わたしの雑記帳

2006/11/26 被害者遺族が逆に訴えられた丸子実業・高山裕太くん(高1・16)の事件


2006年10月31日付けで、いじめ自殺した高山裕太くん(高1・16)母親から民事裁判で訴えられている丸子実業バレーボール部の監督とその妻子、亡くなった裕太くん先輩部員や同級生部員、保護者を含めた総勢30名が、裕太くんの母親を被告として訴えた。

裕太くんの生前と死後、高山さんがありもしないバレー部内でのいじめをでっちあげ悪評をばらまいたあげく、死後も抗議の電話などで監督や部員らに精神的な苦痛を与え、いじめがあったかのごとくマスコミに吹聴して名誉を傷つけたことに対して、3000万円の損害賠償を求めるというものだ。

過去にも、いじめ自殺のあと、遺族から加害者と名指しされた生徒の親が、「確たる証拠もないのに、これ以上、子どもを加害者扱いすると名誉毀損で訴える」と脅すことはあった。しかし、実行に移した例は知らない。

逆告訴といえば、1999年に、当時、大阪知事に当選したばかりの横山ノックが、強制わいせつ罪で自分のことを訴えた女子大生を逆に虚偽であると告訴した。法廷外の記者会見なとでも、「真っ赤なうそ」などと女子大生を非難する言動を繰り返した。横山ノックは途中で前言を翻し、わいせつ行為を認め謝罪したものの1999年12月13日、大阪地裁が逆告訴や法廷外の発言に対しての名誉毀損分も含めて、過去最高額の1100万円の支払いを命じている。
当初は多くのコメンテーターが、「まさか知事になる大事な選挙中に強制わいせつ行為をするはずがない」「選挙妨害の一環ではないか」「女子大生が有名になりたくて嘘の証言をしているのではないか」などとテレビで発言し、被害者はずいぶん傷つけられた。

丸子実業の事件でも、当初から監督も部員の保護者らも強気だった。裕太くんの死後、わざわざ記者会見をして、自分たちに非はないこと、裕太くんの死の原因はすべて母親にあり、自分たちはその母親から人権侵害されたと訴えた。そのことでマスコミは引いていった。強気の姿勢は成功を収めた。
おそらく、バレーボールの強豪チームという強みが、彼らをそうさせるのだろう。
とくに地元テレビ、地元紙はこれからもバレーボール強豪チームとしての取材を続けたい。それが1回きりのいじめ自殺事件よりも、長く読者の関心をひきつけられる。直接、売り上げにつながる。天秤にかければ、学校側とけんかをしたくないだろう。

もちろん、いつの世にも冤罪事件はある。誰でも思い込みはあるし、誰かに責任転嫁したくなることもある。しかし、高山裕太くんの事件に関しては動かせない事実がいくつもある
裕太くんが自殺をしているという事実。バレー部内でのいじめを苦にしていたこと、それを放置して指導してくれない監督や学校への抗議、部員らへの抗議を綴った自筆の手紙やノートが残っている、メールが残っているということ。
そして生前、バレー部内の暴行やいじめについて、裕太くん自身が「子供支援課」に相談の電話をし、警察に被害届けを出し、支援してくれる議員とともに学校に交渉に赴いていること。
生きていた裕太くんの訴えや行動までがすべてウソだったというのだろうか。

いじめ被害を受けている子どもが自ら他人に相談すること、警察に行って被害届けを出すことは容易なことではない。そして、家出するくらい自立心のある子どもが、親の思惑を気にして、ありもしないことを主張し続けられるはずがない。ましてや高校1年生の男の子。親の思い通りに動くとは思えない。
万が一、親に叱られることが怖くてウソをついていたとしても、親を怖がるような子どもであれば警察はもっと怖い。その時点で、うそをついていたと泣いて謝ることだろう。
所属するバレー部の監督や先輩、同級生を敵に回してまでも、親の、しかも女親の言うとおりに動くとは到底思えない。

いじめは学校のなかで起きる。保護者にはその事実を知る術がない。唯一、自分の子どもの訴えだけが頼りだ。しかし、子どもはなかなか、いじめられているとはいえない。言ったとしても、ごく一部しか言わない。親にはいちばん知られたくない。心配かけたくない。裕太くんがいじめの事実を打ち明けるにはどれだけの勇気がいったことだろう。母親が自分を全面的に信じて、味方をしてくれたからこそ、がんばってこられたのではないか。それも、周囲の大人たちの対応で、力つきてしまった。

子どもが亡くなって、親はいちばんに救えなかった自分を責める。高山さんも例外ではない。何度か電話でお話して、いつもいつも、生死のぎりぎりのところで踏みとどまっていることがうかがい知る。
次に連絡があったときには、「あっ、よかった。生きていた」と思う。それだけ精神的に追い詰められている。

それでも、親が言わずに誰が裕太くんの無念をはらすことができるだろう。学校にも言った、教育委員会にも言った、議員さんにも言った、あらゆるところに相談した。でも、誰も救ってくれないなか、裕太くんは絶望のなかで死んでいった。知らなかったから救えなかったのではない。みんながみんな知っていながら、裕太くんの命より強豪チームが試合に出場し続けることの利をとったのだ。
ここで親が黙ってしまったら、裕太くんが訴え続けたことが無駄になってしまう。部活動の体質は変わることがない。学校の体質も、教育委員会の体質も変わらない。同じ悲劇が繰り返される。現に今、いじめ自殺が止まらない。

わが子が死んでも、親には学校のなかで何が起きたか知る術がない。教育委員会が調べてくれないから、遺族が直接調べるしかない。学校に話を聞きにいっても門前払いされる。だから部員たちから事情をきくしかない。部員たちは何も語ってくれない。言えば、どんなに実力があったとしても、日本のバレーボール界で二度とやっていけないかもしれない。
学校の名誉を守ろうとする教師や親、地域の人びと。孤立無援のなかでマスコミに訴えるしかない。

最初に学校がきちんと対応してくれたら、裕太くんは死なずにすんだ。そしてせめて、亡くなったあとでも、事実を調査し、きちんと謝罪し、同じことを二度繰り返さないと誓ってくれたら、遺族の対応は違っていただろう。自分から何があったか教えにきてくれれば、しつこく電話やFAXなどする必要はなかっただろう。

ほかに方法がないから、悲しみのどん底のなかで、遺族自らが動かざるを得なかった。その行為がすべて違法だという。では被害にあった人間はどのようにして真実をつきとめたらよいのか。責任を追及することが名誉毀損になり、何があったか問うことが脅迫にあたるなら、誰も真実を追究できない。
民事訴訟を起こしたら、行為を否定する相手から逆に損害賠償を求められるとしたら、お金によほどの余裕があるひとしか訴訟はできない。文部科学省のいじめの定義では、「弱いものに一方的に」とある。立場の弱いものは、いじめにあっても追及することさえできない。泣き寝入りするしかない。

ひとつ気になることがある。バレー部の部員たちは本当に自らの意思で訴訟を起こしたのだろうか。
被害者であっても、訴訟までできるひとはほんの一握りだ。それが、これだけの人数がまとまって原告となる。しかも現役の高校生が。どんな取り引きがあったのかと勘ぐりたくなる。過去の事件でも、学校推薦などを条件にウソの証言をしたり、求められた証言を拒否した例はある。

子どもたちは学校や監督に言われて断りきれず、仕方なく訴訟に加わっただろうか。
あるいは、出場停止や廃部になることを考えれば、どんなことをしてでも死守したいと思うのは無理ないかもしれない。ここでがんばれば、将来、バレーボールで身を立てられるかもしれない可能性をもった強豪チーム。夢をもって入部した。命をかけてもレギュラーの座をつかみたい。辛い練習にも耐えてきた。その努力を無駄にしたくない。ここで監督や学校の言う通りに動けば、バレーボールが強い大学や社会人チームへの監督推薦ももらえるかもしれない。一生がかかっている。たとえ仲間の死を葬り去ったとしても、ウソをつく動機や価値は十分にあるだろう。学校や監督は、子どもたちの思いを取り引き材料には使わなかったか。

親たちは訴訟費用を分担したのだろうか。それとも、ただ名前を連ねただけなのか。
もしかしたら、亡くなっていたのは裕太くんではなく、自分の子どもだったかもしれないと考えはしないのだろうか。もし、自分が高山さんの立場に追い込まれたらと、考えはしないのだろうか。これからも、その可能性は皆無ではないと考えはしないのだろうか。過去の例でも、反省しない子どもたちは同じことを繰り返す。そして、学校もまた同じ対応を繰り返している。

心配なのは、それで今の部活での生活がうまくいったとして、子どもたちの心に深い傷が残らないのかということ。仲間が死んで、その死を悲しむことより、部活動が大事。誰よりいちばん悲しんでいる遺族を攻撃に出る。
スポーツで頂点を極めようと思ったら、きれいごとではいかないだろう。しかし、そこまできたない大人の部分を今、この時期に経験させてしまってよいものか。将来、後悔することはないだろうか。

学校側はまた、高山さん側の主張を報道したマスコミをも訴訟の対象にしているときく。
過去には、茨城県水戸市五中の体罰死事件(760512)で、民事裁判で無罪になった女性教師が、事件のあり様や判決を批判した作家や研究者に損害賠償とと謝罪広告を求めて、名誉毀損の民事訴訟を提訴し棄却されている。

今回の丸子実業に関しては、事件を掲載したサイトがひどいアラシにあって閉鎖に追い込まれたとして、管理人から私のところにも注意の喚起があった。逆提訴といい、非常に大きな力を感じる。正直いって、怖さも感じている。

しかし、忘れてはいけないことがある。高山裕太くんは16歳の若さで、好きで死を選んだのではない。死に追い詰められたのだということ。そして今また、遺族が同じように追い詰められているという事実。

強ければ何をやっても許されるのか。世間もそれを許してしまうのか。ひとりの人間の死をすべてなかったことにできてしまう、それほど命は軽いのか。それを子どもたちに教えてもよいのか。私たちは裕太くんの死から、何も学ばなくてもよいのか。また、子どもが死んでもよいのか。

被害者が責められる社会。せめてそれを変えていかない限り、悲劇は起こり続ける。



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