注 : 加害者や担当教師名等については、個人に問題を帰すよりも、社会全体の、あるいは学校、教師全体の問題として捉えるべきではないかと考え、匿名にしてあります。 学校名については類似事件と区別するためと、隠蔽をはかるよりも、学校も、地域も、事実を事実として重く受けとめて、二度と同じ悲劇を繰り返さないで欲しいという願いを込めて、そのまま使用しています。 |
S.TAKEDA |
830215 | 校内暴力 教師の生徒傷害事件 |
2001.10.10新規 |
1983/2/15 | 東京都町田市の市立忠生中学校で、Y男性教師(38)が、「センコー」と叫んで泥落とし用の金属マットを振りかざして向かってきた男子生徒Aくん(中3・15)の右胸を、上着のポケットから取り出した果物ナイフで刺し、10日間の怪我を負わせた。 | |
経 緯 | 2/15 午後2時過ぎ、理科の授業中にジュースを飲んだり、シャボン玉を飛ばしたりして注意された男子生徒が、廊下で教師を殴ったという事件があった。 3時25分頃、Y教師が廊下を渡って、顧問をしている海外文通クラブのクラブ室に行こうとしたところ、番長格の男子生徒Bくん(中3・15)が左肩をわざとY教師にぶつけてきた。 20分ほど後に、クラブ室から職員室に戻ろうとしたところ、Bくんがまだ廊下にいて、殴るまねをしたり足蹴りを食わせようとした。そこへBくんの仲間のAくんも現れて、ズックを投げつけたりした。 Y教師は職員室に逃げ帰り、「Bくんの担任はいませんか」と声をかけたが、同僚からは返事がなかった。Y教師は教頭に事件を報告。帰宅届けを出していつもより1時間早めに学校を出ようとした。 4時頃、玄関を出ようとしたところ、そこにAくんが、廊下にはBくんがいた。 Aくんは泥落とし用の金属マットを振り上げ、「先公!」と怒鳴りながら殴りかかってきた。Y教師はあわてて、上着のポケットから果物ナイフを取り出し、Aくんの右胸を刺した。 Y教師は、「おまえらがそんなことをするからだ」「おまえらがやるからおれもやった」と叫び、周囲の生徒にも「おまえらもやってやる」と言った。(生徒の目撃証言) 現場を目撃した生徒が他の教師に知らせて呼ぶと、Y教師は駐車場のほうに逃げ、そのまま自分の車に乗って走り去った。 Y教師は元教師でクリスチャンの父親の家に直行し、事件を告白した。 |
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経 緯 | 1983/1/15 事件の1ヶ月前、Y教師が海外文通クラブ室に行くと、1年前に同クラブをやめたBくんも来ていた。部員の出席をとる時に、Bくんの名前も呼んだところ、Bくんは「なんでオレの名前を呼ぶんだ」と言って、Y教師を追いかけ回した。 Y教師は、職員室に逃げ込んだが、Bくんも職員室まで追いかけてきて、Y教師の腹を蹴ったり、胸や頭を殴ったりして、10日間ほどのケガを負わせた。 他の教師が側にいたが、誰もBくんの暴行を止めようとはしなかった。 Bくんは、この時の暴行で町田署に補導されたことを根に持って仕返しをしようと狙っていた。 |
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背 景 | 町田市は振興都市・ベッド・タウンだった。「万引きシティ」と言われるほど万引きが多く、この年補導数が525件にのぼった。(同年渋谷が333件、池袋が349件) 1983年 この年は全国的に中学生の校内暴力が騒がれていた。 忠生中学校は生徒数1449人、34学級の東京都で1、2を争うマンモス校だった。対して、教員数は59人と少なかった。 校内暴力が多発。とくに1982年頃から表面化。トイレのガラスや便器、間仕切りドア、玄関ドアなどが破壊された。 1982/11/4 教室で文化祭の片づけをしていた教師が、近くにいた男子生徒(中3)に、「ゴミを捨てなさい」と言って殴られた。 11/半ば 2時限目が終わった時、廊下で爆竹がなり、駆けつけた教師が番長格の生徒(中3)に注意をして殴られた。教師のひとりはそのとき、右手中指を骨折。 生徒指導の教師を中心に、体罰が肯定され、行われていた。 |
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警察の対応 | 2/17 Y教師を傷害・銃刀法違反の容疑で身柄送検。 町田署の防犯課長は、「Y教諭の行為は正当防衛に近いものだったが、本人が思い詰める性格なので、保護の意味もあって逮捕に踏み切った」と説明。 |
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加害者 (Y教師) |
1987/7 同中学校に赴任。英語の教師。体格は非常によいが、おとなしかった。 1944年に広島で生まれ、1945/8 まだ1歳にならないとき、広島の自宅で被爆。そのため、体が疲れやすく動作が緩慢だった。 日頃、一部の生徒から「ヒバクシャ」「ゲンバク」といってよくからかわれていた。 警察で、なぜ刺して逃げたかと聞かれ、「なぜって、怖いからです」「学校はほんとうに怖いところです」と答えた。 凶器のナイフは、2年前に果物をむくために買って、職員室の自分の机の中に入れていた。用がなくなったので持ち帰ろうとした。襲撃に備えたものではないと主張した。 2/20 以降、学校には一切連絡をとらない。 |
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加害者の謝罪 | 2/22 Y教師はAくんの家と教育長に謝罪の電話を入れる。教育長から謝罪に行ったほうがいいのではないかと言われ、妻を代理として謝罪に行かせた。 2/26 市の教育長あてに辞職願いを提出。 2/28 弁護士がY教師の声明文(辞職願いと世間に対する謝罪)を発表。 |
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教育委員会の対応 | 3/25 都教育委員会は、Y教師を諭旨退職にした。管理責任者の校長を戒告処分にした。 | |
被害者 (生徒Aくん) |
Aくんの両親は再婚で、Aくんは連れ子だった。補導歴が1回あった。Y教師と廊下で顔を合わせると、雑巾をぶつけるなどした。 Aくんからは、「Y先生に悪かった」という言葉があった。 事件当日、Aくんの父親は「うちの子が全面的に悪い、学校を批判するつもりはない」と言っていたが、2/29 Aくんに代わって被害届けを出す。 |
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関係者 (生徒Bくん) |
Bくん(中3)の両親は共働き。 1982/11 友人と2人で自転車を盗んで補導、1983/1 校内暴力で補導、計3回補導されたことがあった。突っ張りのリーダー格といわれていた。 事件の1カ月前、A、Bくんのグループは2年生のグループと対立。権力争いが対教師暴力に移行していった。 |
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生徒の処分 | 2/22 1月にも傷害・暴行事件を起こしていたとして、AとBほか17名の生徒を東京地検八王子支部に書類送検。 | |
学校の対応 | 2/16 事件の翌日、校長は「Y先生は一部の生徒との仲が悪かった」「おとなしくて、からかわれやすいタイプで、この事件はちょっと特異なケースではないか」と話した。 また、「理由はともかく、教師としてナイフを手にするなど、絶対にしてはならない」「生徒をそのままにして、父親のところに走ったことは許されない」とコメントした。 2/19 PTA総会のあとの記者会見で校長は「(Y教師は)教師としての資質に若干の問題がある」と話した。 学校はY教師との関係を一切断ち、その行動を知らない。 |
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PTAの対応 | 2/19 PTA総会で、 1.マンモス化した学区内に新設校建設を要求すること。 2.授業参観の機会をできるだけ多くする。 3.地域で子どもに一声運動を展開する。 4.Y教師に対する減刑嘆願の署名運動を起こす。 ことなどが提案・採択される。 |
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その他の対応 | 2/19 事件を知った忠生中学の突っ張りグループOBが15人、校門に集まって、「おれたちのときは、集団で先生に乱暴するような卑怯なまねはしなかった。在校生に説教に来た。根性をたたき直してやる」と下級生らを手招きして言った。教師が現れて、「心配しないで任せてくれ。今日のところは引き揚げてくれ」と説得すると、短時間で解散した。 2/24 被爆者代表が町田市役所に、被爆者であるY教師の資質うんぬんは差別だとして抗議。 2/24 政府関係者が学校を視察。校内の荒れた様子を見て驚く。 |
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その後 | その後も暴力事件が続く。 3/4 女子生徒(中2)6人が、同級生の女子生徒A子さん(中2)を裏の林に連れていき、グループから逃げようとしているとして、暴行を加えた。 3/11 男子生徒(中2)4人が下級生(中1)の1人をあいさつが悪いと暴行。 3/15 女子生徒(中3)7人が、A子さん(同上)をなまいきだと言って暴行を加えた。 3/18 卒業式に警官が導入。 |
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参考資料 | 「犯罪ドキュメントシリーズ 少年少女犯罪」/安田雅企/1985.6.18東京法経学院出版、「子どもの犯罪と死」/山崎哲・芹沢俊介/1987.12.25春秋社、「学校の中の事件と犯罪 1945−1985/柿沼昌芳め永野恒雄編著/2002.11.25批評社」 | |
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