追悼 対馬滋さん

 対馬さんが八月四日早朝午前五時一五分、入院していた川崎社会保険病院で亡くな った。大腸癌であった。昨年末より体調がすぐれない、風邪気味だと言っていて、三 月中旬以降はフォーラム東京の会議も欠席がちになった。最後に彼が会議に顔を出し たのは四月二五日、いつもはにこやかな彼がこの日は異様な酔い方でびっくりした。
 その後前号ニュース(五月一六日発行)の巻頭論文を書いてくれた。入院するよとメールが入り、二回週末外泊を外泊を経、その度にメールをもらった。手術だよとメールが入ったのが六月七日。手術予定は六月二六日、元気になってから顔を見せに来いという。その通りにしていた。
 事態を知ることになるのには七月三日までかかった。重体であり直る見込みは限り なくゼロに近いという。信頼できる医者にカルテ・写真を見てもらい意見を聞く。緩 和ケア病棟に移すべきだとの意見だった。 フォーラム東京の仲間が全力でサポート に動き出したのは七月一三日以降であった。癌の進行は驚くほど早い。時間との闘い の中、やっと緩和ケア病棟に移れたのは、亡くなる二日前であった。これまでの病院 と違い看護婦さんが何でもしてくれる。こわばって動かせなかった手足も(薬で)自 由に動くようになった。伸び放題だったひげも剃ってもらった。
 しかし、この時は錯乱が始まっていた。
 三日午後一〇時、じゃあ帰るからというと、バイバイをしてくれた。それが対馬さ んとのお別れになってしまった。
 対馬さんは良く知られているように、雑誌「創」の元発行人で、大塚公子さんの 「死刑執行人の苦悩」や死刑囚勝田清孝さんの「冥界に潜みし日々」を世に出した名 編集者であった。「アクセス権訴訟」ではジャーナリストとの面会を阻害することは 違法である、との判決を引き出した。
 フォーラム創設に向けても大きな力を発揮してくれ、死刑囚木村修治さんの支援や、執行が迫った死刑囚の人身保護請求人にもなった。
 フォーラム東京の有志で作っていた終身刑プロジェクトの発議者でもあり、そこで の議論は議連事務局案の原案的なものとなっている。それだけに「死刑廃止法案」の 行方は、最も気にかかることであった。
 七月一七日、苦しい息の中、痛くてたまらないのを我慢しながら、「死刑を残した ままの終身刑導入はおかしい、頼むよ何とかしてくれよ」であった。
 七月二一日、手術はできないことを告げた。「わかった、これから何ができるか考 えてみる」そして「宿題=死刑廃止のことは忘れないから」。
 七月三〇日、やっと泊まり込み体制を作る。新しい病院への転院に最後の希望をか けているのが痛いほどわかった。
 八月一日、前の病院の最後の夜、対馬さんは痛くて眠れない、付き添ってる私も当 然眠ることはできない。
 二日、移送の日、朝六時を過ぎたら「早く・早く」を繰り返す。錯乱状態の中でだ。
午前九時、主治医に付き添われて転院。一〇時半過ぎに新しい病院へ着いた。十一時 を過ぎると昏々と眠ってしまった。移送の疲れからだろうと考えていた。夜になって 病院を辞す。
 八月三日、午後二時から四時まで、家族も連れ合いも一時帰宅し、対馬さんと二人 だけで過ごした。錯乱はいっそうひどくなり、ウオーと叫び、手を高々と掲げる。三 〇日に泊まったときもそうだが、「魔物」と闘っているという。挙げた手を握ると 「ふ!」という感じで、目が合うと急に柔和ないつもの表情に戻る。
 四日、午前七時前仲間より電話が張る入る。前夜マナーモードのままになっていた。
電話に気づく前に、誰かが起こしに来てくれたように感じた。
 最後に苦しまさせてしまったことが悔しい。対馬さんのことは、私たちの心にしっ かりと焼き付いている。だからさよならは言わない。 (えがしら)

 対馬滋さん・・享年五二歳。


もどる
表紙