わたしの雑記帳

2009/11/10 千葉県浦安市養護学級わいせつ裁判 控訴審第3回目。

2009年11月9日(月)、東京高裁822号法廷にて、午前11時から、千葉県浦安市養護学級わいせつ裁判控訴審の第3回目が行われた。
裁判官は、一宮なほみ氏、田川直之氏、始関正光氏。
法廷入り口の案内には、K元教師は補助参加人と書かれていた。一審原告の氏名は匿名となっていた。わいせつ事件における裁判所の配慮かと思われる。
傍聴席は、平日にもかかわらず、千葉から駆けつけた支援者たちを中心に7割方は埋まっていたと思う(しっかり確認しなかったが)。

裁判のなかで、控訴人の浦安市のほうから、一審で証拠提出された(祖母の)日記を裁判所に見てほしいとの要望があった。それに対して、一宮裁判長は、裁判所が必要と判断したら見ますという内容の回答をした。
被控訴人(一審原告)の弁護士が、次回、専門家の意見書を提出したいと申請したことに対しては、一般論がいっぱいあっても、本件についてはどうなのかということは別もの。そういうことにお金や時間を費やすのはいかがなものかという疑問が投げかけられた。対して、すでに依頼を済ませてあるので、提出させてほしいと弁護士が要望。12月25日までに意見書を裁判所に提出することになった。
次回は2010年1月25日(月)、東京高裁822号法廷で、11時30分から。

裁判後、弁護士会館に場所を移して、裁判の報告会が行われた。
控訴人の千葉県。浦安市、補助参加人らは、一審でわずかに認められた3点の暴力やわいせつ行為さえ、ひとつも事実はなかったと主張しているという。
対して、一審原告で二審被控訴人のAさん側は附帯控訴をし、一審で認められなかった多くの被害について、認めてくれるよう働きかけているという。

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裁判支援には、障がい児者に関わる活動をしている人たちや親たちも多くかけつけている。
そのなかのひとりが情報提供してくれた新聞記事には、日本の司法の障がい者に対する偏見や意識の低さが如実に現れていた。(2009/9/30毎日新聞、2009/9/30宮日新聞を参考)

2009年2月11日、宮崎県西臼杵郡で、知的障がいのある女性(20歳代)を無職・男(60)が知人を介して誘い出し、車で自宅などに連れ去り、約1時間半にわたって車内で、下半身をさわるなどのわいせつ行為をしたとして、3月30日、男はわいせつ誘拐、強制わいせつ罪で起訴された。男は起訴内容について、「合意のうえだった」と無罪を主張。検察側は懲役2年6月を求刑していた。
しかし、9月16日、宮崎地裁延岡支部の福島雅幸裁判長は、「女性に告訴能力がない」として、検察側の起訴を無効とする控訴棄却の判決を言い渡していたことが判明。


強制わいせつ罪の立件には、被害者や親族からの告訴が必要となる。
告訴には、@被害の認識、A処罰感情、B犯人に対し、公の制裁を求める感情などの構成要件が必要になるという。
同支部は、「被害女性の知的障がいの程度をかんがみた場合、告訴能力がない」と判断したという。
一方、検察側は、未成年者や知的障がいを抱える場合、代理人を立てて告訴することができるものの、捜査段階で「女性に告訴能力はある」と認定していたため、代理人を立てていなかったという。

立命館大学名誉教授の井戸田侃(あきら)氏によれば、親告罪を巡っては過去に11歳や13歳の知的障がいのない少女が被害者として本人の告訴能力が認められた判例があるという。(2009/9/30毎日新聞)
事件や事故の目撃証言については、幼児の証言も採用されている。
しかし、知的能力が○○歳程度と医師が診断した障がい者の証言は、認定された知的水準に関係なく、一律で信用ならないものと判断されることが多い。
知的障がい者の個人差、個別能力について、あまりに無知、無理解だと思う。
まして、感情面では一般の人たちと変わらない。いやだと思う気持ち、みじめさ、悲しみ、喜び・・・。
知的能力が劣れば、かえって周囲にどう思われるか、これはどのような表現すれば効果的など、他人の思惑を考えることなく、正直に出てくると思う。むしろ、嘘をつきたくても、上手に嘘をつくことができない人たちは、一般の人たち以上に正直で、本人が強く主張することに信用性があると思う。

ただ、聞き方は配慮を要する。誘導したり、脅したりすれば変わることもある。また、何度も同じ質問を繰り返すなどすれば、学校での授業を思い出して、先生が二度同じ質問をするのは、前の答えが間違っていたからだと思い、違う答えを言う場合もある。
きちんと知識をもった人間が尋問すれば、一般の人たち以上に、事実が出てきやすいはずだ。門前払いするのはおかしい。

幼児に対して、障がいのあるひとに対して、高齢者に対して、どのように尋問すればよいのか、もっと専門家として知識を身につけてほしい。でなければ、法の下の平等は守れない。
平等とはけっして、一律同じ条件で行うことではなく、それぞれの特性を理解し、ハンディをハンディと感じさせないことだと思う。その努力は、ハンディがあるひとに課すのではなく、ハンディを持たない人間にこそ課せられるものだと思う。

被害にあっても告訴する権利さえ与えられない。人としての権利がないがしろにされる。それを法を守る人たちがするべきではないだろう。弱者の権利が守られない社会では、一般の人々も安心、安全には暮らせない。
そして、経済価値が全ての社会では、金を儲けることのできない人間の価値はゼロと換算される。
病人も、障がい者も、高齢者も無価値と。犬、ネコでさえ、交通事故の賠償ではモノとしての価値が与えられているときくのに。
それぞれに、ひとつしかない命。金になど換算できない、はかりしれない価値がある。そこからスタートしてほしい。
命を傷つけた代償として、もし自分の命で償わなければならないとしたら、自分の命にいくら出すか。心を傷つけた代償を自分の心の傷に換算したらいくらになるのか。

まずは相手の立場にたって、考えてほしい。




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