2005年2月14日、大阪府寝屋川市の市立中央小学校で、同小卒業生の無職少年(17)が、インターホンで、5〜6年時の担任教師の名前を挙げて所在を問い合わせたが、教師は所用で外出中だったため、学校近くのホームセンターに行き、包丁2本を購入。うどん店にも立ち寄った。
その後、再び小学校に戻り、居合わせた男性教師・鴨崎満明さん(52)に卒業生であることを告げたうえで「職員室はどこですか」と尋ねた。少年は、2階職員室に案内しようとした鴨崎さんを背後から突然、刺し身包丁で刺した。さらに、そのまま職員室にいた女性教職員2人に切りつけ重傷を負わせた。鴨崎さんは失血死。校舎の廊下に放置されていた少年のかばんから、凶器とは別の新品の包丁が見つかった。
通報で駆けつけた警察官に現行犯逮捕された少年は、「小学生のころにいじめを受け、学校に不満があった」と供述しているという。5、6年の担任だった男性教諭を名指しして「助けてくれなかったので恨んでいた」とも話しているという。
この男性教師は襲われた3人の教職員とは別人。一方、男性教師は府警の事情聴取に「恨まれるような心当たりはない」と話しているという。
小学校関係者によると、少年は徹夜でテレビゲームに熱中し、授業中に居眠りすることが度々あった。6年生当時、男性教諭に「また寝とるわ」と言われ、クラスメートから笑いが起きたことがあったという。
成績も優秀で生活態度に問題はなかった。
6年生になって学校を休みがちになったというが、元同級生は「いじめというほどのものではなかった」と話している。元同級生らは、少年は中学進学後、いじめを受け、1年生の時に不登校になった、としている。
(2005/2/15 讀賣新聞、毎日新聞参照)
また、テレビのインタビューにも、元同級生たちが、「ひとりを好んでいた」「変なヤツだった」「ゲームに夢中だった」「いじめはあったとしても大したことはなかった」「やられたらやり返していたから、いじめとは言えない」等の趣旨のことを答えていた。
少年の心にはたして何があったかはわからない。事件のたびに「いじめ」の存在が言われると、単なる言い訳に使われているとも考えられる。
それでも、いじめはあったかもしれない、と私は思う。子どもが自殺してさえ、遺書にいじめのことが書かれていてさえ、周囲の人たちは口を揃えて、「いじめはなかった」と言う。「大したことはなかった」「本人もやり返していたのだから、一方的ないじめとは言えない」と言う。
本当に教師はいじめに気が付かなかったのか。あるいは、気づいて放置していたのか。「大した問題ではない」と思っていたのか。
2000年5月3日に福岡県内で起きた、精神科に入院していた少年(17)が乗客の塚本達子さん(67)を殺害し、2人に重軽傷を負わせたバスジャック事件。この少年が、不登校になり、心を病むようになったきっかけも、本人・家族は学校でのいじめが原因だと言い、周囲は「いじめはなかった」「本人が変なヤツだった」と言った。
文部省は、いじめは受けた本人がどう思うかによる、と言いながら、現実には、いじめを周囲が否定する。
いじめで傷つけられたうえに、それを否定されることは、本人にとって二重の苦しみではなかったか。そういう共感のなさこそが、彼を追いつめたのではないか。
人間は自分でも気が付かないうちに、ひとを傷つけていることがある。自分たちのしていたことはいじめではなかったか、顧みた子どもたちはいたのか。
そして、いじめは隠される。多数対少数で、少数側が圧倒的に不利な立場であること。いじめる側は、いじめを認めたがらない。やられた側は深く傷つき、いつまでも忘れないが、やった側は、ひとりひとりは大したことをしていないつもりであり、簡単に忘れてしまう。そのことを、昔も、今も、教師は理解していたのだろうか。
そんなことを考えていたときに、1通のメールをいただいた。本人の許可をいただいたので、ここで紹介させていただく。(改行はtakeda)
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2005年2月15日のメールから |
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昨日、寝屋川市で小学校の先生が殺されたという事件がありましたが、犯人は「小学校の時いじめられて先生が助けてくれなかったのでやった」と言っていますが、僕は犯人の気持ちが少しは解るような気がします。解る気がするから殺していい、とは思いませんが。
僕も小学校の時いじめられていたのですが、担任のT.O先生は最初は助けてくれたのですが、だんだんいじめに加担するようになり、挙げ句の果ては僕が教室を片づけていたら、先生の引き出しから、先生が書いた、僕を誹謗中傷する内容の報告書(おそらく先生方に配られるもの)が見つかり、やり場のない怒りに駆られました。
誰に言っていいのかも分からず、僕は人間不信になり、私立の中学校に進学しました。
勿論、T.O先生は反対でしたが・・・
その時のいじめと、誹謗中傷の報告書のせいで、現在心療内科に通っていて、通院中です。
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学校でのいじめ、そして、救ってくれるはずの教師の対応に、どれだけ多くの子どもたちが傷つけられてきたことか。私は、寝屋川の小学校教師のことを言っているわけではない。北から南まで、日本全国の学校で、昔も今もと言いたい。掃いて捨てるほど、このような事例がある。
メールの方が言うように、もちろん、だからと言って、ひとを傷つけてもいい、殺してもいい、理由にはならないことも確かではあるが。
大人たちは、傷ついた人間の心の弱さの問題にしてしまう。
新潟の震災のときに、讀賣新聞にPTSDになるかならないかは、個人の心の強さ弱さではなく、どれだけ恐怖の体験をしたかに比例するという新しい調査結果が載っていた。(残念ながら、切り抜いておかなかったので、詳細は不明)
心の柔らかな時期に、ひとに対する信頼ではなく、不信感、恐怖感、嫌悪感を植え付けた。PTSDのひとつに、「怒り」の制御ができなくなるという症状がある。怒りが自分に向いたときには、自殺に至る。他者に向いたときには、暴行や傷害事件に発展する。
よく、「昔の事件なのに」と言われるが、心に付けられた深い傷は、肉体に付けられた傷より治りにくいのではないかと私は思う。何年も何十年も引きずることがある。一度はよくなっていても、ささいなきっかけから再発することもある。
今回の事件で、学校の安全を考えたとき、「卒業生」だと言われて、案内を乞うて入ってきた人間を拒否はできないだろうと思う。不審者は不審者の顔をしているとは限らない。また、在校生、あるいは教師が加害者になることもありうる。どれだけ、施錠したり、監視カメラをつけたりしても、完全には防ぎきれない。
まずは、人と人との信頼関係を取り戻していくこと。特に、大人は子どもを守ってくれるという信頼感、安心感を少なくとも子どもたち一人ひとりが持てるような社会にしていくことだと思う。
今、子どもたちは大人に守ってもらえると、果たして思っているだろうか。むしろ、大人を信用してはいけないと教えざるをえない社会に生きている。そして、生徒は学校の教師を信頼できているだろうか。何人かはいるかもしれない。しかし、信頼できる先生と、できない先生とどちらが多いかと問われれば、どうだろうか。
せめて、小学校のうちは、先生は自分たちを守ってくれると無条件に思えるような環境でありたいと思う。
教師を偉いものとして、威厳を保つことより、そのことのほうがよほど大切だと私には思えるが。
いじめを放置している教師は、生徒へのいじめに加担したのと同じだということ。いじめ・心と体への暴力は、それを受けた人間にとっては生死をも左右する重大な問題だということ。放置すれば、いつか私たち自身に、その暴力が返ってくるかもしれないということ。寝屋川の事件は私たちに警鐘を鳴らしている。
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