在、合祀者数は246万6000柱(うち約210万柱は第2次世界大戦による戦没者)に上っている。なお、靖国神社は、空襲による一般市民の戦没者は合祀の対象とはしていない。」


4.執拗な国家神道復活の動き。

 さらに、本件参拝に至る経緯として、裁判所は、戦後、靖国神社を再び国家護持の対象とする運動が絶え間なく続けられてきたことを示しています。
 日本遺族厚生連盟(現在の「財団法人日本遺族会」の前身)が戦犯者の合祀と靖国神社の慰霊行為への国費の支弁を要求したことにはじまり、国会議員らも加わって靖国神社の国家護持運動がおこったこと、靖国神社の国家護持を求める「靖国神社法案」の国会提出(4回出されたが、結局審議未了で廃案)、三木武夫の「私的参拝」にはじまる現職総理の靖国参拝、そして中曽根康弘の「公式参拝」にいたる流れが示されています。
 「なお、中曽根康弘の上記参拝については、慰謝料の支払を国や中曽根康弘個人に求める国家賠償請求訴訟が複数の地方裁判所に提起され、そのうち大阪地方裁判所のした判決に対する控訴審である大阪高等裁判所は、同参拝は憲法20条3項所定の宗教活動に該当する疑いが強く、同条項に違反する疑いがある旨判示した。」


5.憲法違反の疑いを顧みず、まるで司法を挑発するかのように参拝し続ける小泉首相。 

 現職総理大臣の靖国神社参拝は、憲法違反の疑いがあると判示されたにもかかわらず、小泉首相は、自民党総裁選の討論会において「尊い命を犠牲に日本のために戦った戦没者たちに敬意と感謝の誠を捧げるのは政治家として当然であり、内閣総理大臣に就任したら、8月15日の戦没者慰霊祭の日にいかなる批判があっても靖国神社に参拝する旨述べ」、内閣総理大臣就任後もその考えを変えることなく、靖国参拝が憲法違反だとは思わないという主張を繰り返しました。

 2001年8月13日、小泉首相は靖国神社への参拝を行いました。これに対して、内外からの抗議や懸念の声が相次ぎ、同年11月1日、「被告小泉が靖国神社に参拝したのは政教分離規定に反し違憲であるなどとして、慰謝料等の支払いを被告国や被告小泉に求める国家賠償請求訴訟」が、福岡、大阪、松山の各地方裁判所に提起されました。
 こうした批判にもかかわらず、2002年4月21日、2003年1月14日、2004年1月1日と、小泉首相は、4度の靖国参拝を繰り返し、いずれも「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳し、私費で献花料3万円を支払いました。


6.小泉首相の行為は明確な憲法違反。

  この小泉首相の行為について、裁判所は次のように判断しました。

(2)本件参拝の職務行為該当性について 
 国家賠償法1条1項にいう「職務を行うについて」とは、当該公務員が、その行為を行う意図目的はともあれ、行為の外形において職務の執行と認めうる場合をいうと解するのが相当である(最高裁昭和31年11月30日第二小法廷判決・民集10巻11号1502頁)。本件参拝については、前記認定事実によれば、被告小泉は、公用車を使用して靖国神社に赴き、秘書官を随行させたこと、被告小泉は、「内閣総理大臣小泉純一郎」とあえて内閣総理大臣の肩書きを付して記帳し、また、「献花内閣総理大臣小泉純一郎」との名札を付した献花をしたこと、本件参拝に先立ち、官房長官である福田康夫は、本件参拝に関する「小泉内閣総理大臣の談話」を発表したこと、本件参拝後、被告小泉は公的参拝か私的参拝かについてはこだわらないものであって、内閣総理大臣である被告小泉が参拝した旨語り、公的参拝であることを明確には否定していないことなどが認められ、これらの諸事情に照らせば、本件参拝は、行為の外形において内閣総理大臣の職務の執行と認め得るものというべきものであり、同条項の「職務を行うについて」にあたると認められる。

 ここまでは、大阪訴訟の判決で示された判断と同じですが、大阪訴訟ではここで立ち止まってしまいました。(「小泉首相の靖国参拝違憲アジア訴訟の判決に際して」参照)
 しかしながら、この福岡訴訟では、さらに踏み込んで、憲法20条3項における政教分離規定に違反するという違憲判断を示しました。
 そもそも、現行憲法においてなぜ政教分離規定が設けられたのか、その歴史的意義が次のように述べられています。

(ア)「「宗教的活動」(憲法20条3項)の意義
 わが国では、過去において、大日本帝国憲法に信教の自由を保障する規定(28条)を設けてはいたが、その保障は、「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」という同条自体の制限に服していただけではなく、国家と神道が密接に結びつき、国家神道に対して事実上国教的な地位が与えられ、これに対する信仰が強制され、また、一部の宗教団体に対して厳しい迫害が加えられたこともあって、不完全なものにとどまった。日本国憲法は、その反省の下に、新たに信教の自由を無条件に保障することとし、また、明治維新以降上記のような弊害を生じたことに鑑みて、その保障を確実なものとするために政教分離規定を設けたものである。

 そして、いわゆる「目的効果基準」(*)を確認し、これまでの政教分離を巡る裁判における理論的な判断基準を踏襲していることを示しました。
*「目的効果基準」によれば、憲法20条第3項が禁止している「宗教活動」とは、国及びその機関の活動で宗教との関わりを持つ全ての行為を指すものではなく、その関わり合いが社会的、文化的条件に照らし相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであって、当該行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいう。ある行為が「宗教的活動」に該当するかどうかを検討するにあたっては、その行為の主宰者が宗教家であるかどうか、その順序作法(式次第)が宗教の定める方式に則ったものであるかどうかなど、その行為の外形的側面のみにとらわれることなく、その行為の行われる場所、その行為に対する一般人の宗教的評価、行為者がその行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、その行為の一般人に与える効果、影響等諸般の事情を考慮し、社会通念に従って判断しなければならないとされてきた。

 こうした見地とこれまでの認定事実から、裁判所は、本件参拝が、宗教法人である靖国神社において「祭神である英霊に対して畏敬崇拝の心情を示すことに行われた行為であるから」その参拝方式や目的がどうあれ「宗教とかかわり合いをもつものであることは否定することができない」と判断しました。

 また、本件参拝当時、内閣総理大臣が国の機関として靖国神社に参拝することについては、他の宗教団体からだけではなく、自民党内及び内閣内からも強い反対意見があり、国民の間でも消極的な意見が少なくなかったことに照らせば、一般人の意識においては、本件参拝を単に戦没者の追悼という行事と評価しているとはいえず、また、前示のとおり憲法の政教分離規定は、明治維新以来国家と神道が密接に結びついて種々の弊害が生じたことへの反省の観点から設けられたものであって、神道を念頭においた規定であることに照らすと、一般人の意識において神道が他の宗教に比して必ずしも宗教としての認識が高くないものであるとしても、そのことをもって憲法20条3項にいう「宗教的活動」に該当するかどうかを判断するにあたって、神道の宗教的意義を否定するのは相当ではないというべきである。

 こうした事情に加え、小泉首相が「将来においても継続的に国の機関である内閣総理大臣として靖国神社に参拝する強い意志を有していること」が窺われ、靖国神社が「戦没者のうち軍人軍属、準軍属等のみを合祀の対象とし、空襲による一般市民の戦没者などは合祀の対象としていないことからすれば、内閣総理大臣として第2次世界大戦による戦没者の追悼を行う場所としては、宗教施設たる靖国神社は必ずしも適切ではない」などと認定し、「したがって本件参拝は憲法20条3項に反するものというべきである」という明白な違憲判断を導きました。


7.原告らの権利侵害の有無について。

 裁判所は、小泉首相の参拝がもたらした原告らの精神的苦痛についてはかなり具体的に認めました。戦没遺族者である原告らについては「それぞれの肉親の死の意味づけに介入されたとして、怒り、不快感などの感情を抱くとともに、戦前の国家神道の復活に対する危惧の念、危機感などの感情をいだいたことが認められる」としました。仏教の僧侶、門徒、信徒である原告、キリスト教の神父、牧師、信徒である原告、特定の宗教をもたない原告、在日コリアンである原告についても、それぞれに、神道の特別扱い、死の美化、平和運動への蹂躙、植民地被害の想起により、圧迫感、不快感、憤り、悲しみ、不安感等を感じたことが、認められました。

 しかしながら、原告の主張する「信教の自由」、「宗教的人格権」「平和的生存権」への侵害の違憲性については、「実定法上の根拠を欠くものであり、その内容も主観的、抽象的なものであって、憲法上の人権として保障されているものとは解しがたい」などとして、退けられてしまいました。
 日本の現行法においては、単に違憲かどうかを問うだけの訴訟を起こすことはできず、個々の人々に具体的な権利侵害があったかどうかを問うことしかできません。そして、権利侵害があったと認定されるためには、その侵害された権利が実定法で定められていなければならないというのがこれまでの法解釈なのです。したがって、宗教的人格権等の権利は「憲法上の人権」として保障されていないと判断されてしまったため、裁判の目的である損害賠償請求は棄却されてしまいました。
 
 しかし、権利侵害に関する原告の主張は全面的に否定されたわけではありませんでした。次の叙述は、宗教的人格権の扱いについて、将来に含みを残すものとして、注目すべき判断であると言えるでしょう。

 もっとも、原告らの主張する人格的利益が憲法上の人権といえないものとしても、一般論として、人が他者の宗教的活動によって、例えば精神的疾患にも準じるような激しい精神的苦痛を被った場合について、それが単に精神的、内心的なものにとどまるということの一事をもって不法行為による被侵害利益たり得ないと解することが相当ではないということは言うまでもない。(中略)原告らの主張するような人格的な利益は、それがただちに法的に保護すべき利益であってその侵害が不法行為にあたるとは言えないものの、そのような利益を主張する者の立場、当該宗教的活動による影響の程度、侵害の態様いかんにより、単なる不快感、嫌悪感等の域を超え、個々人の具体的な利益を侵害されたと認められる場合には不法行為も成立し得、それによる損害の発生も観念し得るものと解するのが相当である。

 一方で、今回の場合の原告らの精神的苦痛については、「相当に強度のものとは認め得るとしても」それを賠償の対象にすると、「賠償の範囲が余りに広範になり過ぎ、不法行為による損害賠償ないし国家賠償制度が維持できなくなる」という考慮から、(つまり、理論的なものというより、政策的・財政的な観点から)、また小泉首相の行為も「他者に対する影響の度合いは限定的なもの」であるとして、不法行為の被侵害利益としての賠償の対象にはならないと見なされました。


8.違憲判断は裁判所の責務。

 さらに注目すべきは、「結論」と題するところで述べられた、この種の訴訟についての深い洞察です。

 現行法の下においては、本件参拝のような憲法20条3項に反する行為がされた場合であっても、その違憲性のみを訴訟において確認し、又は行政訴訟によって是正する途もなく、原告らとしても違憲性の確認を求める手段としては損害賠償請求の形を借りるほかなかったものである。

 そうです。原告としては、「カネ」が欲しくて裁判をやっているわけではありません。「違憲」であるという判決を求めるための裁判の手続き上、そういった形式を取らざるを得ないという事情を、この裁判長は実によくふまえています。精神的苦痛の慰謝料としては、「違憲」という判断にまさるものはありません。(これを逆手に取ったのが大阪訴訟における被告側弁護士のやり口です。中国人原告の法廷での証言の際に、結局「カネ」が欲しくて訴訟をしたのかという挑発的な言辞を弄し、原告がむかっ腹をたてて「違う!」と言ったことを捉えて、損害賠償請求裁判としての形式に合致しないという方向に持っていこうとしたことがあります。)

 この判決においては、請求を棄却したにも拘わらず「あえて本件参拝の違憲性について判断したことに関して異論もあると考えられる」と前置きして、大胆に、靖国神社参拝を巡る違憲状態の放置への強い危機感を表明しました。

靖国神社への参拝に関しては、前記認定のとおり、過去を振り返れば数十年前からその合憲性について取り沙汰され、「靖国神社法案」も断念され、歴代の内閣総理大臣も慎重な検討を重ねてきたものであり、元内閣総理大臣中曽根康弘の靖国神社参拝時の訴訟においては、大阪高等裁判所の判決の中で、憲法20条3項所定の宗教活動に該当する疑いが強く、同条項に違反する疑いがあることも指摘され、常に国民的議論が必要と認識されてきた。しかるに、本件参拝は、靖国神社参拝の合憲性について十分な論議も経ないままなされ、その後も靖国神社への参拝は繰り返されてきたものである。こうした事情にかんがみる時、裁判所が違憲性について判断を回避すれば、今後も同様の行為が繰り返される可能性が高いとうべきであり、当裁判所は、本件参拝の違憲性を判断することを自らの責務と考え、前記の通り判示するものである。

 「異論もある」ことを覚悟しながら、あえてこうしたことを表明したのは、現在の日本において「法の支配」(*)が大きく揺らいでいる事への深刻な危機感が司法関係者の中に少なからず存在していることの表れであると考えられます。封建制度や絶対王政における専横的な権力支配と闘いながら成立した近代法秩序の基本原理が、その法秩序を守るべき行政府の長によって蹂躙されているというのは、いったい何を意味するのでしょう。

*「法の支配」とは、封建時代において君主が最高の主権者として恣意的に振る舞う「人の支配」に対置して生じた近代憲法の基本的原理である。国家権力を法で拘束することによって、国民の権利・自由を擁護することを目的としている。

 小泉首相だけでなく、自民党の安倍幹事長も、「違憲」の指摘を不満とし、「地裁では時たまこういう判決が出るが(参拝が)違憲とは思わない」と発言しました。また、地裁の判断は、他の地裁の判断を拘束しないこと、そしてこの違憲判断が、「傍論」でなされていることをもって、この「違憲」判断をできる限り価値のないものとして扱おうとする動きがマスコミなどを通じて行われています。例えば、4月8日読売新聞の記事においては「法曹関係者によると、最高裁の判例は地裁の判断を事実上拘束しているが、一つの地裁の判例が他の地裁の判断を拘束することはない。しかも、福岡地裁の違憲判断は、判決の中でも『傍論』と呼ばれる『極端に言えば裁判長の独り言に過ぎない』(司法関係者)部分で示されていた」とあります。さっそく「異論」が登場したわけですが、裁判の形式上の目的が損害賠償請求である以上、そこに直接関わらない判断は確かに「傍論」にならざるを得ません。しかし、この訴訟で訴えられている内容からすれば、それこそが最大の争点であることは間違いありません。これを避けて通ることは、違憲状態がなしくずしに行われてきた現状を追認することになります。裁判長はまさに「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」(憲法第76条)とある通りに、自分の職務を果たしました。これを「独り言に過ぎない」などと貶めることは許されないと考えます。

 靖国訴訟は、大阪、愛媛、そして今回福岡の判決が出されました。大阪では「公的参拝」であったことだけが認定され、憲法判断には踏み込みませんでした。愛媛ではそれすら出されず、一方で進展している政治反動をもろに表したものとなりました。しかし、今回の福岡地裁の画期的な判決は、5月に判決を控えている大阪での第二次訴訟(台湾訴訟)、さらに東京、千葉、沖縄の靖国訴訟に大きなはげみを与えるとともに、憲法を軽んじ、その改悪を目論んでいる勢力に対しても、一矢を報いることになりました。
(2004/04/18 大阪Na)


*福岡地裁判決の全文は、こちらです。
http://hirakata.zive.net/suminuri/archive/20040407yasukuni.pdf
(PDFファイルのため、Adobe Reader が必要です。
お持ちでない方は、http://www.adobe.co.jp/products/acrobat/readstep2.htmlからダウンロード(無償)し、セットアップを行ったうえで、PDFファイルを開いてください。)