子どもたちは二度殺される【事例】



注 :
被害者の氏名は、一人ひとりの墓碑銘を私たちの心に深く刻むために、書籍等に掲載された氏名をそのまま使用させていただいています。ただし、加害者や担当教師名等については、個人に問題を帰すよりも、社会全体の、あるいは学校、教師全体の問題として捉えるべきではないかと考え、匿名にしてあります。
また、学校名については類似事件と区別するためと、隠蔽をはかるよりも、学校も、地域も、事実を事実として重く受けとめて、二度と同じ悲劇を繰り返さないで欲しいという願いを込めて、そのまま使用しています。
S.TAKEDA
841101 いじめ
報復殺人
2001.2.25 2001.5.1更新
1984/11/1 大阪府の私立大阪産業大学高校の男子生徒2人(高1)が、学校の創立記念日に、日頃、2人をいじめていた同級生のKくん(高1・16)を呼びだし、カナヅチで頭などを70回以上もめった打ちにし、両目をつぶして、大川に捨てた。
経 緯 1984/11/2 朝7時過ぎ、大阪市の大川右岸の桜宮公園で、犬の散歩をしていた主婦が血の付着した衣類を発見・通報。大阪府警本部と天満署が、大川の川底から、遺体と緑色のミニサイクルを発見、引き揚げた。遺体は、上半身は裸、下半身はパンツと白い靴下だけ。頭にはカナヅチのようなもので殴られた傷が70カ所以上あった。両目はつぶされていた。解剖の結果、死因は溺死。

11/11 同級生のAとBを逮捕。
殺害までの経緯 AとBは、Kくんをリーダーとするグループの一員で、いつも行動を共にしていた。Kくんから自転車盗を強要されていた。

11/1 AがBに、日ごろのKくんへのうっぷんから、「いっそ殺そう」と持ちかけ、Bが同意。Kくんを電話で「遊ぼう」と言って呼びだした。

2人は、Kくんの命令で自転車を1台盗んで公園でKくんと落ち合った。Kくんが「もっといい自転車ないんか」と、2人に改めて盗みを命じ、Aが公園近くのマンションから緑色のミニサイクルを盗んだ。ABが、「天満橋に行けば、もっといい自転車がある」と持ちかけ、Kくんは盗んだ自転車をこいで3人で向かった。

Kくんの後ろからAが近づき、ポケットに隠し持っていたカナヅチでKくんの後頭部を殴りつけた。
Kくんは自転車を放り出し、「助けてーや。もういじめへんから」と叫んで走り出したが、Aがタックルして引き倒し、2人でうつ伏せに押さえ込んだ。Aが馬乗りになってカナヅチで続けざまに殴り、Kくんがうめき声を上げてぐったりすると、今度は仰向けにして、2人で交互にカナヅチで顔を殴り、釘抜き部分で両目を突いた。

動かなくなったKくんのズボンやTシャツ、ジャンパーを脱がし、2人で約40メートル引きずって、高さ約50センチの鉄柵ごしに大川に投げ落とそうとしたが、Kくんは鉄柵にしがみついた。
2人は、指を1本1本はがして川に落とした。犯行時間は午後7時40分頃。

2人は血の付いたミニサイクルとズボンを大川に投げ込んだ。Bの上下のトレーナーに返り血がついていたので、AはBを現場に待たせて、自宅から着替えをとってきて、駅のトイレで着替えさせ、トレーナーは駅のゴミ箱に捨てた。2人は深夜に自宅に帰り着き、Aは凶器についた血を洗って元の大工箱に戻した。

完全犯罪だと思っていた。
報 道 捜査本部は2人の殺人の動機について、「Kくんの高圧的態度に反発した」とのみ発表。
被害者 殺害されたKくんは、中学時代には生徒会の書記、副会長、会長をつとめたという経歴をかわれて、高校でも、クラスの学級委員長を任命されていた。学級委員として、クラスのリーダー役を担任の期待通りつとめていた。柔道初段で、172センチ、93キロと身体が大きく力もあった

中学2年の秋頃から、大阪城公園の中にある柔道場に通い、高校入学後、ただちに柔道部に入部している(大阪産業大学高校は柔道が強いことで有名。Kくんが入学した年は、柔道部の新入生15人中9人がスポーツ推薦組。Kくんは一般入部で黒帯とはいえ、力では推薦組にかなわなかった)。入部後、1週間くらいは練習に参加していたが、5月中旬頃から『歯が悪いので・・・』と言って練習も途絶えがちになり、8月上旬の強化合宿も休んでいた。

同じグルーブのAとBとは、最初は仲良くやっていたが、2学期に入ってからKくんが急変。A、Bをいじめるようになっていた。ただし、自分は直接、手を出さず、CくんやDくん、他の生徒に実行させ、自分は傍観して喜んでいることが多かった。少しでも、はたからKくんのいじめをたしなめると、暴力をふるい、脅しつけるため、周囲は見て見ぬふりをし、教師に知らせる生徒はいなかった。

9月はじめに、『勉強を優先したい』と柔道部を退部。(顧問教師は退部届けをいっこうに受け取ろうとしなかったが、事件発覚後、事件の前日10/31に退部したとして発表された)
この頃Kくんは、『自分は将来、警察官になるつもりだ。もしそれがだめなら、やくざになるんだ』と話していた。また、「やるかやられっ放しか、道は二つに一つしかない」と言っていた。

事件直前、Kくんは、A、B、Cくん、Dくんに、担任と柔道部顧問の襲撃を持ちかけていた。
被害者遺族 両親は息子のいじめの実態を知らなかった。
事件後も、加害者の処分のことも、事件の報告書を作ったことも、新聞を見てはじめて知ることばかりで、学校からは何一つ被害者遺族には報告がいかなかった。

死人に口なしで、すべて息子が悪者扱いされ、学校で一番の悪にされてしまったと話す。
報告書では、殺した2人の名を伏せながら、殺された息子のことは実名で呼び捨てにしてある。少年の人権を守るのなら、同じように名前を伏せてほしかったと新聞記者に話した。 
  加害者 A、Bには、補導歴はなかった。進学を希望していた。
Aが172センチ、60キロで、軟式野球部員。Bが168センチ、50キロで、卓球部員。

警察の調べに対して、「Kにいじめられ、学校に行くのがいやになった。楽しく過ごすには、殺すしかないと思ってやった」「Kくんがいなくなって、ほっとしている」「数人の先生に話したが、取り合ってもらえなかった。解決するには殺すしかなかった」と供述。

Aの両親は、2人がいじめられていたことを知らなかった。

10/31 Bは犯行の前夜、父親が銭湯に誘った際に、「いじめられている」と初めて漏らした。父親が「お前、Cにいじめられてるんか」と尋ねると、「Cやない。いじめるのはKや」と話した。「そんなら3日と4日の連休にでもKくんを連れて姫路(単身赴任先)に来い。一緒にメシでも食いながら、いじめないよう言うてやる」と父親はBくんを励ましていた。(しかし翌朝、BはAからKくんを殺そうと持ちかけられ同調。その夜、実行した)

AとBの両親は、事件後、Kくんのお参りに行き、少年2人も少年院を出たら「Kくんの家にお詫びに行きたい」と言っている。
処 分 逮捕後、A、Bは学校側から自主退学を勧告され、親はこれを承諾。
A、Bとも中等少年院送致。
犯行の理由
(AとBの証言から)
Aは、教師や父母に告げ得なかったのは、「何にもましてKの報復が恐ろしかった」。Kくんに「警察官になれなければヤクザになる」「告げ口すれば、家に火を付け、親を殺し、おまえを苦しめたうえで殺す」と脅されていたためと答えた。裁判官の「単なる脅しとは思わなかったの」の問いに、Aは「Kくんはやりかねないと思いました」と答えた。

また、登校拒否しなかったのは、親に理由を聞かれる。悲しんだ親は教師に連絡し、それが自分にはね返る。結局は退学することになるが、それまでの期間が恐ろしい。自殺は逃げることになるので考えなかった。警察に助けを求めるとかは思い浮かばなかったと述べた。
担任の対応 A、Bの逮捕後の記者会見で、「2人はKくんのいじめについて、先生たちに訴えていたのではないですか」の質問に、「そんなことは全くありませんでした」と強く否定。担任の男性教師も教科担任も、いじめの実態やその気配さえ気づかなかったと発言

Aは2学期に入ってから、担任に何度か席替えを頼んだが、本当の理由を言わなかったため、取り合ってもらえず、AはKくんの斜め前の席に座り続けた。また、「学級委員のKがちょっかいしてくるんですよ」などと訴えたが、「なんでや」「後で怒っとかなあかんな」「後で注意しとくわ」といった返事で効果がなかった。

1学期末の学級懇談会で、担任はAの母親に「Aくんは明るく活発な子です。私の教室での雑用を手伝ってくれるので、とても重宝しています」と話していたが、その4ヶ月後(事件から1ヶ月後)、自主退学を勧めに来た担任は、「Aくんは目立たない子でした」と話した。母親の「(1学期から)そんなに変わったのなら、なぜひとこと言ってくれなかったんですか」の問いに、担任は答えなかった。

10/26 放課後、Cくんから、AとBが殴られたことを知った担任教師は、3人を職員室に呼んで事情を聴き、Cくんを叱った。Bくんは最後まで暴行をされたことを認めなかった。その時に、Kくんも呼びつけ、「学級委員長として、こんなことを見逃していてはだめだ」と叱った。(事件前に知った唯一のいじめの実例と報告書に記載)

担任は、Kくんのことはあくまで正義感のあるクラスのリーダーだと思っていたと話している。
学校・ほかの対応 A、Bの2人が「数人の先生に話したが、取り合ってもらえなかった」と話していることに対して、校長は、「2人が自分たちの立場を有利にしようとして発言したとしか思えません」とした。

11/12 AとBが逮捕の記事が載った朝、校長は全校生徒を校庭に集めて事件の顛末を話し、進学、就職を控えた3年生に対して、「今度の事件が社会に与えた暗いイメージは大きな障害になるでしょうが、学校は諸君が不利にならないよう最善の努力を払うつもりです」と訓示。

1985/3/下旬 事件から5ヶ月後の朝日新聞社の取材に対して理事長は、「なぜこんな形になったのか、ひとつ感じるのは、高校側が中学校での実態を十分に知らないことだ。知っておれば、もう少し早く生徒指導対策もたてられたと思う。それに家庭環境の把握も大事だ。事件は高校入学後7ヶ月で起きた。中学校までの15年間で形成された生徒の人格を、半年そこらの短期間で見抜くのはなかなか難しい」「最近の子供は、大人をだます方法がうまくなっているからね」などと語った。
学校関係者の処分 校長ら6人の教師を懲戒処分。校長が減給100分の10、3ヶ月。教頭が同2ヶ月。生活指導主事と1学年主任の2人が同1ヶ月。生活指導副主事と学年主任の2人は譴責(けんせき)。

担任に処分なし。(理事会原案では、担任に1番重い処分・減給100分の10、6ヶ月を科そうとしていたが、同校の教職員組合が、「教師個人の責任ではなく、学校全体の責任であり、問われるべきは学校の教育内容、教育体制そのもの」として強く反対。再三の交渉の末、説明抜きで処分対象者から担任の名前がはずされた)
作 文 11/8 事件から1週間後(A、B逮捕前)、死んだKくんについて、クラス全員に作文を書かせたところ、Aは「1学期までいいやつだったけど、2学期になると人が変わった」、Bは「K君には表と裏がある」と書いていた。
報告書
(いじめの内容)
12/5付け 学校は、「同級生殺害事件に関する報告書」と題した24ページの資料を内部資料として、大阪産大高の教師や大阪府教育課など学校関係者に配布。当事者であるKくん、A、Bの両親や、他の生徒の父母たちには配られなかった

報告書の中に、KくんのAとBに対するいじめが列挙されていた。また、Kくんだけでなく、Cくん、Dくんも、2人に対するいじめに加担していたことが記されていた。
報告書はA、Bを仮名で君づけ、K、C、Dは実名で呼び捨てにして書かれていた。

1.Kは授業中のノートはほとんど2人にとらせ、また、教室を移動するときは、自分の教科書、ノート類は2人に持たせて運ばせていた

2.国語、英語、理科の時間に、KとCが、A君、B君に自慰行為を強要、応じなければ殴りつけて実行させていた。

3.Kは2人に、力のあるC、Dを殴るように強要し、またCに向かって『クラスの虫けら』とか『クラスのがん』といってからかわせ、2人が逆にC、Dから殴り返され、2人は以来、C、Dにビビるようになり、そんな振る舞いを見てKは喜んでいた。

4.B君の顔がピエロのように真っ赤に塗りつぶされ、またA君も顔の一部に塗られ、授業に来た英語の先生にとがめられると、横からKが『こいつら、ジャンケンゲームに負けてやられてん』と口を出し、2人にもそのように言わせた。

5.KはA君に、昼休み時間中に教室内で自慰行為を強要し、途中『5回まわれ』と命令、射精しないので怒り、放課後にまた続行させ、B君に『シンボルを持ってやれ』と強要し、それを見ながら笑っていた。

6.英語、理科の授業中、KはB君に『いやいやとんでもねえ!』とか、『がんばれがんばれゲンさん』といわせ、みんなを笑わせた。

7.B君が放課後、クラブ活動(卓球部)に行こうとすると、顔をベルトで殴ったりして無理に休ませ、自分とつき合わせたり、大人のおもちゃを買いにやらせたりした。

8.小雨の降る日に、Kは関目駅(京阪電鉄)で、自分が乗るための自転車をB君に盗ませ、淀屋橋の方まで、雨中をかさもなしでB君に乗っていかせ、自分は電車で先回りして待っていた。

9.下校時に、Kは自分のかばんをB君やA君に持たせ、『C、Dのも持ってやれ』と命令して持たせた。ときによってCらが断ると、A君、B君は、Kに殴られるので、2人はCらに『かばんを持たせて!でないと殴られるから・・・』と哀願して持たせてもらったこともある。

10.駅のトイレの中で、A君とB君は、Kに吸えないタバコを、むりやり吸わされた

11.Kは2人に命じて、ナンパ・検問と称して、通行中の自転車の女性に『検問します。停まりなさい。免許証は持っていますか』といわせたり、黒い服の女性(S短大生)に『葬式の帰りですか』とか、赤い服の女性には『血で染めたのですか』といわせ、傍観しながら喜んでいた。

12.KはB君に(校外で)ビール2リットル、酒ワンカップを飲ませ、B君がメロメロになって吐くのを面白がっていた。

以上、12例のいじめは、9月、10月の2ヶ月に集中していた。AとBは追いつめられていった。

「(Kくんは)道場においては目立たず、隅の方にいたようだ。顧問の目にはあまりはっきりした記憶はなく、暗い感じの印象しか残っていなかったようである。柔道部ではKは挫折感を持っていたと思われる」「要するに権力への執着心が強い子供であったことがうかがえる。クラブでの挫折感をクラス内での権力にすりかえたようにも考えられる」「A君、B君の2人とも、少し気が弱いが、まじめで素直な生徒であった。Kの2人に対する態度の急変にも、うまく対応できず、だんだんとされるがままに引きずられ、のめりこんでいって、気付いたときにはどうにもならないところまで来てしまっていた、というような精神的な弱さが共通している」と分析。
いじめの内容
(大阪家庭裁判所の審理に立ち会った両親の話しから)
教室の座席が近かったことから、KくんとA、Bは仲良くなった。1学期中は、Kくんも授業中に2人の背中を鉛筆でつついたり、脇腹をくすぐったりする程度だった。

2学期になって、Kくんが急変。A、Bの2人が少しでもいやな顔をしたり、Kくんの指示に従わないと、Cくん、Dくんに命じて、ビンタ、シッペ、ビニールバットで尻をたたくケツバンをやらせた。自慰行為の強制も、下腹部を露出させたまま教室内を回らせるところまでエスカレート。

9月末から10月はじめに、BがKくんに「もう、いじめんといてや」と頼んでいる。しかし、いじめはひどくなる一方だった。

2学期になると、Kくんにつき合わされるため、Aは軟式野球部の練習に出なくなった。

10/10 Bの父親が単身赴任先から帰宅した際、「学校をやめようと思う」とぽつりと漏らした。父親は、Bが入学の時、会社から30万円借りていることから、お金のことを心配しているのだと思い、「金のことは気にすんな。学校だけは出とかんと」と答えている。

10/20、21 Bは「階段から落ちた」と母親に言って学校を休む。
10/29、31 Bは激しくせき込んで学校を休んだ。

10/29 学級懇談会の日、Bの母親は担任教師から、10/26にBとAがCくんに殴られたことを聞く。この時、担任は、「いじめられていないか心配です」と母親に話した。

10/26の件で、Kくんは担任に叱られたことを恨んで、A、B、Cくん、Dくんに、担任らの襲撃計画を持ちかけた。
関 連 報告書に出てくるCくんとDくんは、KくんやA、Bと同級生、同じクラス、同じグループだった。Dくんは、いつもCくんと行動を共にしていた。

Cくんは体が大きく、ボクシングジムに通っていて、腕っぷしは強かった。
K君の遺体発見後、捜査本部は真っ先にCくんに事情を聴いた。事情聴取のあとクラスに戻って、CくんはA、Bの2人に向かって「お前ら死刑や」と口走った。

A、B逮捕後、学校側がCくんとDくんを問いつめると、2人はKくんの命令でA、Bを殴ったり、いじめたことを認めた。

11/29 緊急対策委員会で学校側は、Cくんに自主退学を勧告、Dくんを無期停学とする処分を決定。結果的に、Cくん、Dくんも学校をやめた。
背 景 私立大阪産業大学高校は男子高で、普通、商業、工業の3科に分かれ、生徒数約3千人のマンモス校。5人が通っていたのは城東区の本校で、1学年は21学級あり、普通科は7学級。5人のいたクラスの生徒数は51人だった。3年間、組み替えがなかった。
その後 事件後、学級委員を投票で決めるようになった。

Kくんの両親は学校側の態度怒り、きちんとした責任と今後の教育方針をはっきり示して欲しいと訴えている。

1985/3/中旬 AとBの父親が学校を訪れ、学校が事件の責任をはっきりとるよう校長に申し入れたが、それに対する回答はなかった。
参考資料 「なぜいじめるの −渦中からの報告−」/朝日新聞大阪本部社編/1985年9月22日朝日新聞社、イジメブックス 「イジメと子どもの人権」/中川 明編/2000年11月20日信山社



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