番組紹介
NNNドキュメント'07「1枚の写真が…〜横浜事件65年目の証言〜」
横浜事件は決して過去の出来事ではない −−司法反動が進む中、あくまでも権力犯罪と言論弾圧を問う−−
思い出を写真に撮ったり、家族や友人と思ったことを語り合ったり、今では当然と思われることが脅かされる。かつて、そういう時代があった。昭和の戦争の時代は国民全体が息を詰まらせて生きなければならなかった。そういう時代に横浜事件が起こった。
以下に紹介するのは、日本テレビ系列で2007年7月22日に放送された横浜事件に関するドキュメンタリー番組である。横浜事件とはいったいどんな事件だったのか、なぜ現在も続いているのか、その概略をわかりやすく訴えてくれる。
それは65年前、一枚の記念写真から始まった
戦時中の日本で最大の言論弾圧事件と言われる横浜事件は、65年前の1942年に起こった。出版関係者が浴衣姿で何気なく撮った宴会の記念写真を元に事件がでっち上げられた。検挙された多くの人たちは神奈川県横浜市内の警察署で苛酷な取り調べを受けた。拷問で4人が獄死した。
大正から昭和の時代、国は「出版法」「治安維持法」「国家総動員法」等を次々に発令。国民の言論、情報、思想等を統制した。
中でも1925年公布の治安維持法は、急速に発展する社会運動や共産主義活動を未然に防ぐことを目的とした法律だった。「国体の変革」と私有財産制度の否認を目的とする結社や行動を処罰した。この治安維持法は「改正」のたびに重刑となった。1928年、結社の目的遂行のためにする行為を成したる者も罰する法律となった。そして死刑と無期刑を追加したのだ。
治安維持法に詳しい小樽商科大学商学部、荻野富士夫教授は、「権力側の思うがままに活用された法律だった」と言う。
「国体に向かう者、たてつく者に対しては容赦はしないというそういう権力側の意志というものが、これを武器として発揮されたと思います。」
「学校教育の現場においてもそういう取り締まりはありましたけれども、これは、何故、自分の家が貧しいのかとか、何故、自分の父親が出稼ぎに行かなければいけないのかということを見つめるとその社会的な矛盾に少し気付くということがけしからん、という形になってくる。」
「戦争に対して明確に反対するというような意志を示すもっとずっと手前のところで、もうこんな戦争嫌だなあというグチや不平を友だち同士で話すにしても、反戦とか反軍とかいう形での流言飛語に結びつけられて、取り締まりの対象になるわけです。」
戦時中の言論弾圧は、日本のみならずアジア諸国でより激しかった。膨大な犠牲者を生んだ。日本で7万人以上検挙した治安維持法は、朝鮮、台湾、旧満州で、より激しい形で行われた。
荻野氏:「日本が大東亜共栄圏という形で構想したが、共栄とは裏腹に治安を確保するため弾圧するということは、朝鮮、さらには満州国でより激しい形で行われていたということは、日本人としてアジアに対する戦争の責任を考える上で忘れてはならない視点だ。」
特高が目を付けた細川嘉六氏
戦時中の警察官はおよそ10万人、その内1万人が特高警察官だった。
荻野氏:「全警察官が特高化している。当時の言葉で、一般警察の特高化とか、全警察官の特高化というものが、スローガンとして警察の内部で行われます。」
横浜事件の中心人物は、社会評論家の細川嘉六だった。細川は、読売新聞記者を経て、大原社会問題研究所研究員として米騒動、植民史・国際情勢の研究に従事、昭和の早くから言論界をリードしてきた。第一次大戦後、日本を代表する総合雑誌に次々と論文を発表、「改造」「中央公論」の冒頭に論文を書いた。細川は、アジア民族の自立を尊重し、アジア全体が安定することを説いた。出版界に大きな影響を与えていた細川。その細川に警察は目を付けた。
太平洋戦争開戦の翌年、1942年7月、細川嘉六は、総合雑誌「改造」を通して、全国に平和のメッセージを発表する。細川54歳の時だった。
細川論文「世界史の動向と日本」は、アジアの安定を訴えながら、暗に侵略政策を批判するものだった。アジアの民族と友好関係を保っていかないと国は滅びる、と力をこめて書いた大作の論文だった。細川は国を憂えて書いた。55頁に及ぶ主張は、国の検閲をパスして掲載された。しかし、陸軍は細川の論文を共産主義の宣伝と激しく攻撃した。警視庁は9月14日、細川を治安維持法違反容疑で世田谷署に検挙した。細川に対する言論弾圧だった。
軍は出版関係者の思想を根本的に焼き直さなければならない、とした。論文発表から2年後の1944年7月、改造社と中央公論社は「自発的解散」させられた。
細川は7カ月の間、31回に及ぶ警察の取り調べにも屈伏しなかった。「欧米帝国主義の追随をして居れば、日本はアジアにおいて孤立するであろう」(第28回訊問調書)と述べる細川。
治安維持法違反の言論弾圧事件
横浜の特高警察は、細川と関係のないところで独自に別の事件グループの人間を次々と検挙していった。初めに検挙したのは、米国共産党事件。この事件から次の事件へと芋づる式に60人あまりを検挙。凄惨な拷問の取り調べにより、でっち上げがでっち上げを生んだ。1945年敗戦間際まで、ソ連事情調査会事件、党再建準備会グループ事件、政治経済研究会事件、改造社・中央公論社内左翼グループ事件など6つの異なる事件を中心に、新聞、出版関係者など33人を起訴した。
1943年5月、満鉄東京支社の西沢富夫、平館利雄を検挙した際、1枚の写真が見つかった。2人の他に細川と編集者たちが写った写真。細川が故郷富山県泊町に招待した1年前の出版記念の写真だった。特高警察は次の検挙者として編集者に的を絞った。細川への協力者と見たのだ。細川を中心に共産党を再建するための準備会議が泊町であったものと話をでっち上げた。つまり、初めに泊町で宴会と見せた秘密の会議を開き、会議の結果、共産主義を宣伝する論文を発表したという途方もない構想が1枚の写真を元に作られた。細川が故郷に招待して開いた泊町の宴会を指す「党再建準備会事件」は大きな横浜事件全体の一つの事件だった。
拷問に次ぐ拷問、でっち上げの自白
横浜事件の関係者はほとんどの人が他界しているが、最後の生存者がいた。鈴木三男吉氏(93歳)は、戦後起訴されずに釈放された。
鈴木氏「(横浜大空襲の時)空襲警報が鳴ると、軽犯罪者は全部釈放。ところが、思想犯は釈放しないで、1か所に集められて、お互いに右手も左手も手錠をはめられて輪になって。このまま焼け死ぬのかも知れないと思いました。一番恐かった。」
裁判の資料は「自白」を元に作られるが、取り調べは特高が捏造した「自白」を認めさせることが狙いだった。
鈴木さん「(特高の)都合の良いように白状させ、言わしめようとして拷問する」
拷問を証言する平館利雄:「両手を縛って、竹刀でムチャクチャ」「2人くらいでやります。交替した。」「ある者は棍棒のようなもので、ある者はロープで直径1cmぐらいのを2−3本。竹刀をばらして2−3本持って、ロープ、棍棒。丸太ん棒の上に座らせて。」
平館さんの長女、道子さん(72歳)「心の中まで土足で入られたわけですから、しかも負けたんです。実際の所。屈辱ですね。人間にとって。一生引きずった。」
1945年8月15日、日本は戦争に敗けた。戦争に負けたことで事態は急転回した。1カ月後、横浜地方裁判所は公判と判決を1日で行う極めて異例で安易なやり方で、写真に写っていた人たち、木村亨(中央公論」の編集者)、小野康人(雑誌「改造」の編集者)ら6人に有罪判決。最後まで頑として容疑を認めなかった中心人物の細川は起訴されず審理を打ち切る「免訴」になった。
横浜事件が初めて国民に知らされたのは、1945年10月9日の新聞だった。中央公論社の木村は、「戦慄すべき拷問の連続だった。」と語っている。横浜事件が「血塗られた言論」と紹介されたのは、戦後7年経ってからだった。
地方史研究家、奥田さん(73歳)は、40年前から横浜事件を地域の人に伝えてきた。
「民主主義の弾圧の中でまともに立ち向かった人々」と。
戦後すぐに反撃を開始、共同告訴
戦後すぐに細川は檄文を発表し、反撃を開始した。特高警察から拷問を受けた人々は1947年、細川を中心とした、横浜事件被害者の会、ささげ会会員33人は、拷問に加わった特高警察官30人を横浜地方検察庁に特別公務員暴行傷害で共同告訴した。
5年後、最高裁で3人の実刑が確定した。しかし、拷問をした特高警察官は、この年のサンフランシスコ講和条約の発効に伴う大赦で釈放され一日も投獄されなかった。痛い思いをすることなく、戦後を生きてきた。
一方、拷問を受けた、加藤政治は1955年没、小野康人は1959年没、細川嘉六は1962年没と次々と世を去った。
戦後の判決から40年が経過した1986年7月3日、被害者は再審請求を開始した。木村亨と平館利雄が中心となり被害者が裁判のやり直しを求める再審請求を行った。再審請求に対して裁判所は、横浜地裁(1988.3.31)、東京高等裁判所(1988.12.16)、最高裁判所(1990.3.14)、いずれも棄却だった。
棄却の理由は「裁判の記録が存在しない」というもの。裁判記録の保管は起訴した検察庁の役目のはずだ。その記録がないからと裁判所は再審請求を拒んだ。
木村亨:「まさかこんなムチャクチャな棄却理由を持って終わりにするとは思いませんでした。これは残念・無念という言葉では表せません。いかに日本の裁判所が人権を軽視しているか。いかに日本が人権小国、人権後進国かと言うことをこの中ではっきり示されています。」
理不尽な棄却の連続、そして免訴
裁判記録はどこへ行ったのか。
荻野富士夫氏:「敗戦となれば占領軍が入ってくる。そうなると自分たちが戦前行っていた権力犯罪、思想を取り締まった責任を問われるということで書類を焼却する。一方では中央から指示が出てくる。」
内務省が書類の焼却を指示を出していた。裁判記録を焼却したのは国だった。
荻野富士夫氏:「裁判は最後はドタバタで、形式的なものだった。被害者にとって訳の分からない判決を書かれたが、その判決さえも残っていない。再審の大きな壁になっている、というのは不条理きわまりない。」
1994年、小野康人の妻貞さん(85歳)が「横浜事件第2次再審請求」をした。しかし、横浜地裁(1996.7.30)、東京高裁(1998.9.4)、最高裁(2000.7.11)、裁判所は全ての請求を棄却した。
小野康人の再審請求は、妻の貞さんが亡くなった後、今は子供たち2人が代理人となり受け継いでいる。
小野康人の長女、斎藤信子さん(57歳):「20年の闘いです。再審請求してから母の情熱と信念を一緒に傍らにいて打たれた、と言うことです。第二次の半ばでは母が亡くなっていますから、兄と私で跡を継いだ。」
1998年、再審請求運動の中心人物、木村亨が無念の思いを残して亡くなった。木村が亡くなって1カ月後、木村の妻まきさんら遺族が新たに横浜事件第3次再審請求を横浜地方裁判所に提出。2005年3月、再審の開始が決定した(東京高裁)。しかし、2006年、横浜地裁は免訴、裁判打ち切りを決定した。
荻野富士夫氏:「免訴というのはもう無かったことにするということですからね。実際はそういう事実があったわけで、それを勝手にやった側が無かった事にするというのはどうしてもおかしい。納得がいかない。殴られて殴らなかったことにすると言うことです。」
2007年、横浜事件第3次再審裁判、東京高裁の判決は控訴棄却。またしても退けられた。
子どもたちが引き継ぐ再審請求
木村亨の妻まきさん:「私はもちろん無罪で裁かれるべきは裁判所、司法の側だというのは最初から思っていまして、今日もそのつもりで来ました。」
平館利雄の長女、平館道子さん:「裁判長には自分の下した判断というものを皆に聞かせて説得しようと言う、そういう気は全くなかった。とにかく再審は許さない。お上に対して楯突くのは許さない、と言うことを感じざるを得ませんでした。あくまでも異議申し立てをしていきたい。そう思います。」
ただちに最高裁へ上告した。
小野康人の長女、信子さんは、2002年から「第4次再審請求」をしている。「言いたいことも言えない、普通の会話もできない恐ろしい時代がまたやってくるという危機感で」と話した。
横浜事件は決して過去の出来事ではない。現在でも横浜事件の頃と形は違うが、言論の自由が脅かされている実態に変わりはない。拘禁二法、国家機密法、共謀罪などが、なぜ繰り返し出てくるのか。「人質司法」に見られる強圧的な取り調べ、長期拘留、拷問に等しい長時間の取り調べは、物証がなく、強要した自白のみが証拠の冤罪事件を数多く生み出している。証拠のねつ造やでっち上げも行われている。現在の捜査のやり方は横浜事件の特高と同じではないか。司法には、横浜事件を検証し、冤罪を根絶するという姿勢が欠如している。
(2007.8.30 T)
参考:
番組紹介 司法反動化の恐ろしい実態を告発
テレビ朝日サンデープロジェクト・シリーズ「言論は大丈夫か」より