マーク・トウェインならイラクからの撤退を主張する?
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(1)反帝国主義者として再脚光を浴びるマーク・トウェイン――『マーク・トウェイン、イラクの場合には?』
米のリベラル・左派系ウェブサイト“コモン・ドリームズ”に興味深い記事が掲載されました。「マーク・トウェイン、イラクの場合には?(Mark
Twain in Iraq?)」と題されたマーク・エングラー氏のもの(2003年10月31日付)です。以下に翻訳したので、ご覧下さい。
米国の海外への介入が争点となっている選挙キャンペーン中に、米国の有名な文学者の一人が、政治的に論争を招きそうな形で帰国した、という所から話は始まります。舞台はフィリピン。イラクの話ではありません。
作家の名はマーク・トウェイン。彼は、米西戦争の結果、「戦利品」として購入したフィリピンでのアメリカの軍事行動に関して、「先見の明のある分析をもちこんだ」、ひいては現在のイラクの状態に先見の明をもたらすような分析をしていた、と言います。エングラー氏は、今から約100年前、米国によるフィリピン略奪をマーク・トウェインが痛烈に批判したことを取り上げ、それは今のブッシュ政権によるイラクの占領支配にぴったり当てはまるとして、トウェインに語らしめているのです。
※米西戦争、すなわちアメリカ=スペイン戦争(1896年)が、ボーア戦争(1899−1902年)と並んで、「帝国主義」という時代のメルク・マールとなった戦争であることはよく知られています。両戦争「以後、旧世界と新世界の経済文献と政治文献とは、われわれの生活している時代を特徴づけるために『帝国主義』という概念について論じることがますます多くなっている。」(レーニン)
フィリピンの民衆を「自由にし、彼らに政府と彼ら自身の国を与えることができる」と、初めのうち戦争を支持していたトウェインは、その後我々は「征服するためにそこに行った」のだと介入に痛烈な批判を始めます。自らを「反帝国主義者」と呼んではばからぬ彼は政治論議に積極的にコミットし、アメリカがフィリピンで「新たな一歩ごとに脱出することの困難さが一層増す混乱(mess)、泥沼(quagmire)に入り込んだ」と続けます。まさにこの泥沼(quagmire)という言葉こそ、現在米国で米英のイラク占領体制が破綻したことを言い表す代名詞にもなっている最も政治的な「言葉」なのです。
エングラー氏はアメリカの軍国主義と闘う際に、トウェインが孤立していなかったことを指摘します。彼は反帝国主義者連盟、すなわち、ルーズベルト流の拡張主義が国民の自由と解放を信ずるアメリカの信条を害したと主張する組織、に支えられていたと述べます。
もしトウェインが今日生きていたならば、イラクからの撤退を主張するのは言うまでもない、ということだと思います。記事は次のようなトウェインの言葉で結ばれます。「私は【彼らに、すなわちフィリピン人に;引用者注】完全な自由を与えることは重要なことだろうと思った」「しかし、私は今や彼らが彼ら自身で自由を手にすることができるようにすることがより重要だと思う。」つまりトウェインははっきりと植民地支配=占領の中止、民族自決権の保証を主張しているのです。
ここでは、エングラ−氏のこの記事をもっと理解してもらうために、またマーク・トウェインの知られざる側面を皆さんにも知ってもらうために、1900前後に書かれた、あまり有名でない作品を紹介します。そして一番有名な彼の代表作『ハックル・ベリーフィン』そのものの、反帝国主義的で、戦闘的民主主義的な彼のアメリカ帝国主義に反対する鋭い批判を改めて紹介しておきたいと思います。
(2)帝国主義アメリカへの警告物語――『エディパス、世界帝国の隠された歴史』と『細菌ハックの冒険』
10年近くの海外暮らしを終えたトウェインは、1900年アメリカに帰国します。まもなく『ミステリアス・ストレンジャー』の三番目の原稿『44号』に着手しますが(1902年)、その一方で、当時アメリカがとっていた帝国主義的膨張政策を痛烈に批判し、そこで反帝国主義連盟に加わる一方で、ノース・アメリカン・レビュー誌に「暗きに座する民に」(To
the Person Sitting in Darkness 1901年)を発表するなど、当時の社会情勢に関する辛辣な風刺論文を新聞や雑誌に発表するようになっていました。
なお、反帝国主義連盟とは、1898年6月15日、フィリピンの米国への併合に反対する有志が結成したものです。1901年に副会長となったトウェイン以外には、アンドリュー・カーネギー、ウィリアム・ジェームズ、サミュエル・ゴンパースなど当時のアメリカの著名人が賛同していました。カーネギー家の人間が属しているなど、その顔ぶれから言えば、政治的にはリベラリズム、いわば帝国主義者の「左派」なのですが、いずれにしても彼らは、アメリカが本来持っていたはずだとする「自由」や「解放」の理念に敵対するものとして、当時のセオドア・ルーズベルト大統領の膨張主義的・帝国主義的政策、とりわけフィリピンでの軍事行動に矛先を向けていたのです。
トウェインの当時の考え方を示す作品として二つを紹介したいと思います。一つは、『エディパス、世界帝国の隠された歴史』、もう一つは『細菌ハックの冒険』です。『エディパス、世界帝国の隠された歴史』は1901年から1902年にかけて、ある時期集中して書かれましたが、未完成の原稿のまま残され、1972年まで出版されませんでした。
物語は2901年に設定され、エディパス帝国がかつてのアメリカを支配するにいたっています。語り手はその時代に生きる政治的破壊活動分子で歴史家であり、彼はそれまで厳重に隠されてきたはるか昔の真実――19世紀から20世紀初めのアメリカの歴史――を明らかにしようと奮闘しています。しかし、専制君主によってことごとく自由を剥奪されたこの歴史家の努力も、法律を犯し極秘のうちに遂行される命懸けの行為であり、それでも真実の歴史を蘇らせようと同志に書き送る彼の行為はヒロイックなのです。
そこでは遙か昔に図書館も博物館も破壊され、存在した書物はすべて焼き尽くされてしまっているのです。人々には帝国が許す解釈不能の「聖典」しか読む自由がありません。その世界に君臨するエディプスとは、その後トウェインが「ノース・アメリカン・レビュー」誌でその権力欲や欺瞞に満ちた行動を攻撃し続けることになる、クリスチャン・サイエンスの創始者メアリー・ベーカー・エディを暗に指した造語であると言われています。その独裁的強圧的政治権力はクリスチャン・サイエンスとローマ・カトリック教会が手を組んだものということになっています。
物語の語り手の歴史家は限られた情報をつなぎとめ、19世紀アメリカの全貌をとらえようとします。抑圧的なエディパスの世界では知る由もない変化と活気に満ちた自由な時代がかつて実際的に存在したことに感激します。語り手は記録し続けます。19世紀の初頭のアメリカでは、宗教の弾圧も書物が焼かれることも、拷問もなく、人々は誰にも管理されず自由で幸せに暮らしていたのです(もっともそれは白人に限ったことですが)。
語り手は輝かしい19世紀の歴史を語る一方で、一貫して30世紀、エディパスの圧政により人々がすっかり活気を失ってしまった恐ろしい状態を語り続けます。先述したように、図書館は破壊され、学問の場は厳しく統制され、出版物は特定のものを除いてすべて禁じられ、指針となる光を失い自由を抹殺された人々は、深くたれ込めた暗闇の中で800年もの間、まったく希望を持てない状態で模索を続けている、とされます。
それではトウェインは、このような逆ユートピア物語をどうして描くようになったのでしょう。それこそ『エディパス』が執筆された頃の事を考えねばなりません。この物語が執筆された1902年といえば、アメリカの帝国主義的膨張が絶頂にあった時期でした。トウェインはまさに民主主義を唱えながら、実際には海外の弱小国(フィリピン、グアム)を支配していたアメリカの行く先に警告を発していたのではないでしょうか。トウェインは、人間の歴史は結局は専制君主的国家に戻っていく危険性を孕んでいると考えていたふしがあります。すばらしい繁栄をもたらした19世紀アメリカが、膨張熱にうかされた海外に進出する野心の勢いに歯止めがかからなくなった時、専制君主国家に変貌していくことになるのでは、という強い危機感にトウェインはとらわれたのではないでしょうか。そういった意味で『エディパス』はまさにアメリカ帝国主義に対する警告の書なのです。
『細菌ハック』は、『エディパス』と同様、当時の社会情勢を批判した風刺的側面を持っていますが、それより遙かに大きな広がりと奥行きを持つ作品と評価されているようです。魔術師の実験が失敗してコレラ菌に変身させられてしまったハックはすぐに細菌の世界に同化してしまいます。なぜなら細菌の世界はまさに人間の世界の縮図だったからです。人間の世界同様、細菌の世界にも多くの種族がいて、さまざまな言語が存在します。アメリカそっくりなゲットリッチクイック共和国、あるいはヨーロッパ列強を思わせるヘンリーランド帝国が存在し、19世紀末の世界情勢をそのまま再現していました。
物語の中でハックが顕微鏡を通して見た、細菌に生息する細菌の世界は、天体ブリツォスキー(これは細菌たちが住み着いている天体です)におけるヘンリーランド帝国の行っていることをこれまた小規模にしたものでした。その細菌の国の君主もどこかの国を掌握し文明化するための戦争を仕掛け、兵を出陣させようとしていました。しかも、自らは戦わず、戦利品のみを持つのだということも明らかでした。
ハックはこうして幾重にも世界が重なっていることを知り、なおかつそれぞれの世界がそれぞれの下位の世界を軽蔑し、無関心でいることに気付きます。
『細菌ハック』が幾重にも重なる世界、すなわち、細菌の世界、人間の世界、さらには人間を細菌とするもう一つの広大な神の世界を扱った物語と受け取れば、ハックの語る細菌の世界の有様は様々な特別な意味を持ってきます。
細菌たちはまったく自覚しないまま、ブリツォスキーの血や組織を常食にし、病気で腐敗させ毒しています。これを『細菌ハック』が書かれた1905年当時の情勢と重ね合わせて考えればどうなるでしょう。まさに、一方で人種差別意識に支えられた帝国主義的侵略を繰り広げている人間が、地球を無意識のうちに浸食し、腐敗させていることの、これ以上ない比喩ということになるのではないでしょうか。特に有毒なアフリカ系アジア系の細菌がしばしば支配階級に付いていることは、白人の「人種差別意識そのものが、やがてその提唱者の足元を突き崩しかねないこと」を暗示しているという巽孝之氏の『細菌ハック』の解説は当を得ているというべきです。
トウェインの10年近い海外暮らしとは、負債返済のための世界一周旅行でもあったのですが、この旅行は19世紀末の世界の状況を自らの目でみるという貴重な体験を彼に与えたようです。トウェインはヨーロッパ列強によるアジア・アフリカにおける植民地支配の厳しい状況を目の当たりにして憤りを募らせます。このような帝国主義がキリスト教と手を携えて、アジア・アフリカ諸国を苦しめている現実を見たのです。この現実にアメリカが新たに参入していくのを見て、彼が自らを「反帝国主義者」と呼び、反帝国主義連盟の副会長に就任するのは、それまでの彼の生き様、文学者としてのあり方から言えばいわば当然でした。
二、三の文学作品で、その傾向をさらに補足しておくならば、副会長になる直前に書かれた原稿をもとにした『不思議な少年』には、ヨーロッパの帝国主義的植民地支配に対する彼の憤りが色濃く反映されています。不思議な少年サタンは、時空を超えて人間の争いの歴史を見せつけ、どの時代、どの地域でも殺戮を繰り返す人の愚かさを暴くのです。
トウェインは、1894年に出版された『まぬけのウィルソンと、かの異形の双生児』で、16分の1黒人の血が混じったわが子と、白人の主人の子どもを取り違えた黒人女奴隷ロクサーナの物語を描き、アメリカ奴隷制における白人支配の愚かさや危うさを暴いて見せました。トウェインにとって、直後の世界一周旅行で見聞した帝国主義は、形を変えた奴隷制に他ならなかったのです。植民地/現地人の支配構造も、白人/黒人奴隷の支配構造も、ともに人種差別思想に根ざしているからです。
(3)読者を「民族解放者」に、「革命家」に導くことを企図した物語――『ハックルベリ・フィンの冒険』
トウェインが晩年に反帝国主義者としての道を歩み始めたのは、以上のような文学の帰結からも明らかなのですが、この際どうしても触れておかなければならない作品があります。それは『ハックルベリ・フィンの冒険』です。私たちがたくさんの児童文学の中のひとつとしか思ってこなかったこの物語が、実はとてつもなく素晴らしい思想に貫かれていることを知ったのは、私もつい最近のことでした。
ことに、1999年角川書店より発行された日本初の完訳本中の、大久保博氏による「あとがき」は、この作品を新たに解釈すする上で示唆に富んでいます。大久保氏は最初に三ページにあるトウェインの「警告」に注目します。
「この物語に主題を見つけようとする者は、告訴されるであろう。教訓を見つけようとする者は追放されるであろう。プロットを見つけようとする者は、射殺されるであろう。
発令者 著者。代筆者G.G 兵器関係最高責任者」
氏はこの「プロット」を「陰謀」、「G.G」を当時の北軍総司令官、後の大統領、グラント将軍と解した上で、それこそ射殺を覚悟の上で、読者が読みとらねばならぬ「陰謀」とは何かと問いかけます。
結論的に言えば、氏は第1章にある「モーゼとブルラシャー」という言葉に注目し、「ブルラシャー」を「奴隷を酷使する者たち全員」ということにし、トウェインがハックを「現代のモーゼ」に仕立て上げる「プロット」を用意していたと語ります。すなわち読者は『ハック』という作品の中でハックを通して物を見、聞き、感じている以上、読者自身をモーゼに仕立て上げる、私たち一人一人を民族の解放者に仕立て上げようとした、と考えるのです。
トウェインは、ミシシッピ河深く沈む難破船「ウォルター・スコット号」に象徴させる形で、ヨーロッパがうち建て、アメリカ南部を腐敗・堕落させるものとしての貴族制度と教会を激しく批判します。それに対置して語られるのがフランス革命とナポレオン一世なのです。
ここまで書くともはや「警告」中の「プロット」=「陰謀」が何であるかは明らかでしょう。それは、「この作品を通して人間の自由とは何か、魂の自由とは何かを教え、読者を楽しませながら人間の解放へとわたしたちを導いてゆくことだ」「ハックは、生きている現代のモーゼ、つまり生きている民族の解放者に用がある。いや自分がその解放者になろうとしていたのです。フランス革命に代わる新しい革命、それをトウェインは意図していたのです」(「あとがき」『ハックルベリ・フィンの冒険』マーク・トウェイン 大久保博/訳 角川書店 1999年 p.472)。
すでに1885年の段階で、黒人奴隷の解放のみならず、「精神的奴隷の解放」「人類の魂の解放」をテーマにした物語を書いていた作者が、全世界に抑圧する人民を見出し、差別する抑圧人民の姿を自国民に見出した時、それを激しく非難することは当然の成り行きでした。自らの国と国民の「繁栄」と限界、短所と長所、現在と将来、そして決して自国の国民が世界の人民に対してなしてはならないことまで予見でき得たマーク・トウェインこそ、真のアメリカ「国民文学者」と呼べるのかも知れません。
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このような「国民文学者」が、現在のアメリカのイラク侵略と占領の現実を見るとき何を発言し、行動するかはもはや明らかでしょう。「イラクから米英軍の即時全面撤退」以外あり得ないでしょう。トウェインのような真の「国民作家」が日本にいれば、このような事態を座して見ているはずはありません。しかし、そのような気骨ある作家、文学者の声があまりに小さく、また小さな声にマスコミや世論がおとしめているのも、また残念極まる日本の現状なのです。
2003年11月10日 NU
秋だった、選挙キャンペーンは真最中、そして米国の海外への介入が候補者を分かつ重大問題となっていた。興奮のさなかに、米国随一の文学者の一人が帰国し、歓迎されかつ政治的に議論を巻き起こした。
作家とはマーク・トウェインのことであり、1900年のことだった。国全体がフィリピンでの軍事行動に関して激しい論戦を繰り広げていた。フィリピンは米西戦争の結果として先頃2000万ドルで米国が購入していたのである。10年近く海外で暮らしていたトウェインは、その状態について先見の明のある分析を持ち込んだ。
初めのうち彼は戦争を支持していた。「ここには苦しんできた人々がいる、私は自分自身にそう言い聞かせた。」と、行動に対するホワイト・ハウスの根拠付けをおうむ返しにしながら、トウェインは釈明した。「我々は、彼らを我々同様に自由にし、彼らに彼ら自身の政府と国を与え、アメリカ憲法のミニチュアを流布し、・・・世界中の自由な諸国の間に位置を占める真新しい共和国をスタートさせることができる。」
「しかし私はそれ以来さらに色々考えた」と彼は述べている。1898年パリ協定書を読み、戦争の公的な理由に疑問を投げかけ、彼はこう結論づけた。「我々は約束を果たすためではなく、征服するためにそこへ行ったのだ。」
「だから私は反帝国主義者だ。私はいかなる地であってもハクトウワシ(=アメリカの象徴)にかぎづめをかけさせることに反対する。」
世紀の変わり目までに、マーク・トウェイン、本名サミュエル・クレメンスは、アメリカの最も崇敬される作家の中で、すでに彼の位置を築いていた。彼は政治に言葉をはさむことを決してためらわなかった。(「もし君がバカだとしたら、君は議会のメンバーになればよい。だが私は節を曲げない。」と、彼は素晴らしく辛辣な皮肉を言った。トウェイン学者のジム・ツウィックが記録したように、反帝国主義は、作家が彼の生涯で最も深刻な政治的コミットメントの一つをなすに際しての大義となった。
太平洋でのアメリカの介入に関するトウェインの懐疑は、新たな世紀(20世紀)の初めの10年間を通じて広がり続けた。セオドア・ルーズベルトは、1902年7月4日にフィリピンでの戦争の公的な終結を宣言した。しかし、アメリカは、数十年間軍事的プレゼンスを維持し続け、たびたびの小競り合いが起こった。トウェインが警告したように、「我々は、新たな一歩ごとに脱出することの困難さが一層増す混乱、泥沼に入り込んだ。」
作家は、表向き独立を支援するという見せかけの戦争が、フィリピン利権に対する徹底的なアメリカの保護という結果で終わったことに腹を立て、「アンクル・サム(米国:訳注)は、王権を持った泥棒達の協会への入会金にあの2000万ドルを払った」と非難した。
そして、フレデリック・ファンストン将軍のようなホワイト・ハウスの代弁者が、反帝国主義者の批判家は「反逆罪で絞首刑に」すべきだと主張した時、トウェインは、自分は「まさしく喜んで反逆者と呼ばれたいし、喜んでその名誉あるバッジを付けたいが、愛国者の称号で誇りを傷つけられたくないし、私は誓って愛国者という称号に値することはしなかったので、ファンストン氏と同類に並べられたくない」とやり返した。
言うまでもなく、もしトウェインが今日生きていたなら、ジョージ・W・ブッシュが「セオドア(ルーズベルト:訳注)王」への称賛を公言するのを見ても驚かないだろうし、大統領が最近フィリピンをイラク「解放」のモデルとして指摘したことも驚かないであろう。
ブッシュがおおよそ6ヶ月前、トップ・ガン(海軍のエリート・パイロット)の虚勢を張って「任務達成」を宣言したのだが、我々の軍隊はイラク占領に一層深く引き入れられただけであった。殺害されたアメリカ兵士、公式発表でいう「平和の代償」は、10月半ばで100人に達した。そして時宜を得た選挙を求めるヨーロッパの要求に政府は抵抗していて出口が見えない。
ハリバートンやベクテルのように、ホワイト・ハウスと密接な関係を持っている企業ほど、アメリカの占領に熱狂してきたものはほとんどない。それら企業は広く知れわたっているように競争入札なしの契約で何十億ドルも受け取ってきた。
はっきり思い出すのは、政府が、異議を唱える者には非愛国的というラベル、あるいはもっと悪いラベルを貼り付ける文化、「我々の側かあるいは敵か」という文化を奨励してきたことだ。最近の出来事の一つとして、ドナルド・ラムズフェルド国防長官が、戦争への批判はテロリストを助けると述べた。
アメリカ軍国主義と闘う際、トウェインは一人で活動したのではなかった。彼は反帝国主義連盟、すなわち、ルーズベルト流の拡張主義は自由と解放を信ずる国民の核心的な信条を害すると主張する一組織に支えられていた。今日では以前に増して我々は、帝国――我々のものであれ他のものであれ――の創造に反対するアメリカ人の伝統を讃えることに成功している。
そしてイラクに関しては、我々はフィリピン人民に関するマーク・トウェインの心情を思い出すべきである。「私は【彼らに】完全な自由を与えることは偉大なことだろうと思った」と彼は述べた。「しかし、私は今や、彼らが彼ら自身で自由を手にすることが出来るようにすることがより重要だと思う。」
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