2004年12月13日(月)、東京高裁にて、富士市のいじめ裁判、控訴審が3回目にして結審した。
時間はわずか5分から10分。
この日、新たにA子さん側からは、小学校の通知票が提出されたという。A子さんは、いじめにあうまでは元気に登校していた。学級委員を務めたこともあった。明るく積極的な性格だとの担任からの所見もあるという。
つまり、いじめを自作自演しなければならないような理由はどこにも見当たらないということをわかってもらうため、証拠提出された。
高裁で新たに提出された証拠は、いじめのことを克明に記した「なんでもノート」。このノートには、いじめのことだけではなく、日常生活の様々なことが書かれていた。あとからではつくり得ない。そして、その時点ではいじめの加害者がわかっていなかったために別の生徒の名前が記してあるという。そして、原告らがとった元同級生へのアンケートの回答にもいじめを認める記述があった。
A子さんが受けたいじめの内容を私自身は詳しくは知らない。しかし、多くの事例のなかで、子どもたちは、直接的な暴力やきつい言葉を浴びせられなくとも、間接的ないじめを受けている。それは大人が思うほど生やさしいものではない。持ち物へのいじめは、誰がやったかわからないことが多い。そのために被害者は疑心暗鬼にかられる。周囲が全部、敵に見えてくる。常に緊張を強いられる。ほんの少し席を外した間に何がなくなっているかわからない。何にいたずらされているかわからない。学校にいる間中、一瞬たりとも気をぬくことができない。
登校したら上履きがなくなっている。帰りには外靴がなくなっている。体操服が刻まれる。体育のあとには着替えがなくなっている。ロッカーに入れたコートがなくなることもある。カバンに死ねとナイフで刻まれる。鉛筆の芯が折られ、シャープペンシルの芯がすべて抜かれる。教科書やノートに落書きをされる。イスに画びょうがまかれたり、黒板ふきの白い粉が振りかけられている。机にはノリが塗られている。教室のドアをくぐれば、頭の上から黒板ふきや濡れぞうきんがふってくる。トイレに入れば、上からバケツの水が降ってくる。ドアがあかないように細工されていて閉じ込められる。弁当にはツバが吐きかけられている。消しゴムのカスが振りかけられている。机のなかに他のひとの持ち物が入れられている。
ひとつひとつは、いたずらの範疇かもしれない。やったほうは大して悪気はないかもしれない。しかし、集中して仕掛けられれば、大人だって神経がいかれてくる。誰がやったかわからなければ、仲のよい友だちにまで心を許せなくなる。警戒心が新たな敵をつくってしまうこともある。
そして、一番辛いことは、こうしたいじめの辛さを大人たちに訴えても、なかなか理解してもらえないことだ。物がなくなっても、「勘違いじゃないの」「もっとよく探してみなさい」「他人を疑うのはよくない」と言われる。「あなたの管理が悪いから」と責められる。忘れものが多くなり、注意が散漫になると、教師からの信頼も失われる。「だらしのない子」「いい加減な子」「やる気のない子」というレッテルを貼られる。
A子さんのように、「自作自演」とまで教師に言われたら、生徒にいったい何ができるだろう。いじめ以上にひどいことだと思う。大人による人権侵害だと思う。
教師は最初から、そのような目でA子さんのことを見てはいなかったか。
学校側がとった対策はA子さんの行動を制限するような内容ばかりだった。A子さんの持ち物を預かる、職員用トイレを使わせる。それらの特別扱いは、かえっていじめを増長させたのではないか。ひとりだけ特別扱いされることはA子さんにとっても、居心地の悪いものだったという。
それをまるで、特別扱いされたいがための演技であったかのように言う。その発想はいったいどこから来るのだろう。担任は、A子さんの身になって考えることをしなかった。クラスの生徒に対して指導する必要があったのに、それをしなかった。事実調査をする努力もしなかった。自分のミスをA子さんにかぶせて、ここまでしてやったのにと思う。そして、自分がいじめを見ようとする努力の足りなさを補おうとはせずに、見えないものは最初からなかったのだと考える。
小森香澄さん母子に対する養護教諭の考え方にとてもよく似ている。自分の目の前に見えていることが全てで、母親や生徒からの訴えはどれだけ必死に訴えても、自分が見ていないのだから信じられないという。
A子さんの場合、信じてもらおうと提出した証拠の品さえ自分で落書きした、自分で濡れた生理用ナプキンをジャンパーのポケットに入れた、自分でトイレのなかでこっそりとバケツの水をかぶったと言われた。そして、裁判所もA子さんの必死の訴えではなく、学校の言い分を全面的に信じた。それも、A子さんがしっかりしすぎていることから、いじめられる子どもには見えないという偏見のもと、だからいじめはなかった、という結論に至った。
高裁でもA子さんは自ら証人台に立った。とてもしっかりと自己主張のできる少女だった。しかし、心の傷は深い。平気そうに見えた証言のあとに、大きな揺り戻しはきたという。
ほかでも、いじめでPTSDに陥った子どもが、裁判で証言することで、フラッシュバックを起こしてしまうということがある。せっかくできかけたかさぶたを自ら引き剥がし、一番、思い出したくもないことを詳細にまで思い出して、見知らぬ大人たちに囲まれるなかで話さなければならない。そして、自分がそれほどの思いまでして述べたことを大人たちがどこまで信じてくれるかわからない。
A子さんの両親は、ここできちんと事実認定がされなければA子さんがこの先、生きてはいけないのではないかと思って、裁判に踏み切ったという。地裁で負けたままでは、A子さんの回復はますます難しくなる。
カウンセリングに通いはじめたA子さんの一番の薬は、裁判できちんと事実認定がされることだ。判決が少女の一生を左右するといっても過言ではないだろう。裁判官はそのことをよく考えてほしい。
そして、子どもたちが、大人にごまかしが通用すると学習してしまったら、子どもたちは反省するどころか、ますます増長していじめるようになるだろう。
事なかれ主義の学校が、自分たちの見ていないものは否定できると学習したら、真実を知る努力をする教師はいなくなるだろう。被害者の口を封じることで問題を終わらせることができると学習してしまったら、問題はますます深刻になり、ふくれあがるだろう。
その結果、学校で殺人が起きたとしても不思議はないと思う。
判決は来年2月。もしも、結果が悪かったとしたら、わたしたち大人はA子さんに対して、とりかえしのつかない大きな傷を負わせることになると思う。
この裁判については、雑記帳の me040811 me040928 を参照。
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