子どもに関する事件【事例】



注 :
被害者の氏名は、一人ひとりの墓碑銘を私たちの心に深く刻むために、書籍等に掲載された氏名をそのまま使用させていただいています。ただし、加害者や担当教師名等については、個人に問題を帰すよりも、社会全体の、あるいは学校、教師全体の問題として捉えるべきではないかと考え、匿名にしてあります。
また、学校名については類似事件と区別するためと、隠蔽をはかるよりも、学校も、地域も、事実を事実として重く受けとめて、二度と同じ悲劇を繰り返さないで欲しいという願いを込めて、そのまま使用しています。
S.TAKEDA
900525 暴行殺人 2001.8.1. 2001.10.28更新
1990/5/25 茨城県勝田市(現・ひたちなか市)の勝田一中で夕刻、山崎新吾くん(中2・13)が、同校の非行グループから抜けようとして、男子生徒(中2・13-14)6人から十数回にわたって蹴られ、午後6時40分過ぎに救急車で市内の病院に運ばれたが、外傷性ショックのため死亡。
鑑 定 ほとんど外傷らしい外傷はなかった。集団で襲いかかられたことによる精神的な威圧感が相当の誘発要因になった。
経 緯 1989/4 暴行に加わった6人と被害者の新吾くんは、入学直後からの遊び仲間で、派手な服装をしたり、たばこを吸ったりする非行グループだった。

1989/6 新吾くんが、グループと一緒に盗んだバイクを無免許で乗り回す事件が発覚し、父親が学校に呼びだされた。グループが校内で金を盗む事件にも関係していたことが判明。
夏休みまで、父親と母親がほぼ毎日、新吾くんを来るで送り迎えをし、学校側もグループから引き離そうと指導した。

1989/暮れ頃 新吾くんにプラモデルやテレビゲームなど、趣味を同じくする新しい友人とのつきあいが始まり、グループと行動を共にする機会が少なくなった。
そのため、グループからは「つきあいが悪い」などの理由で呼びだされ、使い走りをさせられたり、足払いやカバンを破られたりするなどの嫌がらせを受けるようになった。

1990/4 2年生になると、新吾くんはテニス部に入部。学級活動にも積極的に参加するようになり、ひょうきんな一面を見せるなどクラスの人気ものになった。その間も、グループからは執拗ないじめを受けていた。

1990/4 事件の1カ月ほど前、校内でこのグループに2年生男子生徒が殴られているのを止めに入って、新吾くんも殴られた。

1990/5/25 事件当日、テニス部の練習を終え、自宅に向かって歩いていた新吾くんをグループの一人が呼び止め、再び学校に連れ戻し、体育館横にある屋外トイレに連れ込んで集団リンチを加えた。「態度が気にくわねぇ」などと罵声をあげながら、抵抗しない新吾くんの腹部を十数回殴る蹴るした結果、倒れたまま動かないのに慌てたひとりが、教師を呼びに行き、119番通報した。
救急車が到着した時には既に、意識も、脈もない状態だった。
親の対応 バイク事件が発覚したときに、父親は「そんな連中とはつき合うな」と厳しく叱った。
新吾くんがグループにいじめられているのは知っていたが、自分が学校に出向いてグループに言うのは、大人げないと思いとどまっていた。
新吾くんが「二、三発殴られれば気がすむから」とじっとがまんしているのを知って、息子の成長をたくましく思っていた。

学校との協議で、それまで断続的に続けていた送迎体制をやめた直後に、事件が起きた。
学校・ほかの対応 学校側はグループの暴行を知っていた。
少年たちが欠席や遅刻、授業のエスケープが目立ち、生活態度に問題が見られることから、リーダー格の2人を中心に、保護者を呼んで注意をしたり、児童相談所に協議を持ちかけたりしていた。
児童相談所に連絡、訓練所など施設に子どもを入所させることを親に了承させようとしたが、「子どもと分かれるのは寂しい」「子どもを切り捨てるのか」と反対され、家庭の協力は得られなかった。


グループのメンバーを全クラスに分散させた。

事件発生当日、新吾くんが意識不明の重体に陥って2時間以上も、学校側から勝田警察署への連絡が遅れた。
学校の言い分 最悪の事態を防げなかったことに対して、校長は、「なぜかと聞かれると苦しい。(突っ張りグループを)怖いとは思わないが、こちらが手を出せない状況がある。学校の立場として体罰をやったら終わり。どこの学校でも同じだと思うが、このはざまで苦しんだ。努力はしてきたが、立て直しはできなかった。山崎さんにはできる限りのことをしたい」と話した。
教育委員会の対応 市教育委員会は事件後、マスコミ対策を強化。事件の翌日には、市内の小・中学校に対して、箝口令を敷いた。

県教育委員会は、事件の4日後、「児童生徒の問題行動の未然防止について」を通知。事件の再発を防ぐため、生徒指導全般の見直しをはかり、児童生徒の生活態度の変化を見逃さず対応することを指示したほか、関係機関(警察)との連携強化がうたわれた。
PTAの対応 事件後開かれた臨時PTA総会、教師同席の地区懇談会で、「内部問題だから」とマスコミをシャッターアウト。
加害者 6人の少年たちは、新吾くんとは入学直後からの遊び仲間だった。授業中居眠りをしたり、抜け出したりしていたが、積極的に授業を妨害するなどの行為はなかった。一人ひとりは非常に素直で、それほど問題性があると思えない。入学当初は、部活に参加するなど、他の生徒と大差ない存在だった。

中学校生活に馴れるに従って、小学校時代の遊び仲間から、より広範囲の地域の生徒とかかわるようになった。その過程で、より強力な指導力を発揮するリーダーを中心に、つっぱりグループとして結束。金銭強要、暴力行為、バイクや自転車盗などの問題行動にエスカレートしていった。

6人のうち2人の兄は、もと同校の不良メンバーだった。背後に暴力団の影も見え隠れする。

6人のうち5人までが離婚による一人親家庭。母親の男性関係や父親の借金が離婚原因となっていた。
加害者の謝罪 葬儀の午前中、暴行に加わった6人が父母と教師に付き添われた焼香に訪れた。新吾くんの父親は、「けんかをするなら一人でやれ」「いじめられている生徒を助けるようなグループになれ」と厳しく諭した。6人は黙ったまま、涙を浮かべて何度も頷いていた。
加害者の処分 同級生6人のうち、14歳の3人が家庭裁判所で審判を受け、13歳の3人は少年法の規定から県児童相談所に送られた。
6人のうち2人が少年院に送致。後に勝田一中に現場復帰。
4人は教護院に送致。後に隣接する市や町の中学校に復帰。
その他 葬儀の日、みんなが並んでいるなか、髪を染めた生徒が蹴りあったり、相撲をとっていた。出棺がすむと、教師が生徒に「学校に帰るからよろしくお願いします」と言っていた。

葬儀の日、終わりかけた頃、この春に同校を卒業したつっぱりOBたちが7、8人、頭髪にソリを入れ、変形学生服や太いズボンをはいて、みんなで集めたという香典を持って、焼香に訪れた。居合わせた市内の校長に「オレたちは(いじめを)やめるように言ってたんだが、2年のヤツらは聞きゃしねえんだ」と話した。
背 景 生徒数1250人の県下第二位のマンモス校。市内では最も古い歴史を持つ中学校。部活動か盛んなことでも有名。市内では比較的落ち着いた学校という評判を得ていた。

同中学校では伝統的につっぱりグループが存在し、リーダー格を中心に縦の関係が維持されている。
ここ数年、つっぱりグループが学校を超えて結合をはかるようになっていた。
時に一対一で、あるいは集団で乱闘し、学校ごとにランク付けをする動きも出ている。結果的にグループの結束を強め、より広域化して徒党を組むようになっていた。
学校・ほかの対応 1990/6/23 マスコミにもオープンにして、生徒総会を開催。(前年度から、同中から1キロ離れた1300人収容の市文化会館を使用)「5.25の過ちを忘れない、繰り返さない」という「一中の誓い」を全員で採択。事件を後世に伝える記念碑の建立を多数決で可決。
誹謗・中傷 遺族がマスコミ取材に応じて、学校の閉鎖的な体質や管理責任を追求する姿を見て、「そんなに嫌なら、ここを出ていけ」などという電話がある。
民事交渉 市側はいち早く学校側の過失を認め、損害賠償金4000万円を遺族に支払う。
加害者側(6人)も、1人当たり500万円の賠償金を支払うことで合意が成立。
事件から3カ月で民事交渉は全面決着する。

市教育長は「過失責任という明確なものではなく、子どもの死をめぐって裁判で争いたくないということで家族と合意ができ、決着した」と強調。
その後 学校・警察の連携が声高に叫ばれ、学校警察連絡会議(学警連)の回数を増加し、関係を強化。

PTAや市民グループの陳述により、同中のマンモス校解消が約束された。

生徒指導に厚みをかける「専任教員」が配置され、生徒たちは「校則見直し」に取り組む。
参考資料 1990/6/15西日本新聞・夕(月刊「子ども論」1990年8月号/クレヨンハウス)、「子ども白書 1991年版」/日本子どもを守る会編/草土文化、「子どもがキレる12の現場」のなかの「中学校集団暴行死」/市毛勝三著/芹沢俊介編著/(「少年犯罪論」/1992年12月青弓社を再編集して文庫化)1999.3.1.小学館



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