注 : 被害者の氏名は、一人ひとりの墓碑銘を私たちの心に深く刻むために、書籍等に掲載された氏名をそのまま使用させていただいています。ただし、加害者や担当教師名等については、個人に問題を帰すよりも、社会全体の、あるいは学校、教師全体の問題として捉えるべきではないかと考え、匿名にしてあります。 また、学校名については類似事件と区別するためと、隠蔽をはかるよりも、学校も、地域も、事実を事実として重く受けとめて、二度と同じ悲劇を繰り返さないで欲しいという願いを込めて、そのまま使用しています。 |
S.TAKEDA |
940529 | いじめ自殺 | 2000.9.10. 2001.5.3 2001.5.25 2003.7.1 2005.5.15更新 |
1994/5/29 | 岡山県総社市で、組合立の総社東中学校の菅野明雄くん(中3・14)が、自宅近くの神社内の雑木林で首吊り自殺。 | |
遺 書 | 遺体の足元に置かれたバックの下に、 「○○に金をもってこいといわれている」「○月 自転車置き場で○円を払えとなぐられた」「○月 ××(同級生氏名)宅でなぐられた」「(家から)持ち出した金でCDプレーヤーを弁償させられた」などと鉛筆で走り書きした3ページのメモがあった。 同級生5人の名前と、暴行の様子、家から持ち出した金の使い道が記してあった。 |
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経 緯 (後の調査で判明したことを含む) |
1992/ 1年生の2学期頃から、いじめが始まった。 /秋 明雄くんは、家から約2万円を持ち出し、同級生グループに渡していた。 それを知った学校側は、金を返却させるなどの指導をしていた。 1993/秋 2年生の2学期から3学期、いじめが毎日のように続いた。 自転車置き場や階段で殴ったり、1回5000円から1万円、計5〜6万円のお金を数回にわたって脅し取った。ジュースなどを買いに行かせるなどの使い走りもさせていた。 1994/2/下旬 生徒の自宅で、4人がかりで明雄くんの頭や足を殴ったり、けったりした。 4/ 3年生になってからも、自転車のライトが割られたり、手や足にあざをつくって帰ることが何度かあった。親には、「転んだ」などと話すだけだった。 給食時間に、ふりかけを頭からかけられたり、かばんの中にのりを流し込まれるなどしていた。 5/ 2人の生徒が、明雄くんから1回ずつ、数1000円を脅し取った。 5/9 自宅から1万円単位の現金が何度かなくなることがあり、母親がいじめにあっているのではないかと、学校を訪れ、校長室で学年主任(43)と担任に相談していた。 2人の教師が呼び出して真相を尋ねたが、明雄くんは「取っていない。信じてもらえないのか」と言い張った。 5/24 母親が明雄くんから金を要求していた生徒の名前を聞き出し、再び学校に相談に訪れた。 修学旅行から帰ってから、改めて対応を考えることを話し合った。 5/25-27 2泊3日の修学旅行。 5/28-29 学校は2日間、修学旅行の代休。 5/29 翌日から学校が始まる日の朝8時に、「テニス部の練習に行く」と言って家を出た。 死亡推定時刻は夜。その間の足取りは不明。 |
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証 言 | 同級生の間では、明雄くんが殴られたりしているのは日常の風景だった。 (同級生の証言)「1年生の時、体育の授業が終わった後、更衣室でよく殴られていた。『大丈夫』と聞くと目に涙をためながら『いつもやられているから平気だよ』と言っていた」 2年生の終わりに、同級生が、「先生に言ったらいいじゃないか」と話すと、「言ったら殴られるからいいよ」と答えた。 血を流し、「どうしたん」と聞かれても、明雄くんは「転んだ」と言って笑っていた。 普段はひょうきんだったが、いじめられる時は石のように黙ってしまって、やられっぱなしだった。 明雄くんは、いじめていたグループと常に行動を共にしていたので、「同じグループ」と見られていた。 修学旅行の直前に、明雄くんは同級生に「死にたい」と漏らしていた。 |
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担任の対応 | 女性の担任教師(33)は、「2年生からの引き継ぎでも、特にいじめられているという話はなかった」「修学旅行中も変わった様子はなかった」ため、いじめられて、行き詰まっているという認識がなかった。また、「3年生になってから欠席もなく、虐げられるようなイメージではなかった」ために気付かなかったとした。 | |
学校・ほかの対応 | 学校は、同生徒の体にいじめが原因と見られるあざができた事実をかなり前から知っていながら、素早い対応をとっていなかった。 6/2 校長は取材に、「いじめを知り、今春の学級編成で不自然な関わりを持っている生徒を意識的に他のクラスに替えた」と答えた。また、目が届かない階段の踊り場などを見回っていたという。 6/8 校長が「自殺の原因はいじめだった」と認める。 |
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加害者 | メモに名前のあった同級生5人を含めた関係者から事情聴取をした結果、4人がいじめを認める。 「おとなしく、言いなりになって金を持ってきたから」と話す。 遺書にあったほかに、新たに別の4人が判明。 8人がいくつかのグループごとに別れて、集団的、常習的暴力を働いていたとみられる。 いじめグループは複数あり、卒業生も加わっていた疑いがある。 |
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加害者の処分 | 同級生8人を暴行・恐喝の疑いで、家裁に送致。 1994/11/21 岡山家裁は、いじめと自殺の関係を認定し、7人を短期保護観察処分。1人を不処分。 処遇理由として、「被害者の自殺は、長期間にわたる多数からのいじめがその要因になっているものの、そのほかにも被害者に対する家庭の対応の仕方、被害者の性格、学校の教育のあり方など種々の事柄が原因をなしていること、また少年らは多数の弱い者いじめの行動に無分別に同調し他人に対する思いやりを欠いてはいたが、いずれもこれまで処分歴もなく非行性もさして高くないことなど」が考慮された。 |
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学校・ほかの対応 | 岡山地方法務局人権擁護課が、人権侵犯の疑いで調査を開始。 1994/8/22 岡山県教委が、「いじめに対する認識が不十分だった」として、中学校長ら9人を減給などの処分にした。 |
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関 連 | 明雄くんの自殺後も、別の生徒(中3)が、いじめグループから暴行を受け、2学期から別の中学校に転校していた。 | |
その後 | 学校は、教師が生徒たちに積極的に声をかける運動を始め、教育相談の回数を増やした。 県警が、いじめの「110番」と対策班を設置。 1994/11/20 同中保護者らが「子育て・教育なんでも語る会」を発足。 両親が市教育委員会とともに「いじめ防止の手引き書」の作成を計画。一周忌をメドに完成を目指していたが、事例紹介の編集にあたって、「明雄の事例を具体的に説明しなければ、いじめの発見、解決の手がかりがなくなってしまう」と危惧する両親に対して、「金を巻き上げたり、殴ったりするなど、具体的な事例が入ることで、内容が生々しくなり、いじめた生徒のプライバシーが侵害される恐れがある」と難色を示す市教委との間で、難航。(1995/7時点) |
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参考資料 | 1994/6/6中国新聞、1994/6/6毎日新聞・夕刊、1994/6/22京都新聞・夕刊(月刊「子ども論」1994年8月号/クレヨンハウス)、総力取材「いじめ」事件/毎日新聞社社会部編/1995年2月10日毎日新聞社、いじめ・自殺・遺書 「ぼくたちは、生きたかった!」/子どものしあわせ編集部・編/1995年2月草土文化、「いじめ問題ハンドブック」−学校に子どもの人権を−/日本弁護士連合会/1995年6月10日こうち書房、1995/7/4讀賣新聞・大阪・夕刊(「月刊「子ども論」1995年9月号/クレヨンハウス) | |
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