子どもたちは二度殺される【事例】



注 :
被害者の氏名は、一人ひとりの墓碑銘を私たちの心に深く刻むために、書籍等に掲載された氏名をそのまま使用させていただいています。ただし、加害者や担当教師名等については、個人に問題を帰すよりも、社会全体の、あるいは学校、教師全体の問題として捉えるべきではないかと考え、匿名にしてあります。
また、学校名については類似事件と区別するためと、隠蔽をはかるよりも、学校も、地域も、事実を事実として重く受けとめて、二度と同じ悲劇を繰り返さないで欲しいという願いを込めて、そのまま使用しています。
S.TAKEDA
911115 暴行殺人 2001.1.25 2002.1.13 2002.12.16 2002.12.23更新
1991/11/15 大阪府豊中市立第15中学校で放課後、軽い情緒障がいのある水元佐和さん(中3・15)が、男子2名、女子2名の4人の生徒(共に中3・15)に全身を蹴られるなどして意識不明になり、一週間後、頭部打撲による急性硬膜下血腫のため死亡。
経 緯 佐和さんは、中学1年生の入学当初から、同級生に頻繁にいじめられていた。被害者に対するいじめを行った生徒は、学年全体の3分の1にも達したという。

1990年秋ごろ、加害者の男子生徒A、Bの2人は教室や廊下で「髪の毛がきたない」「服装がきたない」と言って、佐和さんの足を蹴るなどのいじめを行っていた。

1991/7 以降も、内1人の男子生徒は、暴力や言葉によるいじめを続けていた。

1991/9月末と10月はじめ頃、佐和さんの母親は、欠席日数が2年生で49日、3年生ですでに41日と「登校拒否気味になっている」として、「いじめが怖くて娘が学校に行きたがらない」「娘へのいじめをやめさせてほしい」と教頭に電話で訴えていた。

生活担当教師が、一部のいじめ生徒(今回の4人とは別)を家庭訪問するなど指導していた。

11/15 午後5時半頃、いつものように3年生の女子生徒C、Dが、同級生の男子生徒A、Bを待っていて、4人が一緒に帰ろうとしたところに、佐和さんが学校の塀を乗り越えて入ってきた。

男子生徒の1人が、「お前、この間逃げただろう」と言いながら足蹴りしたのをきっかけに、4人は佐和さんを「きたない」などと言って追いかけ、同校校庭の花壇わきで、男子生徒1人が佐和さんの脇腹を蹴り上げた。うずくまったところを、4人で2〜30分間にわたり、頭部や腰、背中などを蹴り続けた。その結果、佐和さんは、コンクリート舗装の通路に転倒して頭を打つなどして、ぐったりとなった。
暴行の際、4人は、佐和さんのカバンの中身を「これ何だ」と言って、取り出したりした。

同日、午後6時15分頃、教師が女子生徒が倒れているのを見つけ、病院に運んだ。

11/16 男子生徒が「僕が手を出した」と名乗り出て、計4人による事件の概要が浮かび上がった。

11/21 午後11時45分、水元佐和さん死亡。
被害者 両親は離婚。情緒的遅れなど軽い障がいを抱えていた。不登校、校外での問題行動のため、学校、地域で阻害されていた。

小学校時代から、佐和さんは、他の生徒に声をかけて逃げたり、他の生徒の頭や背中を後ろから叩いて逃げたり、他の生徒の顔を見て笑って逃げるなどの行動を取ることが多かった。
また、佐和さんは、他の生徒から見ると、小柄で痩せていて、髪の毛はパサパサでフケが目立ち、洗髪していないようであり、着衣も汚れやシミだらけで、洗濯もしていないように見えた。また、スカートを短くたくしあげて着用したり、ソックスをはかないなど他の生徒と異なるため、周囲から避けられることがあった。

「佐和さんに手で触れるのは汚いから」という理由から、男子に足で蹴られたりしていた。
中学校に入学してからも、小学校から佐和さんのことを知る生徒やその他の不特定多数の生徒らから、「汚い」「うっとうしい」「××菌」などと言われたり、靴で頭を叩かれたり、背中や足を蹴られたりしていた。

中学1、2年のとき、佐和さんは養護学級と普通学級の両方に籍をおいていたが、3年になった春から、母親や本人の希望で普通学級に進級していた。小柄でおとなしい性格だった。
加害者 1991年夏休み以降、4人はBを中心とする番長グループを形成。4人は家に集まったり、欠席した仲間を迎えに行ったりの付き合いを始めたが、問題になるような非行はなかった。

4人は、それまでに積極的に佐和さんをいじめていたわけではなかったが、遊びの延長で暴行を加えた。(事件直後の1991/11/22讀賣新聞・大阪・夕刊の記事には、加害者の男子生徒2人は事件直前まで佐和さんを蹴ったり、いじめていたと佐和さんが生前、男子生徒の名前をあげて母親に訴えていたとある。また、これまでの調べで男子生徒2人は去年秋頃、教室や廊下で女生徒の足を蹴るなどのいじめをしていたとある
加害者らの言い分 リーダー格の少年は、「わしの顔を見たら、殴りもせんのに逃げる。おれをなめとるのかと思った。殴って、言うことをきかせてやろうと思った」と供述。

また、女生徒の1人は、「理由もないのに、私の肩や頭を触るから、いやなやつだと前から思っていた」
「佐和さんなら、みんなが軽蔑していじめているから、きっとやり返さないと思った」と供述。

1人は、「途中でやめようと思ったけど、みんながけっているのに自分だけやめようと言えなかった」と話した。

4人は
殴ったら手が汚れるとして、足蹴りに徹して暴行を加えた。

Aらの佐和さんに対する偏見は抜き難く、事件を正当化して考えており、全校的ないじめの中で偶然に傷害致死事件が発生し、自分たちが家庭裁判所に送致されたのは、不運だとしか受け止めていない。
加害者らの背景 加害者4人は、校内外で上級生らから暴行を受けたり、友人が殴られるのを見せつけられたりしたことがあった。

加害者のうち1人の女子生徒は、卒業生の不良グループの女子から、夏に再三、電話で呼びだされ、「お前がこの中学の代をつがなアカン」と言われていた。

1人は中学2年生の時に「いじめ」が原因で登校拒否。
学校は十分な対応をしていなかった。

別の1人は卒業生から暴行を受けていた。生徒が教師や親に相談した結果、相手が学校に来ると教職員が一致して対応、家に電話がかかってきても留守電で接触しないようにしていた。しかし、校外の暴行にまでは目が行き届かなかった。

1人は以前から問題行為があり、
事件発生の少し前、生活指導教師が補導センターに連れていった際に、補導センターで殴られ鼓膜が破れた。
加害者の処分 傷害致死容疑で4人を逮捕。

1992/2/5 大阪家庭裁判所の梶田英雄裁判官は、「4人の非行性はそれほど高くないが、女子生徒が死亡した結果は重大」として、
男子生徒A、Bと、女子生徒Cを中等少年院送致(短期処遇−6カ月以内)処分。女子生徒Dは、事件を真摯に受け止めていたこと、暴行に関与した程度が極めて小さかったことなどから保護観察とした。

Cは、同じ女子生徒のDが保護観察なのに、自分はなぜ少年院送致なのかと反発。
背 景 豊中市立第15中学校内には、不良グループが存在。このグループに加入するときに、先輩から暴行が行われたり、また、グループ外の生徒が派手な服装をしたり、つっぱったりしていると、呼びだして暴行するというようなことが、かなり頻繁に行われていた。女子の間では、不良の後継者になるためには、リボンをつけなかったり、ボタンをはずすなどの校則違反をした後輩を先輩がいじめる儀式があった。学校もこれを知りながら、十分に対処できず、生徒たちは教師に見つからない限り、暴力を振るってもよいというような暴力容認の風潮ができていた。
背 景 豊中市は公教育としては、全国でも最も進んだ障がい児教育に取り組んできた。
関 連 当時、生徒会役員選挙の立会演説会で、立候補した生徒たちが学校に存在する「いじめ」について訴えていた。当時の生徒会長は、「第一五中にはまだまだ、いっぱい、いじめがあります。ぼくは、それが人ごとだとは、思えません。ぼくもいじめられたことがあります。でも、みんなは、いじめについて、まじめに、かんがえようとしません。いじめをほおっておいて自由への土台作りはできません。ぜったいいじめをなくしていこう」という決意文を出している。また書記も、「ぼくが四役をやっている間は差別やいじめのないよりよい仲間作りができるようにしたい」と決意文を出している。

生徒会新聞「つばさ」には、「いじめをなくそう」という生徒会の目標を掲げていた。

「生徒会方針案 専門委員会方針案」に「今のクラスや学年で上下関係があったり障害をもっている子をいじめたりする状況が普通になってきています」「むしゃくしゃしている人が何の罪もない『障害』を持つ人になぜかやつあたりをするということがおきています。それを周りの一部の人が注意してもそれをやめるどころか逆に注意した人も攻撃されるというおかしなことがあります」と書かれていた。

これらの生徒会の動きに対して、校長は職員朝礼で、教師に学校内におけるいじめの有無を調査し、学年生徒指導係に報告するよう指示したが、とくに報告はなかった。ある教師が、生徒会役員にいじめの取り組みについて真意を確認したが、同校に転校してくる前にいじめを受けた経験のある生徒がいて、少しでも嫌な思いをする生徒がいないよう取り組みを考えたものであり、同中のいじめを意識してのことではないとの「結論」を得た。
学校の対応 事件直後、校長らは「いじめの事実は全く知らなかった」と説明していた。

その後の調査で、事件直前に佐和さんがいじめを受け母親が2度にわたり電話で通報したにもかかわらず、これを聞いた教頭は校長に報告していなかったことが判明。

また、別にも数件のいじめが起きていたが、いずれも担任教師らだけの措置にとどまり、全校あげての取り組みや生徒への配慮が欠けていた。
法務局の対応 1992/3/27 大阪法務局人権擁護部は、事件前から長期にわたるいじめがあったにもかかわらず、学校側が適切な対応を図らなかったことは重大な人権侵害にあたるとして、校長に文書勧告、市教育委員会に指導強化を口頭で要望した。(いじめ事件での「勧告」は富士見中事件以来2件目)
いじめ実態調査 毎年春に行われている文部省のいじめの実態調査では、豊中市の教育委員会は、いじめの件数について、1989年度、1990年度と2年続けてゼロと報告していた。
今回、
1990年4月から1991年12月までの豊中市内の41小学校と18中学校を対象とした調査では軽微なものを含め248件が報告されたが、その中から長期間にわたるなどの理由で、小学校5件、中学校24件の合わせて29件をいじめと認めた
報告例のなかには、第十五中学校で、クラブ活動中に脱いであったスカートを切り裂かれた女子生徒(中2)の例も含まれ、内4件については指導を続けているという。
遺族の言葉 佐和さんの母親は、「少年院送致と言っても短期ですか。娘の受けた苦しみを思えば、この処分は軽すぎます。4人にもいじめられた経験があるのなら、いじめられる側の気持ちが分かったはず。いじめを放置していた学校の指導に問題があり、娘は学校に殺されたようなものです。学校は原因をきっちり調べてほしい」と話した。(1992/2/16朝日新聞大阪)
裁 判 被害者遺族が、加害生徒4人とその親及び学校(豊中市)を相手に、計6578万円の損害賠償請求訴訟を提起。

裁判の結果 1997/4/23大阪地裁にて判決
加害生徒、親権者に対する法的責任を認め、
損害賠償請求を一部容認。計5471万992円。
市に対する請求は棄却。

いじめが教職員に隠れて行われていたことなどから、暴行事件についての学校の予見可能性を否定
した。番長生徒らの親権者の監督義務違反による損害賠償責任のみ肯定。

原告控訴。
判決要旨 1 加害生徒らの親権者の監督義務違反について

親権者は、中学生の子であっても、原則として子どもの生活関係全般にわたってこれを保護監督すべきであり、少なくとも、社会生活を営んでいく上での基本的規範の一つとして、他人の生命、身体に対し不法な侵害を加えることのないよう、子に対し、常日頃から社会的規範についての理解と認識を深め、これを身につけさせる教育を行って、中学生の人格の成熟を図るべき広凡かつ深慮な義務を負っている」「被告親権者らは、Y1〜Y4らが平成3年夏休み以降、15中のいわゆる『番長』であり暴力を背景として同級生・下級生に影響を及ぼしているY1を中心とするグループを形成し、以来、Y1〜Y4らの怠学、喫煙、服装の乱れ等の問題傾向が反復していたのであるから、Y1〜Y4らと起居を共にしている被告親権者として、Y1〜Y4らの行状について実態を把握するための適切な努力をしていれば、Y1〜Y4らがY1の影響のもとに早晩弱者に対する暴力行使によるいじめに及ぶ予見可能性を予見し得たはずであるにもかかわらず、そのような努力をすることなく、Y1〜Y4らに対し、前記社会的規範を身につけさせることを中心とする適切な指導監督をすることを怠り、Y1〜Y4らをほとんど放任していたものであり、そのため、Y1〜Y4らに本件事件を惹起こさせる結果を招いたものというべきである」として、親権者らの監督義務を怠った過失を認めた。
判決要旨 2 集団暴行の予見可能性について

1.亡H子に対する本件いじめは、教師の目が十分に行き届かない登下校時や休み時間、放課後に行われていたため、中学校の教職員らが亡H子に対するいじめを現認したことはなかったこと

2.亡H子及び原告(母親)が、亡H子に対する具体的な暴力によるいじめを中学校に申告したのは、平成3(1991)年9月ごろと同年10月ころの2回、亡H子がAに背中を蹴られた事実だけであり、平成2(1990)年中に2回、亡H子が原告の面前で蹴られた事実ですら、亡H子又は原告から申告されていないこと、

3.亡H子の2年生時と3年生時には、亡H子を理解し、支えていくことが可能な数人の生徒と同じクラスになるように配慮がなされ、これらの生徒を中心に亡H子を支えるための取り組みが継続的に行われていたが、右取組みを通して亡H子と最も接触する機会が多く、亡H子の様子が分かっている生徒からも、亡H子に対する本件いじめについての報告は全くなかったこと、

4.亡H子は、2年生の2学期後半から遅刻、早退、欠席が増加し始めたため、担任を中心にその原因を究明すべく努力したが、本件いじめが原因というよりは、むしろ学力不振等による怠学によるものであり、また、2年の2学期後半を境に亡H子に対する暴力によるいじめがエスカレートした事実もないこと、

5.同中の生徒会役員の立会演説会及び生徒会新聞「つばさ」における「いじめをなくそう」との訴えは、亡H子に対する本件いじめが背景となってできたものではないこと、

6.被告生徒らがグループを形成したのは平成3(1991)年の夏休み以降であるが、被告生徒らが本件事件を起こすまでに、亡H子に対して集団で暴行を加えた事実や、加えようとしたことはなかったし、亡H子以外の生徒に集団で暴行を加えたこともなかったこと、

以上の事実が認められる。

また、本件事件が、同中の校内において、職員室に教職員が残っていたところで発生したものではあるとはいえ、下校時刻をはるか過ぎた時間帯において、偶然、閉じられた正門を乗り越え校内に入り込んだ亡H子に対し、たまたま校内に残っていた被告生徒らが集団で暴行を加えたという極めて偶発的なものであることを併せ考えるものならば、原告らが主張するように、平成3年の9月末ころと10月はじめころの2回にわたり、原告から、同中に対し、「亡H子がAに背中を蹴られた」旨が申告され、その善処方を申し入れられた時点において、同中の教職員らが、他の生徒により亡H子の生命、身体に大きな悪影響ないし危害が及ぶおそれが現にあるものと予見することは極めて困難であったというほかなく、右職員らにおいてかかる予見が可能であったことを認めるに足りる的確な証拠もない。
参考資料 1991/11/23毎日新聞、1991/11/22讀賣新聞大阪・夕刊1991/11/23朝日新聞大阪(月刊「子ども論」1992年1月号/クレヨンハウス)、1992/1/21新潟日報(月刊「子ども論」1992年3月号/クレヨンハウス1992/2/16朝日新聞大阪(月刊「子ども論」1992年4月号/クレヨンハウス)、1992/3/28讀賣新聞大阪(月刊「子ども論」1992年5月号/クレヨンハウス)、「うちの子だから危ない」犯罪学博士の教育論/藤本哲也/1994年4月集英社、『子ども白書』1993年版/日本子どもを守る会編/草土文化、季刊教育法125/エイデル研究所2000年9月25日発行、季刊教育法2000年9月臨時増刊号「いじめ裁判」/2000年9月エイデル研究所、「さなぎの家 −同級生いじめ殺害事件−」/西山明・田中周紀著/1994年5月に共同通信社より発行、2000年1月小学館文庫として発行、いじめ問題ハンドブック 学校に子どもの人権を/日本弁護士連合会/1995年6月10日こうち書房、イジメブックス イジメの総合的研究4 「イジメと子どもの人権」/中川 明 編/2000年11月20日信山社「教育凡例ガイド/浪本勝年・箱根英子・岩崎政孝・吉岡睦子・船木正文 著/2001.6.20有斐閣
TAKEDA
私見
この事件には多くの疑問が残る。「障がい者の人権を大切に」という建前的とは裏腹に、事件後も根強、がい者排除の意思を感じる。そういった周囲の大人たちの本音を子どもたちは敏感に感じ取り、いじめの対象とするのだろう。

当時の新聞報道を見ていても、加害者側も実は被害者であるという論調が目立つ。また、事件直後の新聞では、男子生徒2人は以前からずっと佐和さんを言葉と暴力でいじめていたとあり、裁判でも母親がそう主張していることがうかがえるが、その主張は後になるほど紙面から消され、裁判所でも事実認定されない。

一方で、裁判のなかですら、亡くなった佐和さんやその母親の、事件とは全く関係のない私的な事情が多く暴露され裁判の記録として残されている(このサイトでは割愛した)。また、裁判所は判決文にさえ、まるで佐和さん側に多くの非があったかのようにさえ書いている。まるで裁判所は、理由があれば(それも確たる理由ではなく、みんなから嫌われるなど)、無抵抗の人間をなぶり殺しにしてもかまわないと言っているかのようだ。

裁判において、加害生徒側に賠償金の支払いは認めたものの、それ以外の部分については全くといっていいほど原告の主張は入れられていない。まして、いじめがまん延していたという調査結果や多くの証言を無視して、学校の一方的な「知らなかった」「やるべきことはやった」という主張のみを認めている。この判決文で一般のいじめも、障がい者差別もなくなるはずがない。
(2002/12/16)




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