「体罰」という言い方が適当なのかどうか、いつも迷う。教師の行状をみると、生徒の問題行動に対する罰というより、自らの思い通りにならないことにカッとして、暴力を加えたに過ぎないと思えることが非常に多いからだ。そこには「教育的見地」などみえない。学校という治外法権のなかで絶対的権力をもち、生徒のうえに君臨する教師の姿がみえる。その人権感覚のなさが、学校のなかの多くの問題を、ひいては子どもたちの問題の多くを生み出しているのではないかという思いを、今、新たに強くしている。
今回、体罰事件を含めて古い事件を少し掘り起こしてみた。そのなかで見えてきたことがいくつかある。
私の歴史解釈は以下のようになる。ただし、年表の表層をなぞっただけの私の認識には大きな誤りがあるかもしれない。自分自身の備忘メモとしても、思ったこと、感じたままをここに簡単に整理しておこうと思う。
このサイトを訪れてくれたひとには、参考程度になればと思う。
●教師から奪われた思想・信条の自由と教育の喜び
第二次大戦後、米国の支配下にあった日本で、当初は戦前教育への反省が、学校・教師のなかに芽生えていた。戦勝国であるアメリカが提唱する民主主義にも魅力を感じていた。
しかし、米ソの冷戦のなかで、ソ連と地理的にも近く、対ソ防衛拠点の要石としての役割を日本に持たせようとしていたアメリカは、日本がソ連寄りの考え方を持つことをとても恐れた。折しも、朝鮮半島を二分する代理戦争。
民主主義を謳いながら思想の自由を許さない、レッドパージの嵐が占領軍主導のもとに吹き荒れた。朝鮮学校は強制的に閉鎖に追い込まれた。
戦前、統一された価値観が日本国民を戦争へと導いたという反省のなかで、様々な価値観が吹き出した。とくに学者をはじめとする教育層のなかで、共産主義という未知の理念はとても魅力的に思えた。その知識層から、まずは叩いていく。そのことは、政府が戦前同様、教育に関与を深めていくきっかけづくりとなった。
政府が戦後間もない時期に、アメリカの後ろ盾で、再び思想を統一しようとすることに、多くの教師たちが反発を覚えた。組合をつくり、それに集団で対抗した。教員たちの熱き戦いを間近にみて、大学生と中心に、学生たちもともに戦った。1950年代当時は国家権力対、教員と学生という対立だった。
その教師たちの動きを押さえるために生まれたのが、1954年の教育二法(「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する法律」と「教育公務員特例法の一部を改正する法律」)。
教師たちは「政治的中立」の名のもとに、政府・政治を批判することを禁じられた。思想や言論の自由を封じられた。それはその後の1999年の国旗国歌法成立以降も効力を発揮する。日の丸・君が代の起立し、声を出して君が代を歌うことを強制されて、命令に従わない教師には、ときには懲戒免職にさえされる厳しい処分が言い渡された。また、生徒に君が代や日の丸の成り立ちを教えたり、戦争に至る国の動きを教えること、歴史的事実を教えることさえもが、「偏向教育」として断罪される。教科書も自由な記述は危険視されて、国によって検定される。
戦争への反省から、戦前とは違う道を歩みはじめたかにみえた日本の国が、米ソの冷戦を背景に、再び戦前と同じ政策をとり始めた。(教育史・戦前参照 1880年、集会条例により教員・生徒の政治活動を禁止。同年、それまで自由だった教科書にも制約が加えられはじめ、文部省が小学校教科書の調査をし、不適当と認めた教科書の使用を禁止する)
一方で、教師間の連帯をそぎ、政府の命令に従わせるために、「勤務評定」や「管理職制度」が導入された。
当初は激しい反対運動が起こり、教師たちは集団で激しく抵抗した。学生運動が盛り上がりをみせる以前には、教師たちが集団で国家権力と戦っていた。ときには、暴力沙汰も起こり、警察権力をもって排除されたり、捕まって裁判にかけられたりもした。
●大競争時代の子どもたちを管理する学校・教師たちの暴力
教師たちが法律で押さえ込まれ力を失いはじめた一方で、学生たちの心には火がついたままだった。
1960代の安保闘争。戦争に向かうことに反対する勢力。一方で、教員たちから受け継いだ共産主義的な思想。
国の思惑にすでに取り込まれはじめていた学校・教師と学生たちが対立するようになった。やがて思想だけでなく、自分たちを押さえ込もうとするもの、世の中の理不尽さへの反発行動が、自分たちの要求を通すための集団行動へと変わっていった。集団で行動することの強さを実感として、学生たちは身につけ始めた。
そのなかで強いチームが出てくる。集団を維持するために、異なる考えをもつものたちを力で排除していく。力対力の闘争。内ゲバ。大学を中心に高校や中学にまで「荒れ」が広がる。
下の世代は上の世代に影響される。文部省は学生運動に加わる中高生の動きを牽制。学生の政治活動は禁止された。
また、同時並行して、戦後のベビーブームの影響から、子どもたちの間に大競争時代がはじまる。
戦争ですべてが破壊されて物不足のあとの、大量生産時代。隣国の朝鮮戦争の特需景気。農業や家内工業中心から、労働力が大工場へと吸い込まれていく。大量の作業員とそれを指導・管理するものの必要性。
学歴が求められる時代になっていく。高度成長時代に、まざまざと見せつけられる学歴による賃金格差。
家庭は、学歴信仰へと走りはじめる。それは高度成長時代が終わり、大手企業がリストラ、倒産もする、不確実性の時代になってなお、親たちの間にパブロフの犬のエサの記憶となって、残り続けている。
ベビーブームで生まれた大量の子どもたちに対して、設備が追いつかない。教員の数も足りない。産業も人手を欲しがり給与があがっていくなかで、当時は教員の待遇は悪かった。教員を管理統制する法律や制度でがんじがらめにされて、ひとを育てることの喜びを奪われつつあった学校に、「教員にでもなるか」「教員にしかなれない」、「でもしか先生」が入ってくる。
一クラス50人を超える生徒数。教育に情熱を失った教師がするのは、自分たちが上からされているのと同じ規則による管理と評価による口封じ。生徒にとって必要な規則ではなく、最初から生徒を管理することを意図した規則。意味のないことにも批判せず、従順に従わせる訓練。それは、政治家を頂点とするピラミッド社会をつくりたい政治家たち・国の方針と利害が一致する。また、産業界も作ればなんでも売れる大量生産時代から、作っても売れない。より高度なものを要求される時代へと移るに従って、将来の企業に役立つ人材の育成を学校教育に求めるようになった。企業が求めるものが変化するのにあわせて、教育内容もコロコロと変えられる。
そして体罰。学校教育法11条では学校・教師に懲戒権を認めながらも、体罰は禁止している。
実は戦前も体罰は法律で禁止されていたが、体罰の概念はあいまいで、裁判においても極めて寛大な扱いを受けていたという。教師の暴力は横行していた。1923(大正13)年の東京朝日新聞の記事には、「小学校教師生徒を蹴殺す、一名は耳をもぎ取らる、函館の小学校での暴行」という記事もある。
近年の体罰事件の裁判例としては、水戸五中の体罰死事件(760512)が非常に有名だ。殴打から8日目の佐藤浩くん(中2・13)の死に対して、1977年略式起訴の略式命令罰金5万円が下る。余りにも軽いと思いきや、それさえ不服として、当該女性教師K(45)が正式裁判を申し立てる。1980年の水戸地裁では、「私憤による暴行」「学校教育法で禁止された体罰にあたる」として違法性を認定。暴行罪で罰金3万円の判決。K教師控訴。そして1981年の東京高裁の二審では「正当行為」により逆転無罪。
この裁判では、浩くんの死因を風疹によるものとして、そもそも死因と体罰との因果関係を否定しているが、この裁判での「単なる身体的接触(スキンシップ)よりもやや強度の外的刺激(有形力の行使)を生徒の身体に与えること」は、「外形的には・・・身体に対する有形力の行使ではあるけれども、学校教育法11条、同法施行規則13条により教師に認められた正当な懲戒権の行使として許容された限度内の行為」との判断は、以降、学校側が「体罰ではない」と主張するときのモデルケースとして使われるようになった。
この水戸五中事件で、私がいちばんに疑問に思ったのは、この判決以前に、体罰を加えた女性教師のたった5万円の罰金すら不服として申し立てる女性教師の自信がいったいどこから来るものなのか、ということだった。
暴行から8日目ということもあって、確かに因果関係ははっきりしない。しかし、頭をたたいたという厳然たる事実は変わらない。そして、その後の生徒の死も。誰に責任を追及されなくとも、自らの行為に責任を感じるのが普通の感覚ではないかと思った。
しかし今回、「教師の体罰と子どもの人権」(「子どもの人権と体罰」研究会編/1986.9.5学陽書房)や「体罰と子どもの人権」(村上義雄・中川明・保坂展人編/1986.11.30有斐閣人権ライブラリイ)を読み、1970年代から1980年代にかけての体罰事件をみるなかで得心がいった。
学校事件では必ずのように、事件を深く掘り下げれば下げるほど、隠されている問題のと大きさを知る。
新聞等で報道されて、私たちが知りうる人権侵害はごく一部でしかない。
1983年の向陽中体罰事件(830122)で、教師に傷害罪が適用されてさえ、罰金3万円という、当時の処分の軽さ。そして、「必殺宙ぶらりん」事件(731004)でも、生徒に重傷を負わせた教師にも、学校にも、罪の意識がまるでないこと。けがを負わせた生徒に謝罪しないだけでなく、むしろ、騒ぎ立てた、自分に責任を負わせたとして、被害生徒やその保護者を責め、事実を隠ぺいし過少報告。言い逃ればかりを繰り返す。
被害者が真実を追及しようとすれば、逆に攻撃に晒される。
「教師の体罰と子どもの人権」によれば、法務省が1975年から10年間に扱った体罰事件のきっかけは、「勉強や宿題を忘れたり、怠けた」(小学校)、「先生への反抗やからかい」がそれぞれ24%で一番高率だったという。
遊びたい盛りに、学校に無理やり押し込められて、競争に追い立てられる子どもたち。ほっと一息つくことさえ許されない。そして、「子どもたちの為」を名目にしつつ、加えられる私憤による暴力。学校という権力を背景に、教師のもつ万能感。子どもたちは、モノとなる。
家庭も学校に加担した。親たちは、将来、有名な大学に入り、大企業に務めることだけが人生の幸せ、子どもの幸せと強く思い込んだ。そのためには、どんなに理不尽な目にあっても耐えて、学校に行けという。内申書を悪く書かれることを恐れて、教師に逆らうなと教える。子どもたちが死ぬほど苦しい目にあっているときに、多くの親は子どもを助けようとはせず、学校と一緒になってわが子を責め立てる。あるいは、自分のこどもさえよければと思う。
被害者が声をあげても学校・教師を擁護する親たち。担任が暴力をふるうことを知りつつ、次年度、担任が変わることだけを願いつつ、子どもにも我慢を強いる。
子どもたちが「三無主義」「四無主義」と呼ばれ出した。勉強以外のものには一切、興味をもたず、どんなことを見ても聞いても、何も感じないように感情を殺さなければ、辛くて生きていけない、そんな学校にしたのは大人たちだった。
今の子どもたちは、相手の気持ちがわからないと言う。子どもたちの気持ちをまるでわかろうとしない大人たちに育てられて、ひとの気持ちがわかるはずもない。子どもたちの肉体的を深く傷つけても、精神を深く深く傷つけても、自らの行為を正当化し、相手を責める大人たち。同じことを、子どもたちがしている。自分たちの人権が守られてこなかった子どもたちに、人権を教えるのは難しい。
いじめ事件で、学校が事実を隠ぺいする。それはいじめではじまったことではなかった。教師の体罰の事実隠ぺいから始まっていたのだと改めて知る。教師たちが、生徒に口止めする。親にチクッたと言って、有形・無形の暴力と権力で報復する。子どもが親に訴えて、親が学校に抗議しても、それを取り上げようとはしない。親子して、学校に逆らうことだけを問題にする。学校・教師は自らを反省して、変えていこうとは思わない。かつて、教師たちは国の政策を批判して破れた。力で押さえ込まれた。同じことを子どもに返している。被害にあってはじめて、学校の在り方に疑問を抱き、批判をする親と子を押さえ込もうとする。
これは過去のことだろうか。今も延々と引き継がれていると感じている。
一時、親たちは子どものあまりに辛そうな様子に、「命をかけてまで学校は行くところではないよ」と言える雰囲気をかもしだした。それで、少しは救われる子どもたちもいた。しかし、国の方針は、子どもたちが自分たちを傷つけるものから逃げることさえ許さず、再び包囲網をかけようとしている。
体罰はいけないとの建前論はあっても、暴力は横行している。それに対して、大人たちは許容している。時間とエネルギーをかけて説得するよりも、暴力で押さえ込む効率のよさを好む。多くの動物にとって、命がけの仕事であるはずの子育て。面倒なことはしたくない。専門家にまかせたい。金で解決したい。
昨年も私のもとには、いくつもの教師の暴力情報が寄せられた。いじめと同じように、教師による暴力を子どもたちは親に話せない。親に話しても解決しない。何より教師による報復が怖い。いじめの構造とまるで同じだ。
なかには、子どもが学校に行きたがらない理由が、親は当初、いじめではないかと思っていたが、実は担任教師からの暴力的体罰だったということもある。
また、教師の体罰によって不登校になった子どもの親が、他の保護者を巻き込んで、体罰教師排斥の運動をしようとしたが、いざというときになると誰も表だっては動こうとはしなかった。あげく「あなたの子どもは不登校だからいいわよ。うちは内申書を考えちゃう」と言われる。
学校・教師の体質も、親の体質も、何も変わらない。そのなかで、子どもたちだけが、苦しさにあえいでいる。
子どもは次の世代、命をつなぐためのものではなく、自らの今を満足させるための道具となった。子どもがモノ化し、大人たちの欲望の対象にされる。セクハラ教師の多くは、暴力を頻繁にふるっている。
目に見える暴力を許容していけば、相手は増長し、何でも許されると思う。性的に相手を意のままにすることさえ、自分に与えられた権利だと勘違いする。
暴力はあっという間にエスカレートする。習慣化しやすい。一度それでいい思いをしたら、やめられない。同じ人間が何度も同じ過ちを繰り返す。それは無力な子どもに向けられやすい。
厳罰化が必要なのは、子ども以前に、子どもに暴力をふるう大人たちではないか。
中高生のいじめをはじめとする暴力を見て見ぬふりをしながら、社会でも、学校でも、体力的に大人に圧倒的に劣る小学生に対する暴力が増えている。
絶対的権力の背景を持たないものたちは、集団を武器にして、暴力をふるう。
集団化することが、問題解決の方策ではなく、自らの欲望の実現の手段に使われるようになった。関心があるのは、自分を満足させることだけ。集団そのものにさえ、興味・関心はない。
海外との熾烈な競争が要求される企業社会のなかで、共生することが崩れ、他国を植民地化することの独占利益、他者の犠牲のもとで、自分だけが大きな利益を得ることを追及する社会へと移っていった。
社会全体のモラルが低下した背景には、このような経済事情、経済的価値観が絡んでいるのではないか。
年末年始、たくさんの資料を少しずつ整理しながら考えた。私のこの考えに、少しは説得力があるだろうか。
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