小泉首相の靖国参拝を糾弾する!
(1) 小泉首相は、秋の例大祭の初日である10月17日、靖国神社を参拝した。私たちは満腔の怒りをもってこれを糾弾する。その行為は誰が何と言おうと、日本の侵略と植民地支配の歴史を正当化し美化・賛美するものである。大阪高裁の違憲判断が下された直後に、憲法の政教分離原則を踏みにじる暴挙である。
戦争神社である靖国神社に参拝して「不戦の誓いをする」という欺瞞を、これでもう5回も繰り返した。その欺瞞がもはや国際的には通用しないということが誰の目にもはっきりしてきているもとで、再度繰り返したのである。
日本軍国主義の犠牲となった多くのアジア人民、訴訟団を組織してまで違憲性を問うてきた人々の心を踏みにじったという生やさしいものではない。今年は敗戦60年、アジアの人々が日本による侵略や植民地支配の被害と惨劇を繰り返させまいと思いを新たにしている年に、あえて挑戦したのである。アジア人民に対する侮辱と挑発以外の何物でもない。
中韓両国は即座に抗議の声を発した。韓国外相、駐日中国大使が即日抗議を申し入れた。当然のことである。つくる会教科書に対する反日デモ、「独島(竹島)」問題、尖閣諸島問題などでこの春から日本側が意図的に悪化させてきた日韓・日中関係は、今回の小泉首相の靖国参拝強行によって更に後戻りができないほど破壊された。日中外相会談も日韓首脳会談もメドが立たなくなった。これら一切の責任は小泉首相、日本政府にある。
(2) 小泉首相は、これまでの参拝形式を変えた上で、あくまでも「私的参拝」と強弁した。記帳なし、献花料なし、服装はスーツ、拝礼の場所は本殿前、二礼二拍手一礼の神道形式は取らず、移動手段は秘書官を伴い公用車で――これが今回の小泉参拝の特徴である。
どうしてこのような姑息な参拝の形式を取ったのか。大阪高裁の違憲判断を強く意識した結果に他ならない。小泉首相は大阪高裁判決を露骨に批判しながら、こっそりと自らの参拝方法を変更したのだ。何のことはない、それは自らのこれまでの参拝がまさに憲法を踏みにじるものであることを証明したことに他ならない。
大阪高裁判決は、首相の参拝のやり方に触れ、@往復に公用車を使用し、秘書官を連れている、A「内閣総理大臣 小泉純一郎」と記帳した、B本殿で拝礼し「内閣総理大臣 小泉純一郎」と書いた札を備えた一対の花を供えた――等をあげ、「内閣総理大臣としての参拝と推認しうる要素を含んでいた」と判断し、憲法の政教分離原則に反するとした。
そもそも一国の首相の参拝が「私的なもの」であることはあり得ないし許されないことである。先の大阪高裁判決に即してみても、このような姑息な手直しは小泉首相の靖国参拝の違憲性をいささかも薄めるものではない。
−−まず第一に、上記の「@往復に公用車を使用し、秘書官を連れている」に真っ向から反する。小泉首相は一人で、公共交通を使って靖国神社に行ったのか。もちろんそうではない。公用車で靖国神社の前まで乗り付け、秘書官を連れ、周りをSPに取り囲まれて靖国神社に現れたのである。周りには小泉警護のために何と350人もの警察官が動員された。この大規模な参拝のどこが「私的」なのか。今回の参拝形式は改めて、首相が行く以上、形式の上でも私的などと言うことはあり得ないことをはっきり示したのである。
−−第二に、大阪高裁判決は、「私的な目的や意図を持ってする場合でも、客観的に職務行為の外形を備えている場合」は「職務行為に該当する」とした上で、「首相が靖国参拝を公約に掲げていること」を決定的に重視し、小泉純一郎が内閣総理大臣であることは周知の事実であること、靖国参拝が政治公約の実行としてなされたことから違憲性を導き出している。現に、小泉首相は参拝後、「首相である小泉純一郎が、1人の国民として参拝する。首相の職務として参拝したのではない。」「一年に一度行くのはいいことだ」と述べている。これこそが、違憲性の証明なのだ。「一年に一度参拝する」ことを政治公約した小泉が、主観的意図がどうあれ、「首相である小泉純一郎」として参拝したことは、憲法違反なのである。
そもそも、「小泉首相が違憲判決に配慮した」という言いぐさほどふざけたものはない。マス・メディアは、「司法判断は割れている」と報じることによって、「合憲」判断と「違憲」判断に割れているかのような印象を与える報道をしている。事実は、「憲法判断を避けた判決」と「違憲判決」とがあるだけであって、合憲判決などひとつもない! したがって、この点ひとつをとっても「配慮する」のではなく、従わねばならないのだ!! それも個々の形式についてだけ従うというような子供だましではなく、その本質である政教分離原則に従って参拝をやめねばならないのだ。メディア報道はこの点を全くあいまいにすることによって、小泉首相の憲法無視、大阪高裁判決無視の違憲行為を事実上是認しているのである。
(3) 小泉参拝後翌日のマスコミの多くは、日中、日韓関係が日米同盟関係に次ぐ重要な二国間関係であり、関係の悪化は「日本の国益」にとってマイナスである、経済関係や民間関係にまで影響を及ぼすような今回の参拝は「適切な判断」とは言えないと批判した。要するに、現在と将来のビジネスチャンスを奪うようなこと、「国益」を損なうことはするなというばかりである。
そこには靖国神社そのものに対する批判、参拝そのものが、日本の侵略と植民地支配を美化・賛美・正当化し、将来に及ぶ日本の軍国主義への布石としての行為であるという根本的批判は微塵もない。靖国参拝は中国や韓国から批判されるから問題なのではない。現在の日本政府と日本人民が自らの過去と現在の歴史に対していかなる態度を取るか、いかに向き合うかという問題なのである。
改めて言うまでもない。靖国神社は天皇制軍国主義の最大のシンボルである。靖国は、日本人民・植民地人民に皇国、天皇のために死ぬことを至上の名誉と教え、戦争へと駆り立てた軍国主義の宗教装置そのものであった。「靖国で会おう」――これが侵略を聖戦と思い込まされ、アジア人民の大量殺戮へと駆り立てられた「皇軍」兵士たちの合言葉であった。国家による管理を離れ一宗教法人に過ぎない神社になった戦後も、靖国はその性格を変えなかった。今もなおそこは侵略戦争を賛美する一大戦争展示場になっている。
日本国憲法が政教分離の原則を、ことに公務・公務員に対して厳しく要求したものも戦前におけるこうした靖国の存在や、国家神道の支配があったからこそであった。
小泉首相は「戦没者を追悼し、不戦の誓いに行った」という。しかし、靖国に戦没者の追悼に行く、不戦の誓いに行くことそのことが不遜、傲慢であり、挑発ではないか。アジア・太平洋戦争の戦没者の大半は天皇制軍国主義の侵略戦争にかり出され、戦死させられた人民大衆である。彼らを追悼するなら、まず侵略戦争を始めた責任を明らかにし、それを謝罪し、過ちを繰り返さないことを誓うべきであって、「犬死に」をさせたことを詫びるべきであって、わざわざA級戦犯を奉り、未だに戦争の正当化をし続けている靖国神社に参拝するのは死者に対する冒涜である。まして、侵略戦争を賛美し続ける靖国神社で不戦を誓うなど、侮辱以外の何物でもない。
(4) 今回の首相による憲法無視の靖国参拝は、彼が首相に就任して以来、憲法第9条に違反する諸立法によって自衛隊の海外派兵が強行されたことと軌を一にするものである。テロ対策特措法によるアフガニスタン戦争での海上自衛隊のインド洋派遣、イラク特措法による陸・海・空自衛隊のイラク派兵、有事法制、等々と、憲法の平和条項と根本的に矛盾する諸法が制定されてきた。あたかも現憲法が既に改正されたかのような諸法が強行されてきたのである。
憲法改悪が小泉と自民党の基本戦略になっている今日、私たちは小泉首相や政府与党による全ての違憲行為を断じて許す訳には行かない。
(5) それだけではない。新たな軍国主義と反動化を推進する小泉、戦地イラクに自衛隊を派遣している小泉が参拝するのは、別の意味を有する。それは将来の「戦死者」を再び靖国で弔うという布石に他ならない。絵空事ではない。現に、現在のイラクは日本の新たな「戦死者」を生み出さぬという保証はどこにもない情勢である。更には、政府自民党が策定を急ぐ海外派兵「恒久法」に示されている通り、日本の支配層の新軍事戦略は、「対テロ戦争」、「人道復興支援」、「国際貢献」等々さまざまな偽看板を掲げて、米軍とともにグローバルな形で海外に軍事介入する体制作りである。いずれは間違いなく「戦死者」が生み出されるであろう。
小泉首相は靖国参拝で、対北東アジア外交を行き詰まらせるどころか無茶苦茶にすることを平気でやってのけた。これは中国に対しては、日本が強硬路線を今後取ることを宣言しているに等しい。それは日本が対米同盟を何より重要視し、米国の軍事外交戦略に従って近隣アジア諸国に軍事的政治的に介入・干渉することを公言したも同然である。
イラクで泥沼に陥っている米国には現在の所、北東アジアに介入する余力はない。従って六ヶ国協議においても対中関係においても硬軟両様の戦術を使い分けている。しかし、将来的に朝鮮半島、台湾海峡に介入しないという保証はどこにもない。中国は米国にとって将来の最大の「仮想敵」である。小泉首相はその米の、最も強硬な軍事路線に追随することを態度で示したのである。小泉首相の靖国参拝は、日本が北東アジア全域の平和と安定の最大の撹乱者、妨害者として存在することの一端を示している。
(6) 新たな反撃の動きが始まっている。小泉首相の靖国神社参拝に反対する訴訟を起こしてきた日本と台湾、韓国の戦争犠牲者の遺族らは19日、台北市内で会議を開き、首相の参拝を受け、共同原告団として靖国神社と国を相手取り、新たな訴訟を起こすなど、共闘を強めていくことを決めた。
このような中で求められているのは、日本の人民大衆自らが、日本の侵略戦争と植民地支配をもう一度原点に立ち返って見つめ直し、小泉政府に過去の反省、謝罪と補償を迫っていくこと、同時に憲法を改悪して再び軍事大国としてアジアに向かって対峙しようとする自国政府と闘うことである。
小泉首相は、参拝に際しての個々の表面的な形式だけが問題であるかのごとく違憲判断を矮小化して、司法の判断に従わずに居直っている。メディア報道は、姑息な表面上の形式の違いを「大阪高裁の判決に配慮した」と報じることによって、国内的には何も問題がないかのごとく、したがって対外関係だけが問題であるかのごとく報道している。靖国参拝問題を、外交関係に一面化し解消することに、私たちは反対である。あくまでも日本の人民自身が決着を付けなければならない過去と現在の軍国主義の問題であることを肝に銘じたい。
小泉首相の基本姿勢は危険極まりないものである。首相は今後も「私人」を強調しつつ強行の姿勢を崩すまいとするだろう。日米同盟を最優先する彼にとっては、目下のところ、対中・対韓外交の行き詰まりは計算の上でのことである。その意味で、マスコミや批判者の側が靖国参拝問題を外交問題に矮小化することは痛くもかゆくもない。
否むしろ、「なぜ外国からとやかく言われなければならないのか」という自国の歴史に対する無知と無批判からくる排外主義的ナショナリズムを煽り立てること、それによって政権への支持と求心力を集めることだけが目的なのである。「心の問題だ」「外国政府が、日本人が日本人の戦没者に、あるいは世界の戦没者に哀悼の誠をささげるのを、いけないとか言う問題じゃない」との開き直り、果ては憲法の「思想・良心の自由」まで持ち出す詭弁も、彼の狙いなのである。「私はここまで妥協を重ねているではないか、何の文句があるのか」等々、「私的参拝」にまで口出しするなという小泉首相・政府自民党・マスコミが一体となった世論作りが私たちの前に立ちはだかっている。
小泉の靖国参拝反対の闘いは新しい段階に入った。小泉があえて「新しい参拝形式」「私的参拝」を前面に押し出してきた以上、これと真っ向から対決しなければならない。そもそも一国の首相に「私的参拝」などあり得ない。「私的参拝」の違憲性、ごまかしと欺瞞を徹底的に暴くこと、いかなる形態のものであれ、いつ行われるものであれ、首相の靖国参拝そのものに反対する闘いを強化することが従来に増して重要になっている。
2005年10月21日
アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名事務局