ちょっと長めの編集後記

 この号、やはり最後は時間との競争になってしまいました。お願いしていた原稿が二つも来なくて、おまけに自分の担当部分、「欧州評議会・議連の司法人権セミナー」報告が、当初より大幅に膨らんでしまい、またまた読みつらいものとなってしまいました。
こんなピンチの時、いつも助けてくれていたのは対馬さんでした。対馬さんと出会 ったのは、もう二〇年も前だったと思います。土田・日赤・ピース缶事件支援の集会 (東京・飯田橋)で、私は集会後の飲み会の会場取りを命じられました。その時、偶 然にも最後列に座っていた、当時、顔だけは知っていた対馬さんに同行をお願いした のでした。雑誌「創」の発行人だと言うことも、その時はじめて知りました。全くの 初対面に近い状態でした。
 その時は世間話程度で終わっていたのでした。
 ちゃんと話ができたのは、それからまだまだ数年後になります。当時作ったばかり の、私たち「木村修治さん救援会議」が、対馬さんと修治さんが共同原告の「アクセ ス権訴訟」の事を知りたくて、「どんなことをしようとしているのか教えてよ」とお 願いしました。対馬さんは会議に飛んできてくれました。
 「会議が終わったら必ず飲む」とう作風(?)はまだなく、しかも十一時には会議 をやっているビルが閉められてしまいました。しかたなく深夜喫茶(当時はそう呼ん でいました)に移り、最終電車ぎりぎりまで話しました。その日から対馬さんは「修 治さん救援」の重要な一員となりました。
 当時対馬さんは新宿・厚生年金会館のすぐ近くに住んでいて、事務所(創)は赤坂 にありました。こんな環境ですから、みんなで飲むようになり、今ではフォーラム・ 東京の会議の後は「飲む」のが当たり前となってしまいました。
 対馬さんとはよく旅行に行きました。といっても全国あちこちで開催される集会・ 合宿時などのとき、示し合わせて二・三日前に東京を抜け出しすのです。松山で集会 が開かれたとき、高知・中村・宇和島と四国を半周しました。中村で幸徳秋水のお墓 参りの後寄った居酒屋で、清水から来ているという人と仲良くなり、「昔と違って道 も良くなっていて、足摺まで行っても宇和島には着ける、送ってあげるからアサ九時 に橋で待っていなさい」という約束を反故にしてしまったのは。アサ極めて弱かった 対馬さんのせいだと思っています。
 会計報告、事情でこの号ではできません。だけど大幅な赤字であることは間違いあ りません。死刑廃止にとって極めて重大なこの時です。皆さんのカンパを是非是非お 願いします。
 合宿でお会いできるのを楽しみにしています。・え


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