わたしの雑記帳

2008/12/13 中井佑美さん(中1・12)いじめ自殺事件の民事裁判(第9回)傍聴報告

2008年12月4日(木)、10時30分から東京地裁103号法廷で、中井佑美さん(中1・12)いじめ自殺事件の民事裁判があった。
文部科学省(国)は、相変わらず、求釈明(説明)の必要を認めないという。
理由として、
@原告が言っていることは、国政に対する批判であって、国が法的責任を負うことではない。
A佑美さんがなくなったあとの再調査について。2006年にいじめ自殺が多発して、実際の数と文科省が発表するいじめ自殺の数が違うのではないかと再調査が行われた。しかし、たった数日間の期限で、何も調査できないとわかっていてやった。その再調査で「いじめ自殺には当たらない」と結論づけられて、遺族は精神的な傷害を負ったと原告側が主張している。しかし、国側は法的根拠に基づいて調査したわけではないので、法的義務違反にはあたらないとする。
B遺族が、国の法的義務違反を問う根拠はあるのか? あるべき再調査の特定が不十分。
としているという。

北本市は、原告側が裁判所に、佑美さんが中学校と小学校時代の書類を文書送付委託(裁判所が仲介して、被告側に書類を出すよう要請すること)を申請していることに対して、北本市は「証拠あさりである」と反発しているという。
原告側は、小学校時代の佑美さんに対するいじめについての証拠は比較的もっている。中学校でのいじめに、小学校からのメンバーが含まれていることから、小学校でのいじめに関する情報が、中学校に適切に引き継がれていれば、中学校でのいじめは防げたと主張している。
すでに情報開示された指導要録には、「やや友人関係が気になる」という記載がある。極めて小さいスペースにこの文言が書かれていたことには意味がある。小学校の担任は、中学進学にあたって、両名を同じクラスにしないという話をしていたという。
原告側は、小学校から中学校への引継ぎの文書の開示を求めている。

報告義務違反に関しては、北本市は、アンケート集計結果をすでに出しているのでいいではないかとしている。
しかし、アンケートそのものに関しては、他の生徒のプライバシーだとして拒否をしている。
また、報告書も出しているのでは義務は果たしていると主張している。
しかし、現物を出さずに、「事実がみつかりませんでした」という結論だけを出されても、主観が入っているかもしれず、報告書の信用性には疑問がある。

裁判後の報告会で、お父さんが言っていた。佑美さんは教師との交換日記等で、「(スマップの)中井くんと呼ばれることがいやだ」と何度も書いており、教師は「わかりました。注意しましょう」と書いている。
しかし、佑美さんの自殺後、北本市は、「中井くんと呼ばれるのがいやだ」と佑美さんが思っていたというのは、あくまで遺族の推測にすぎず、佑美はスマップの中井くんと同じに呼ばれることをうれしいと感じたかもしれず、本人がどのように思ったかは不明のままである」としている。
このように残された文章から、その真意を素直に受け取ることをせず、無理に曲解する教育委員会のやり方で、子どもたちのアンケート内容が判断されたとしたら、「(いじめの)事実がみつかりませんでした」という結論を信じることができないのは当然だと思う。

裁判長は、市と原告側とでは、争点の捉え方がずれているのでお互いの主張を整理するため、次回からラウンドテーブルでの弁論準備に入りたいとした。
次回は2月10日(火)午後2時30分からだが、非公開の予定。

**********

ここからは私見。

子どもが学校で、事故や事件に巻き込まれたとき、多くの被害者や遺族の事実解明の壁となるのが、学校がもっている情報が、プライバシーをたてに、出てこないということだ。
子どもが傷ついたり、死んだりしている重大事故・事件にもかかわらず、きちんと調査がされなかったり、その調査内容や結果が、当事者やその親に開示されない。

事件や事故が大きくなったときにだけ、ことさら強調されるプライバシー。しかし、日常的に学校は、作文をはじめとして、国からの要請による調査を行っている。子どもの言動をチェックして、特別支援学級対象かどうかさえ、本人の知らないところで行っている。子どもが書いた作文は、本人の意思を確かめることなく、クラスで発表されたり、家庭通信欄に載せられている。
事故や事件の調査票やアンケートの内容も、本人の意思確認なしに、教育委員会や第三者委員会などには回っている。
見せる、見せないを子ども子どもたちではなく、学校や教育委員会が勝手に決めて、取り引き材料にしている。
「佑美さんについての調査」であるはずなのに、佑美さんの家族が見られない。
学級の問題であるはずなのに、クラスの保護者に情報が共有されない。


子どもたちのプライバシーをたてにしながら、子どもたちから集めた情報が、子どものために生かされず、大人の都合によって、出したり、隠されたりする。おかしいと思う。
しかも、プライバシー、子どもの人権と大騒ぎをしながら、子ども権利条約にある、「子どもの意見表明権」は無視している。

いじめ事実を書いた子どもは、なぜそこに書いたのか? 書かなかった子どもはなぜ書けなかったのか?
作文は、面接での取調べと異なり、子どもたちの意思が反映されやすい。まして、このような事件のあと、学校が生徒に書かせる作文が、事実を書くことを無理やり強制されたものとは言いがたいだろう。
ならば、
書いた時点で、すでに子どもの意思は明白になっていると思う。 恐らく、いじめがあったとしても、そのことを書ける子はごく一部だろう。しかし、その子は「このままではいけない」「この事実を隠しておいてはいけない」「佑美さんがかわいそうだ」と思ったから、書いたのではないだろうか。
その時の、その子どもたちの意思を、学校、教育委員会は無視した。


もしかしたら、今、子どもたちに、そのときの作文を公開してもいいかどうか聞いたとしたら、拒否をするかもしれない。
しかし、それは、大人たちの対応によって、事実を話さなければいけないという気持ちから、事実を話しても大人たちによって自分が損をさせられるだけと、認識を変えられてきたからに違いない。
佑美さんが自殺した直後、子どもたちはどう思っただろう。自分たちがしたことが、あるいは知っていて何もしなかったことが、ひとの死という重大な結果を招いてしまったと、驚き、後悔し、反省しただろう。
しかし、その重大事件に対する大人たちの反応は、きっと、子どもたちの考えるものとは違ったはずだ。
取り返しのつかないこと、重大事件と思っていたことが、まるで大したことではなかったかのように、「忘れなさい」とされる。佑美さんの名前を口にすることさえ、事件のことを話題にすることさえはばかられる雰囲気。
子どもたちが大人に教わったのは、人を死に追いつめるほどの不正義に対しても、「見ざる」「聞かざる」「言わざる」。

行政にとっては、このような教育が学校でなされることは都合がいいかもしれない。子どもたちは、大人になっても、自分の身に直接、火の粉がふりかかってくることでなければきっと、知っていても、何も言わないだろう。被害者でさえ、きっと、周囲の協力をあてにできないことを知っているから、泣き寝入りをするだろう。せいぜい、ネットで誹謗中傷を書き込んで、ガス抜きをしてくれればいい。

この国は、「心の教育」と言って、嫌なことも笑って耐え忍ぶことは子どもたちに教えても、目の前の不正義を勇気をもって告発することや、声をあげたひとを支えていくことは教えない。

犯罪が増えたのも、監視カメラが必要になったのも、犯罪検挙率が著しく落ちているのも、公務員が組織だって犯罪行為を行えるのも、こういった国の「臭いものにはフタをする」「見ざる」「聞かざる」「言わざる」の教育の賜物ではないかと思う。

いじめの事実が解明されない。被害者は、佑美さんや遺族だけではない。いじめをしていた子ども、見ていた子どもたちもまた、過去の過ちを心から反省して生き直す機会を奪われた犠牲者だと思う。
私たちはこのような悲劇を今後も繰り返さないために、いじめ自殺や事件・事故を繰り返さないのための私たちの提案と要望を文科省に行っている。




 HOME   検 索   BACK   わたしの雑記帳・新 



 
Copyright (C) 2008 S.TAKEDA All rights reserved.