子どもたちに関する事件【事例】



注 :
告発した被害者の勇気をたたえます。そして、二度と同じ悲劇を繰り返さないために、あえて事例としてここに掲げました。被害者がこれ以上、傷つことがないよう留意を願います。

学校名については類似事件と区別するためと、隠蔽をはかるよりも、学校も、地域も、事実を事実として重く受けとめて、二度と同じ悲劇を繰り返さないで欲しいという願いを込めて、そのまま使用しています。
S.TAKEDA
951011 教師のワイセツ行為・体罰 2002.4.10 2002.1.23 2003.6.29更新
1992-
1995
奈良県の県立西の京高校の演劇部顧問をつとめていた教師(32)が、1992年夏頃から約3年間にわたって、演劇部の生徒たちに演技指導と言って、体罰や性暴力を加えていた。生徒が卒業後も自ら主催する劇団に所属させて性的暴力を繰り返していた。
事件発覚のきっかけと経緯 1995/8/下旬 A子さん(当時大学2年生・1991/4N高校に入学し演劇部所属、1994/3卒業。卒業後は劇団「あすか」に役者として所属)が、写真スタジオの経営者Kさんに電話で相談しているのを聞いた父親からの問いかけで、事件が発覚。

劇団をやめようとすると、I教師から、「劇団をやめるなら、おまえの(父親が経営している)店をつぶす。おれは議員やヤクザを知っているから、簡単につぶせる」「劇団をやめるなら、大学もやめろ。やめるんなら、明日、2万円持ってこい。退団金は20万円だ。そのどちらもできないなら、劇団に残れ。将来、職業につくとき、おまえのじゃまをしてやる。奈良市の知り合いに手を回すぞ」と脅されたことをA子さんは両親に打ち明けた。

写真家でN高校の近くで写真スタジオ経営しているKさんは、プロの役者としても活動していたこともあった。A子さんらが在学中に公演のパンフレットに広告を出してもらために飛び込みで広告出稿を依頼したことをきっかけに、A子さんたちのよき相談者だった。
A子さんから話を聞く前に、劇団「あすか」に所属していて、本件の女子生徒たちの先輩にあたる女性から、Iにしつこく言い寄られていると相談されていた。また、卒業後、KさんのスタジオでB美さんがアルバイトをするようになって、Iの行状について聞かされた。
Kさんが、「あすか」のメンバーを自宅に集めたところ、その場で女性たちは体験を打ち明けあった。みな自分一人だけが被害にあっていると思っていた。

A子さんが、両親に告白したことに続いて、他のメンバーも親に打ち明けた。
内 容 ・演劇でミスをすると、「家から金を持ってこい」と言われた。「できない」と言うと、「意気地なし」と言われた。「家のレジから金を盗んでこい」「親から金を盗むのは罪にならない」と言われた。

・演劇指導と称して、「手首を切れ」「中途半端に切るな。どうせ、おまえは手首を切れかだろう」「ほかの部員なら、要領よく手首を傷つけて見せにやってくるぞ」と言われた。

・「眉毛を剃ってこい」と言われ、カミソリで剃っていったら、職員室に連れて行かれ、みんなに笑われた生徒もいた。I教師は、「おれは、ただ眉毛を細く剃ってこいと言ったんだ」と言った。一方で、以前に同様に言われて、眉毛を細くしていったところ、「かっこうをつけている」と叱られた生徒もいた。

・I教師は反省文や作文を生徒によく書かせた。自分の意見を書くと、「おまえの価値観や考え方は間違っている」と2〜3時間説教され、I教師が気に入るように書き直しさせられた。
別室に呼ばれ、「おまえの価値観は間違っている」と説教されることがよくあった。
「お前の根性は腐っている。おまえはカスじゃ、すべてにおいてイエスマンになれ、俺に服従しろ」とネチネチ言われ続けた。

・ささいなことで、平手で20〜30発殴られる。平手で往復ビンタを繰り返されることはしょっちゅうだった。腹を蹴飛ばされたり、げんこつで顔や腹をなぐられることもよくあった。倒れないよう腕を掴まれて殴られることもあった。
壁に頭を打ち付けられたこともあった。土下座させられて、頭を踏みつけられた生徒もいた。

・Iは、「ボクシングをやっているので、左手が出たら怖い」と脅かしていた。「足腰を立たないようにしてやろうか」とよく言っていた。

・アザをつくって帰っても、「ダンスをやっている時に、相手の手が顔にあたった」「ドアに顔をぶつけた」と家人に答えていた。I教師が生徒に、親にはそういっておくよう命じていた。

・Iは、レイプは現在、裁判上成立しにくいことをよく話していた。

・Iは、「演劇部の顧問であれば、校長や教頭も殴っていいと認めている。したがって、お前らが何を言っても問題にならない」と言っていた。

・部室は「サティアン」と呼ばれて、女子生徒にとって恐怖の部屋だった。中から施錠し、高いボリュームで音楽をかけていた。

・大学の推薦入学を望む生徒や教職員をめざす生徒たちには「県教委に知り合いがいる。親に相談すれば、教員採用に不利になることを覚えておけ」と脅迫していた。
主な事件と経緯 1991/4 A子さんC子さんが入学と同時に演劇部に入部。当時の部長が代表責任をとらされてたまに殴られるのを見たことはあるが、毎日のように殴られることはなかった。
この頃は体罰は週に1回くらい。バケツに水を汲んでこいと言われて、水をかけられた先輩がいた。

1992/4 B美さんD美さんが入学してから、体罰と性暴力がはじまる。

1993/4 B美さんはIから、愛媛で開かれた高校演劇の全国大会の下見に誘われた。車の中や夏に新聞部室でカギをかけて、肉体関係を持たされた。

1993/7 「いつかきっと」の公演あたりから、I教師の暴力がエスカレート。同時に性的暴力も加わる。(この頃、I教師は翌年の近畿地方の高校演劇部が集まって開催されるフェスティバルの総合演出に選ばれ、張り切っていた。)

稽古のときにハーフトップのレオタードを好んで着せるようになった。「ブラジャーをするな」と言われ、Tシャツの下に手を入れてブラジャーのホックをはずしたりした。スパッツは上ぎりぎりにさせられ、ブラジャーをとらされて、身体の線をよく見せようというスタイルでの稽古が多くなった。
ジャージを引っ張って下ろすこともあった。下ろされないよう、ひもで縛っていると怒られ、それが2〜3回続くと平手打ちされた。

メンタルトレーニングの一つとして、水を4〜5リットル一気に飲んで、廊下を走らされ、トイレを禁止する稽古があった。部屋で吐いても小水をしてもいけなかった。

1993/8 初め頃、演劇で母親役をしていたC子さん(当時高3)を、Iは練習途中で新聞部室(よく説教に使用された)に呼び出した。部室の内側からカギをかけ、「母親の子どもを産んだあとの開放感をわからんといかん」と言われた。

1993/9 稽古中に、D美さん(当時高2)の動作に腹を立てたIは、自分の席の前に呼びつけて説教しながら前の生徒用の机をわざと突き飛ばした結果、D美さんのつま先に飛んできた。親指と第二指が折れて全治2か月のけがを負う。Iから謝罪はない。

1994/2/4 午前7時半からの同校4階の社会科教室においての演劇部の早朝練習に遅刻したB美さん(当時高2)を、I教師が平手で約20発殴り、こぶしで腹を2〜3回殴打。I教師はけがの原因を親に黙っているよう命じていた。B美さんは、右耳の鼓膜を破るなど全治9か月のけが。4か月以上通院したが治らず、別の病院で手術。

1994/3 稽古中、D美さんの動作に腹を立てたIが、平手で20発以上殴り、外耳炎になる。

1994/3 部員の1人が、音響操作を誤り、気がすむまで殴られた。

1994/3 卒業旅行時に、A子さん、C子さんを含む4人のなかにIが加わり、2日目の晩にA子さんの体に服の上から触ったりした。3日目の晩には、Iは別の女子生徒にも手を出した。
この頃からA子さんはIに洗脳され、「好きなひとには許されるだろう」と考えるようになった。

1994/4 卒業したA子さんの通う大学にIが迎えに来て、車のなかでマスターベーションをするように言われる。断ると、「価値観が間違っている。俺が正しい。みんな断らない」と2〜3時間説教された。

1994/7-8 合宿中にB美さんはIに布団の中で触られた。だんだん好きでもないIが好きになっていく気がした。IはB美さんをよく叩いたり殴ったりしたが、その後で「お前が好きだ。好きだ」と言われた。

1995/4 A子さんは万博へドライブシアターに誘われたが、Iがヘルペスにかかり、声がでなかったため機嫌が悪かった。運転士ながらIはA子さんを殴ったり、つねったりした。

1995/6 N高校の先輩の撮影会の帰りの昼間、A子さんはIの車に乗ったが、疲れて眠ってしまい、気がつくとラブホテルだった。その時は部屋に入ったが疲れており、何もなかった。
その後、神戸で泊まったり、月3〜4回、デートに誘われた。
いつも説教があってうんざりしていた。このようなものだと思って付き合っていた。価値観を変えられ、髪型も服装も変えさせられた。
A子さんは、Iの奥さんの雑誌のバイトが切られるのがいやで、断れなかった。

1995/6 6月講演の本番当日の通し稽古で、A子さんは演技ができず怒られ、殴られて倒れたときに蝶つがいに顔をぶつけて目の横からAを出した。(今も傷が少し残っている)

1995/8 夜7〜8時頃、演劇フェスティバルで使用する紙の色がA子さんの確認ミスで希望した色と違う色になったとして、教室と廊下で何十回も平手打ちと腹部を蹴られた。後ろに積まれたビールケースにあたって倒れ、ふらふらしていたら「弱虫」と言われた。

1995/9/1 演劇部員は減少していたが、最後まで残っていた部員(内1名男子生徒、4名女子生徒)が退部届けを出し、演劇部は解散。
学校・教育委員会の対応 1995/9/10 「被害者の会」発足。親たちが教育委員会に出向き、被害を説明。
本人らも直接被害を訴え、県教育委員会に「I教諭をなんとかやめさせてほしい」と頼んだ。

1995/9/13 県教育委員会から連絡を受けた校長がIに事情聴取したところ、Iは「演劇の指導中にささいなことから生徒を殴り、耳の鼓膜を破ったことはあるが、その他の体罰はなかった」と主張。

教育委員会は、「言い分が食い違っている。(I教師は)セクハラは演技指導の一環だと言っている」「事実を確認できない」としていた。
教育委員会は、I教師に何らかの処分を出しときには、事前に必ず知らせると約束したが、果たさなかった。(親たちは新聞社からIの逮捕を聞いて知った)

1995/10/7 N高校はIを諭旨免職にする。(後に退職金だけは支払われないことに決定

1995/10/11 Iが逮捕されたことを受けての記者会見で「なぜ、懲戒ではなく諭旨なのか」という記者の質問に対して、奈良県教育委員長は、この程度」「こういう指導の行き過ぎについて」「私どもの事故処理委員会でも、十分、調査し、研究した結果」「指導の行き過ぎからの行為で、両者の言い分にもくいちがいがある」ために諭旨にしたと説明
学校の認知と対応 一部の教師はIの暴力を知っており、生徒に対して、「いつも殴られてたいへんやな。病院には行っとけや」などと言っていた。

稽古に使っていた社会科教室は、中庭をはさんで職員室の向かいの校舎3階にあり、I教師のさけぶ「バカヤロウ」の声が職員室まで届いていた。

1995/6 I教師の暴力に耐えかねて、1年生部員が集団で退部。しかし、学校は関心を示さなかった。

1995/7 I教師は、男子部員(高1)を殴ってけがをさせ、生徒の親が学校に抗議をしていた。学校側はI教師の「殴っていない」という言葉だけを信じてあいまいにしていた。
加害者の供述 Iは警察に逮捕される前は、奈良県教委や学校の事情聴取に対して「性的いやがらせをした覚えはない」と言っていた。警察の取り調べのなかで、「一部の女子の胸に触ったりしたことがある」などと、わいせつ行為数件について自供。
加害者の処罰・裁判(刑事) 1995/10/11 奈良署がIを、B美さんとD美さんに対する暴行容疑で立件。傷害容疑で逮捕。
1995/11/1 奈良署はIを、A子さんとC子さんに対する強制わいせつ罪で再逮捕。
1997/2 Iに2年7か月の実刑判決。Iは控訴したが棄却され確定。
裁判(民事) 元演劇部員の女性4人が、加害教師と学校と県の管理責任を問うて提訴。

県側は、「元教諭の行為を校長らは知り得る状況になく、体罰やセクシャル・ハラスメントは予見できなかった」「早い段階で被害を申告しなかったのは、原告側に過失がある」と主張。
裁判結果1 1998/10 Iが元演劇部員の女性4人に慰謝料1000万円を支払うことで和解。
裁判結果2 1999/12/1 奈良地裁で原告側が全面勝利。
県側に、元演劇部員の女性4人に対して、慰謝料1100万円の支払い命令。

元教師の行為を「教諭と生徒の身分関係を利用したもので悪質」と認定。
学校の責任については、「原告以外の生徒の父母が、元教諭の暴力について担任に訴えたり、行きすぎた指導をほかの教諭が見ていることから、部活動のあり方について、管理職にも責任があった」と判示。
参考資料 「スクール・セクハラ防止マニュアル」/田中早苗著/明石書店、「教師失格」/藤井誠二著/2001.4.20筑摩書房発行、「いじめなんかはねかえせ!ルネスいじめかけこみ館からの報告」/谷澤忠彦著/1996.8.1ティーツー出版1995/10/19東京新聞(「子ども論」1995.12/クレヨンハウス)



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