永山則夫さんとペルーの子どもたち・・・・・ある遺言の行方発刊
死刑廃止運動の一つの象徴であった永山則夫さんがさんが処刑された、一九九七年八月一日から満五年。ようやく報告書らしきものができた。といっても、東京のフリースクール東京シューレが編集発行した小さな冊子「東京シューレ、ナソップ訪問記 ペルーの働く子どもたち ある遺言の行方」に発行協力し、「遺言の行方」を担当したものです。
永山さんは死刑に処せられる直前「本の印税を日本と世界の貧しい子どもたちへ、
特にペルーの貧しい子どもたちに使ってほしい」と遺言を遺しました。
「貧しい子どもたちとは」いかにも永山さんらしい。だが何故「ペルー」なのか。
まるで雲をつかむような「ペルーの貧しい子どもたち」を追ってようやくたどり着
いたのは、ナソップ(本部リマ市・会員当時一万人)という働く子どもたちの自主運
営組織だった。永山さんは処刑五か月前の日本大使公邸占拠・人質事件の新聞報道を
通して、ペルーに住む大勢の働く子どもたちが自立のための資金を求めているのを知
った、らしい。執行直前の死刑囚そして作家永山さんの刑務所の壁を乗り越えた想像
力が、世界の働く子どもの困難を思いやり「特にペルーの」の言葉をのこしたのだ。
私たちはこう確信して印税の大半をナソップに送ることを決めました。
突然の永山さんへの処刑の衝撃が、予想を超えた一四〇〇万円もの印税収入を生み、一〇〇〇万円をナソップ(他に、先決していたペルーの孤児院エマヌエルホームに三〇〇万円)に送り届け、現地を訪ねて資金活用の様子も見てきましたが、ナソップの子どもたちは、永山さんの犯罪と反省と努力も知っていて、「ノリオ ナガヤマ を尊敬する。だけど僕らはノリオ ナガヤマ(のような殺人者)にはならない」ときっぱり語り、私たちは永山さんの「無知の涙」を体で理解した子どもたちとの出会いを実感。
永山さんの想いはペルーの働く子どもたちに引き継がれた、私たちは責任を果たし
た。と一安心した頃の二〇〇〇年五月、ナソップのリーダーの一人パティと支援者が
来日することになり、急遽集会を開き、パティは東京のフリースクールの若者たちと
も交流。ペルーの働く子どもと日本の不登校などの課題と取り組む若者たちの、この
出会いがきっかけとなって、私たちの手を離れた交流が始まっています。
永山さんの元弁護人で、永山さんが処刑される一年前にまるで下見をするようにペ
ルーを訪問していて、印税の送り先探しに奔走した大谷恭子弁護士が綴っています。
「永山が死刑の執行とひきかえに蒔いた種は、遠くペルーで、働く子どもたちの尊
厳と自立を守るためにの拠点として実を結んだ。それだけではない。・・・国境を越
えた仲間を作ろうとしている。死刑囚がペルーの働く子どもたちと日本の若者をつな
いだのである。このことが、なぜ永山の生ある内にできなかったのか。生が許されて
いたら、せめて死刑が確定しても自由に人と会え、本を出版することができたら、彼
は印税をペルーの貧しい子どもたちに送り、彼らと、交流したはずだこれを許さなか
った日本という国のあり方に怒りがわく。それでも、死んで尚、思いを実現し、働く
子どもと、出会え、彼らと、日本の若者との交流につながったことに、永山は満足し
てくれるに違いない。」
今年一月二二日、永山さんの最後の弁護人で、永山さんをノリオちゃんと呼び、一
周忌にあたる一九九八年八月一日には夫妻で遺骨をアバシリの海に散骨、弁護士と被
告の関係を超えていた遠藤誠弁護士が永眠。ガン克服を祈って、冊子作りのエンジン
をかけた矢先のことでした。今頃、釈迦マル論争(お釈迦様対マルクス)で激論して
いるかもしれない二人への追悼と、報告と、死刑廃止への願いを込めて、まとめたも
のです。
この機に、今までの歩みを振り返ってみたいと思います。
一九九七年八月一日(金)深夜から二日(土)の未明にかけて衝撃が走る。札幌で
日高夫妻、東京で神田さんと永山さん、死刑執行さるの報道。すぐ抗議と遺体引取支
援に動いたのは、「フォーラム九〇・アムネスティインターナショナル日本支部」等
のメンバーでした。身柄引受人とも遠藤弁護士とも連絡が取れない中かけつけた大谷
恭子弁護士も加わって、二日午前中に抗議の記者会見。「自分が殺されたほど驚いた。何がなんだかわからなかった」と述懐しています。午後遺体引取の連絡を入れたが、永山さんは火葬に。
後でわかったことですが、永山さんは彼と外部をつないだ唯一の人、身柄引受人の辞退を知らされ、三人の候補者に順次依頼することを許可されて返事を待つ、一ヶ月半の空白の時、に処刑されていました。処刑の切迫も知らず、互いに面識のない者が、身柄引受人を依頼され対応していたそれぞれの断片と、永山さんが発した三通の手紙をつなぎ合わせて、ようやくわかってきたのです。周到な準備をし、決まるとし決まる直前に実行されたと。当然の衝撃で混乱する人々を励まし支えて、フォーラム九〇等のサポートは続きました。
四日(月)遠藤、大谷、安田好弘、田鎖麻衣子の四弁護士が東京拘置所に出向き、遺骨、遺品を引き取る。そこで、永山さんが言い遺した言葉を聞く永山さんは被害者、遺族への償いの作業として、最後まで書き続けていた。外に出せなかった小説「華」の原稿はあったが『日記』はない、と拘置所側は主張。領置品目録も見せず。
八月一四日葬儀。葬主遠藤誠。於東京林泉寺。参列者約一五〇名。
九月一日「永山子ども基金」発足。なぜ執行を許してしまったのか、心に深い傷を負った人々が集い、遺言を確認して実行することになった。本が売れるだろうか。予測もできなかったが、申し出のあった、新日本文学賞受賞小説『木橋』の増刷を決め、『華』の他に出版できるものを探すことと「ペルーの貧しい子どもたち」探しに着手することになった。同席した安田弁護士は基金の発足を見届けて、退席。
一〇月二〇日、遺稿集『日本』発刊。続いて一一月に『華』TU部、一二月にVW
部など計一二の著作一七万部が発行された。翌年四月には一〇〇〇万円の印税収入と
なった。
一九九八年七月一〇日、コンサート「Nから子どもたちへ ペルーの子どもたちへ
今歌声をそえて」(於東京、出演:長谷川きよし、友川かずき、新谷のりこ、せき
ずい、参加者五五〇名)の会場で、印税一四〇〇万円を超えたと報告し、二つの送金
先を発表。
七月二八日、先に決めていたリマ市の孤児院、エマヌエルホーム三〇〇万円を送金。
一二月九日、二つ目の送金先、路上の子どもたちの支援組織マントックに第一回分二八〇万円を送金。ペルーの二〇〇万人以上の働く子どもたちの自立をめざした活動の中から、世界で最初の働く子どもたち自身の自助組織、ナソップが一九九六年に誕生していた。資金はナソップが自ら詳細な計画を立て、職業訓練、教育、リクリエーションなどのプロジェクトを組んで活用されることになった。 一九九九年一月、第二回分として二三〇万円を送金。当初の送金予定額七〇〇万円を変更して、三〇〇万円を増額。遺品関連予算を残してすべてをナソップに送ると決めた。
八月二三日〜九月二日、ペルー訪問。「ペルーの子どもと出会う旅」に新谷のり子
他一一名が自費参加。第三回分として残りの五三〇余万円を贈る。資金活用報告書受
領。資金の増額を受けて、計画を変更し、ナソップの家を獲得。活動の拠点ができた。
一一月二七日、ペルー報告会。新谷のり子他、於東京。参加者三〇名。
終えて、一安心した頃、ナソップのリーダーと支援者が来日することになった。
二〇〇〇年五月一九日、集会「Nから子どもたちへ ペルーの子どもたちと今」於
東京、参加者一五〇名。満員の参加者を前にナソップの代表の一人パティ(一八歳)
が語りかけた。「ペルーには一ソル(約四〇円)を稼ぐのに売春をする子どもがいる。罪を犯さざるを得ない社会要因があるのです。」「ナガヤマは人は変われる」と体で証明し希望を与えた。彼の遺志をを引き継ぎます。」ビデオも持参して、資金活用の報告と活動も紹介。翌日は東京のフリースクール、東京シューレを訪ねて交流。
これがきっかけとなって、私たちの手を離れた交流がはじまっている。
二〇〇一年八月末、東京シューレのメンバー等、ナソップを訪問。
二〇〇二年二月、ナソップのメンバー、東京シューレを訪問。
働く子どもと不登校と、課題は違って見えても互いを引き寄せるものは何か。南米
諸国やインドの働く子どもたちとも交流を始めているナソップと日本のシューレの、
今後に交流に注目したい。
遠藤弁護士は、パティ来日の際の集会で最後に挨拶に立ち、こう締めくくりました。
「我が国には金の切れ目は縁の切れ目という言葉があります。・・・どうか皆様方の
御喜捨を持って末永く、この縁を深めさせていただくようお願いします。」
願わくば、永山さんの生と死と遺したものが、子どもたちの人権確立と、死刑廃止
の一つの糸口となりますように。永山さんが死刑執行と引きかえに遺したささやかな
実践を引き継いでいきたいと思います。今日までご支援下さった皆様に心からの感謝
を込めて。
二〇〇二年八月一〇日 永山子ども基金 文責 市原みちえ
なお、遠藤誠弁護士の死去によって、永山さんの遺産は、妻けい子さんが相続。御
好意によって、全てを委任され、今まで通り印税と遺品の管理などを行うことになり
ました。
冊子一冊・送料込みで一〇〇〇円
冊子注文・カンパ先(郵便振替口座)
口座番号00190−3−183590
口座名称 永山子ども基金
連絡先 東京都新宿区四谷2−4−4
ミツヤ四谷ビル6階
四谷共同法律事務所
弁護士 大谷恭子
電話 〇三ー三三五三ー七七七一
FAX〇三ー三三五三ー七七七三
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