2007年3月7日(水)、千葉地裁405号法廷で午前10時30分より、千葉県浦安市立小学校養護学級でのわいせつ事件の民事裁判の第4回口頭弁論が行われた。長谷川誠裁判長・高橋彩裁判官・飯塚素直裁判官。(前回傍聴したときは裁判官2人は女性だったが、今回、内1人が男性になっていた)
前回(2006/12/20)は私は傍聴できなかったが、傍聴したひとの話では、被告の男性教師が中央傍聴席の最前列に座り、原告である被害女児の母親を裁判の間中、睨みつけていたという。
そこで今回は、「支える会」で傍聴席の最前列を確保した。
傍聴席後方に用意された長いすにも何人か座るほど、今回もほぼ傍聴席を埋め尽くす人数が参加していた。
現在は準備書面段階で、書類のやりとりが中心のため、裁判後の報告会での説明内容から補足する。
今回、原告側からは厚さ20センチにも及ぶ詳細な準備書面が提出された。そのなかで、求釈明(釈明を求める)として、K教師に対する教頭の指導内容の釈明を求めた。結果、浦安市は「主張する必要なし」と回答。法廷で長谷川誠裁判長が、わざわざ確認をしたが、「現時点では必要ないと考える」とした。
また、原告側は県の責任についても触れた。それについては、裁判長から被告の浦安市に県教委独自調査の結果はどうなったのかという質問がなされた。
K教師側が作成してきた刑事事件での原告側の言い分とそれに対するK教師側の言い分の対照表については、データをフロッピーでほしいとの要請があり、K教師代理の弁護士が了承した。
一方、原告側に対しては、裁判長は事件のあった小学校への転校が自発的であったのか、強制的であったのかという点について、市療育機関の相談記録に関連箇所があるように思われるので、主張するなら次回に書面で主張してほしいとの要請があった。
原告弁護士からは、K教師側の準備書面の「否認し」の引用部分がはっきりしないとの指摘があり、被告弁護士が訂正すると回答した。
次回の口頭弁論は4月24日(水)11時30分から、405号法廷にて。
原告側は今後、事件の前にK教師が問題のある教師と把握すべきをせずに配置した市の適正配置義務違反と事件後に事実関係をきちんと調査することをせず、今だに処分していないことに対する適正処分義務違反について、立証していく。
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裁判を傍聴しての私の印象としては、裁判長は準備書面をしっかり読み込んでいることが伺われ、関心とやる気が感じられた。刑事裁判では踏み込むことができなかった教室内でのわいせつ事件を明らかにしてほしいと願う。でなければ、浦安市で、そして全国で、また児童・生徒らが犠牲になる。親は安心して子どもを学校に通わせることができない。
いじめ事件で、教師や学校、教育委員会、文部科学省、専門家たちは、「子どもが被害を訴えないから、いじめを解決できない」と声をそろえて言う。
私は逆だと思う。勇気を出して、大人にいじめを訴えても解決しないと子どもたちが知っているからこそ、言えない。
性的虐待については、いじめ以上に言えない。ましてや学校のなかで数多く繰り返されながら、ずっと被害者側が二次被害にさらされ、加害者側が守られてきた歴史がある。悪いことをしても素直に「ごめんなさい」と言えないのは、子どもより大人だ。
公立学校の教師で、自分を守るためならウソもつける、言い訳もできる、他人をコントロールする術も知っている大人の男と、知的障がいのある、小学生の女児とで、どちらが強者でどちらが弱者かは一目瞭然だ。学校・教育委員会、社会は、どちらが大人たちが結集して守らなければならない人権なのかをよく考えてほしい。
被告側は、女児の両親が金目当てに冤罪事件をでっちあげたと主張しているときく。
仮にそうだとして、そんなことが可能かどうかをよく考えてほしい。被害にあったという女児には知的障がいがあり、親や周囲が証言内容を教え込むのは難しい。ほとんどの裁判で、知的障がいのある大人の証言、子どもの証言が証拠として認められていない。知的障がいがなくとも、子どもの証言自体、なかなか裁判のなかで真実とは認められにくい。敗訴する確率のほうが高い。そして、障がいがあるというだけで、命の値段も不当に安く見積もられてしまう。引き受けてくれる弁護士さえ、日本中を隈なく探してもそう多くはいない。こんなにも困難な裁判を起こして、原告側が金銭的にもプラスになる確率は極めて低い。原告が訴えることにメリットなど常識からしても考えられない。
そして、女児のPTSDの症状。専門家さえだますようなテクニックは心理学を学ぶ学生であっても難しいと思われる。さらに、被害者は原告の女児だけではない。どんな手をつくせば、クラスのほぼ全員が何らかの被害にあったと同調できるだろう。さらに被告教師が自宅に大量にもっていた児童を性的対象にした多数の画像の存在など、児童の親がどうして知りえるだろう。
原告側にウソをつくメリットはなく、被告側には十二分にある。
この裁判が、何を教訓として残そうとしているのかを大人たちは真剣に考えてほしい。
学校は子どもが安全に通える場所でなくてはならないはずだ。子どもの心と命をあずける教師は信頼できる人間でなければならない。犯罪者であったり、少しでもその可能性のある人間を教師にしてはならない。司法の世界では「疑わしきは被告の利益に」と言うが、学校現場では「疑わしきは子どもの利益のために徹底して排除」しなければならないだろう。子どもは無力で、守られるべき存在なのだから。
子どもはどんな被害を受けても、大人が「やっていない」と主張すればないことにされてしまうのなら、ますます幼児性愛者はみんな教師になりたがるだろう(現実に、そのような動機で教師になるものが少なからずいるということを教師経験者から聞いたことがある)。
学校、教育委員会は刑事事件で立証されなかったのだから、加害行為はなかったとする。しかし、裁判に間違いはある。歴史が証明している。まずは目の前の子どもの深い心の傷を事実として受け止めることからしか問題解決はあり得ない。
性的被害にあった大人も子どもも、被害者の無力感は大きいという。せめて、勇気を振り絞って訴えたときにそれに応える社会であってほしい。自分は無力ではない、ひとは信じてもよいのだと子どもたちに言葉ではなく、行動で示したい。
少子化を問題にする国は、生ませることだけを考えるのではなく、せっかくこの世に生まれてきてくれたすべての子どもたちが、その家庭環境や成育環境、もって生まれた特質に関係なく、安心・安全に成長できる社会環境を整えてほしい。自分が生まれてきてよかったと実感できない人間が、同じ思いをするかもしれない自分の子どもを心の底から欲しいと思うだろうか。
ばりぱり働くことのできるうちは国の力で守ってもらわなくともやっていける。しかし、どんな人間も病気をしたり、けがをすれば弱くなる。弱くなったときに守ってくれる社会でなければ、安心・安全な国とはいえないのではないか。先進国と言えるだろうか。
私は、「美しい国」より、「安心・安全な国」で暮らしたいと思う。
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