タリバン捕虜収容所で何が起きた・・・ CIA尋問に怒り反乱 |
米英軍と「北部同盟」によるマザリシャリフでの捕虜虐殺に関するドキュメントが、12月30日付け『東奥日報』に掲載されました。私たちは、今後同じような虐殺事件を起こさせないために、広く虐殺の真実と真相を知らせなければならないと考え、以下に紹介することにしました。(2001年12月4日)
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米英軍支援で鎮圧
空爆、放火・・・結局400人全員死亡
アフガニスタン北部の不毛の地に立つ巨大な要さいで二十五日朝、北部同盟軍の捕虜となった約四百人のタリバン兵が武器を奪い、反乱を起こした。米英軍の支援で五十時間後にこの反乱は鎮圧され、タリバン兵全員が死亡した。捕虜収容所で、一体なぜ、そして何が起きたのか‐。米国防総省の定例会見では分からない。現地で直接取材するニューヨーク・タイムズ紙のカーロッタ・ゴール記者の連日の報道を基に「捕虜の反乱」を再現した。
広さ2・5平方`
カラジャンギ要さいはマザリシャリフの東方数`に位置する。十九世紀に造られたとりでだ。広さ約二・五平方`、三つの大きな建物を無数の銃眼が開けられた土の壁が取り囲む。北部同盟がマザリシャリフを占拠する十一月九日までタリバン軍が基地にしていた。
二十四日、クンドウズで投降したタリバン兵約四百人がここに連行され、武装解除された。大部分はパキスタン人だが、チェチェン人やアラブ人もいた。
二十五日朝から捕虜の尋問が始まった。尋問者は北部同盟の情報責任者と二人の米中央情報局(CIA)工作員だった。
母国への送還を恐れる外国人の捕虜たちは米国人がいたことで怒った。一人の捕虜が警備兵の頭に岩を投げつけて倒し、ライフル銃を奪った。数分の間に捕虜たちは警備兵を圧倒し四、五人を殺害。CIA要員の一人はあっという間に殺された。
北部同盟兵士は「捕虜たちがCIA要員を目にしたことが反乱につながった」と語った。
要さいの構造をよく知る捕虜たちは牢獄(ろうごく)の近くにある武器庫に走り、自動小銃や手投げ弾で武装した。激しい銃撃戦が広がった。中にいた国際赤十字関係者や記者らは外壁を滑り降りたり飛び降りたりして逃げた。ウズベク人主体の北部同盟部隊は急速にコントロールを失った。
要請を受けた米軍の空爆が始まった。数十人から数百人の捕虜が空爆で死亡したとみられる。現場には十六人ほどの米英特殊部隊員がいたが、鎮圧行動そのものには加わらなかった。爆弾の一つが近くに落ち米兵五人が負傷した。
いぶり出し射撃
銃撃戦は二十六日まで続いた。追い詰められた捕虜たちは建物の一つの地下にこもったが、北部同盟側は油を流し込み放火。同盟軍は一台だけ持っていた旧ソ連製T55戦車を大量の死体が転がる敷地内に乗り入れ、地下室からいぶり出された捕虜たちを射撃した。同盟のカラジ司令官は「終わった。彼らはすべて死んだ」と語った。
この反乱で北部同盟側は約五十人が死亡、数百人が負傷した。シャフィクという名の兵士は「なぜ(捕虜たちが)攻撃してきたのか分からない」「彼らは『おまえたちは米国人だ。降伏はしない』と叫んだ」と語った。
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