わたしの雑記帳

2004/12/ 5 小森香澄さんの裁判(2004/11/30)傍聴報告・担任教諭の尋問。


2004年11月30日(火)、K養護教諭につづき、吹奏楽部の顧問のひとりで、担任のN教師の尋問が行われた。30歳後半というところか。いかにも気の弱そうな男性教師だった。
県側の弁護士の尋問から始まった。

昭和60(1985)年に県立高校の教師として採用され、平成9(1997)年に野庭高校の教師になった。
その野庭高校は、平成14(1992)年4月に隣の高校と統廃合して、今は名前が変わっている。
N教師が転勤する前年にNa先生が亡くなるまでの野庭高校の吹奏楽部はコンクールで全国大会の常連校だった。以前は勝利至上主義だったが、部員も減り、みんなで音楽を楽しもうという雰囲気になったという。
N教師が吹奏楽部の顧問を務めたのは平成10(1998)年の1年間だけ(香澄さんが亡くなった年)。
トロンボーンや指揮者をしていた経験が買われた。
顧問は6人で、T井教諭が連絡窓口をしていた。

平成10(1998)年4月、香澄さんが入学した。クラスの様子は早い時期から仲良しグループがいくつかできていた。高校生の女子には多くみられる。遠足や休憩時間、昼食のとき、3つのグループに分かれていた。
香澄さんは、おとなしめのグループに入っていた。Aさん、Kさんを含む7人。Bさん、Cさんは別のグループだった。クラス内で対立するような雰囲気はなかった。
香澄さんの様子は、いつも明るくふるまっていた。よく冗談を言ってひとを笑わせていた。
出席状況が通知票に記載されたものと違いがあるのは、野庭では期末試験のある7月7日までを1学期に入れ、以降は2学期に入れるから。香澄さんは合計8日間休んでいた。

部活での練習態度は、トロンボーンの初心者ということで、熱心に練習をしていた。
N教師と香澄さんとはうまくいっていた。信頼関係があった。よく冗談を言っていたし、トロンボーンの楽器を交換して吹いたりもした。しかし、一度も悩みを相談されたことはなかった。

5月16日、吹奏楽部の保護者会があった。12時半頃から30分間くらい。役員や顧問の紹介を行った。美登里さんやAさんの母親、Bさんの母親も参加していた。
美登里さんは、その時、30分程度話したというが、せいぜい5分から10分程度。その日は午後から役員会があって、PTA総会も予定されていた。その休憩時間だった。多くの1年生の保護者とも、入れ代わり立ち替わりあいさつした。美登里さんと話した内容は、トロンボーンの楽器をどうするかのみ。中学校での人間関係のことやクラスでの様子などは、他にも保護者がいて聞こえるため、個人的な話しをできる状況ではない。他のときもない。

6月18日まで、香澄さんの休みはなかった。
5月29日に三浦海岸に遠足し、バーベキューをした。香澄さんは、グループでAさんとも楽しそうに話していて、仲がいいと思っていた。
その時のグループは、好きなもの同士で組んでいいということで、自然につくられたグループ。

6月12日、クリニック受診のあとに母親と面談した事実はない。香澄さんは午前中、4時間まで休みで、午後1時前後に出てきた。この日はクラス生徒の父親が亡くなって、11時から12時まで告別式に出ていた。1時20分頃に学校についたが、昼頃、美登里さんと会った記憶はない。
6月15日の学級懇談会があり、学級懇談会のあとにAさんの母親が話しにきた。

6月16日に、美登里さんと面談した。この日は午前中授業で、午後、クラスの教室で二者面談もしくは三者面談をした。1人15分から20分位だった。美登里さんとは二者面談だった。
話しの内容は、Bさん、Cさんのことについて。香澄さんが初心者なので、上下関係ができると言われた。3年生のY先輩はとてもいい先輩なので、心配ならYくんについて練習したらどうですかと話した。
美登里さんもYくんのことはよく知っていて、Y先輩について同調しているようだった。

Bさん、Cさんは、はっきりするものの言い方をする生徒だった。コンクールの抽選で一番ひいたら、怒られた。私も怒られた。2人は誰に対してもはっきりと言う。香澄さんに対してだけではないことなどを話した。
Aさんについては、朝のお迎えの話しが出た。Aさんが学校に行く途中に香澄さんの自宅があって、お迎えが香澄さんにとってプレッシャーになっているという話しだった。

Aさんの母親と話したときも話題になった。Aさんは友人としてのお迎えと思っていたので、もう高校生なので、別々に登校してはどうかと言った。Aさんは納得している様子だった。

それ以外の話しは全く出ていなかった。メンタルクリニックも、青少年相談センターの話しも全く出ていなかった。
6月23日に、メンタルクリニックの診断書をはじめてみた。青少年相談センターのことは、香澄さんが亡くなってから聞いた。
6月23日にお母さんが診断書を持って、アトピーがひどくなったので、病院に行ってきたと聞いた。病院と聞いて驚いた。心因反応のうつ状態で、通院加療中であることを聞いた。職員室前の廊下で話している最中に、1階からT井教諭がたまたまあがってきた。部活に関することなので、聞いてもらった。
T井教諭は、うつ状態の診断書を見て、びっくりしていた。前任校で、うつで病気にかかって卒業が危ぶまれた生徒がいて、思い出した。うつのときは、無理に登校させたりしてはいけないと先輩に言われたという。ゆっくり休まれたらどうかとアドバイスをした。部活を休んで休養をとってほしいと言った。美登里さんも、休ませても直したいと思うと話した。

美登里さんから、クラス替えの要求があった。香澄さんも望んでいたかどうかはわからない。香澄さんは後から遅れてきた。直前まで話したが、香澄さんが来たので、その続きはしなかった。
それまで、香澄さんもお母さんもT井教諭の名前を知らなかった。香澄さんが、(中学校のときの吹奏楽部顧問)T石先生と名前を勘違いした。美登里さんと香澄さんが、「T石先生を沈めたいのよね」と言ったので驚いた。

6月26日、お母さんが、Bさん、Cさんが香澄さんを仲間はずれにしているのではないかと言った。その根拠は、6月7日の吹奏楽部がアメリカンフットボールの応援演奏に行ったとき、同じパートでありながら、Bさん、Cさんと香澄さんとの間に通路があったから。
しかし、仲間はずれということはなかったとわかっていたので、Cさんに「香澄さんの体調が悪いようだけど、よろしく頼むね」とだけ言った。Cさんは、わかったと言った。

その後、香澄さんとは顔は何回か会っているが、欠席があったり、遅刻があったり、試験も保健室で受けていたので、7月9日まで話す機会がなかった。
試験は、アトピーがひどくなったのでと本人が申し出て、保健室で受けた。試験の1週間前から部活はやっていない。

7月9日、香澄さんは明るい様子で、これから部活、ガンバルんだと言っていた。私からはブレーキをかけられないと思った。
7月10日、7月7日から具合が悪く、この日から検査と長期入院を7月24日までしていた。

香澄さんが自殺をはかったことは、7月25日の夜、T井教諭から電話で聞いた。病院には26日に行った。
美登里さんからは、7月24日に、「わかりました。3人でした」と言われて、Bさん、Cさんを思い浮かべたが、あと一人はわからなかった。
7月27日に、美登里さんから、Aさんだと聞いて、ほんとうにびっくりした。
集中治療室の待合室で、親戚に美登里さんが、「いじめだ」と言っていた。そうしたら、「いろんな事情があるのだから、断定してはいけない」と言われていた。

通夜には、Aさん、Bさん、Cさん、中学校のときの顧問のT石先生は遠慮するようにと連絡があった。3人の生徒は式場前で号泣していた。何と言葉をかけていいかわからなかった。そこには教頭もいた。

その後、部活では連日、ミーティングをした。8月8日になってやっと音だしをした。
7月30日に、吹奏楽部の部員に作文を書かせた。それは管理職が決めた。
テーマは、香澄さんと部員一人ひとりが直接、どのようにかかわりあったか。コンクールに出るか、それとも辞退するか。今後の部活動をどうするか、について。
生徒の作文の内容は読んだ。同意が得られたものは出している。いじめを目撃したという情報はなかった。
顧問が2人ずつ、部員一人ひとりから聞き取り調査をした。しかし、いじめの情報はなかった。
代表の○○さんから、6月に解決した内容だけれど、と聞いていたので、陳述書に書いた。

クラスの生徒には、9月の始業式のあと、香澄さんと関わっていたり、知っていることがあったら話しにきてくださいと話した。しかし、特に情報はなかった。
Sさんに作文を書いてもらった。情報はすべて管理職に集めるようにと言われていたので、Sさんの作文を含めて報告した。
クラスの生徒全員に作文を書かせることはしなかった。管理職が必要を感じていなかったので。また、生徒たちに呼びかけても反応がなかったので、自分もそれでいいと思った。

秋頃、生徒から、「香澄さんの両親からこういう手紙が来たのですが、何を書けばいいですか?」と聞かれて、ありのままを書きなさいと言った。
Hさんの作文にもいじめという言葉はなかった。Aさんとの問題はどのようになっているのかと感じたが、6月頃解決したということだったので、解決していたのだと思った。
Sさんに作文を書いてもらったのは、ふだんから仲のよい友人だったから。集中治療室に呼ばれた唯一の生徒だった。

25日にSさんから電話があった。香澄さんから、いじめられているという話しを聞いていたが、その日が最初でびっくりしていた。Sさんの話しでは、香澄さんは自殺する2時間前まで、部活動に出るつもりだと話していたという。電話を切ったあと、まさか自殺するとは思いもよらなかった。もし、香澄さんが自殺を考えているのだったら、どうして自分が止められなかったのかと、毎日、悩んでいる様子だった。
(ここで、N教諭は涙声になった)

香澄さんとAさんの関係については仲がよいと思っていた。美登里さんからは、Aさんについて、朝の迎えの話しだけだった。友人としての働きかけとしか思わなかった。登校ができなくなった香澄さんの手助けになるのではと期待していたほどだった。

Q:部活動全体の雰囲気は緊張した人間関係だったのか?
A:私が来る前は勝敗主義だったが、私が来てからは、みんなで音楽を楽しむ雰囲気だった。化粧やピアス、派手な服装も自由で、野放し状態だった。ただコンクールのときだけはけじめをつけようと言っていた。

Q:Bさんが、香澄さんに髪型や持ち物について注意する内容の電話をしたのを、香澄さんがPHSで録音していたが?
A:コンクールのときに限ったことだと思う。

Q:香澄さんが自殺してどう思ったか?
A:香澄さんはこれまで打楽器をやっていて、トロンボーンは初心者だった。練習量が多く体力的にたいへんだったんだろうな。うつ病という大きな病気を抱えていたんだなと思った。
精神科を受診したと聞いて、体調を整えていこうと、休部、休養は勧めたが、コンクールは保護者や本人が出たいと言い、医者が認めているのなら、反対できないと思った。

Q:こうしておけばよかったということはあるか?
A:私は3人がいじめたということはないと思うが、精神的にそういう病気になった香澄さんに対して、どういうふうに話しを切り出したら良かったのか、今でも悩んでいる。
うつの診断書をみたあと、もっと強く、香澄さんの休部を美登里さんに対して、言えばよかったのかなと心残だ。


*******
ここから、原告側・関守弁護士の反対尋問。

Q:4月に書いた陳述書はメモか何かを見て書いたのか?
A:記憶とメモ、出席簿などを見て書いた。

Q:このメモ(証拠提出されたコピーを示しながら)以外に参照したものはあるか?
A:日記を付けていたので、参照した。

Q:その日記は今も手元にあるのか?
A:日記は手元にある。しかし、あまり詳しいことは書いていない。

Q:事故報告書には、パートについて、母親が2人について相談していると書いているが。これは誰が書いたのか?
A:校長が書いた。しかし、いつ書いたかわからない。

Q:メモを見ながら校長と面談したことは覚えているか?
A:覚えていない。

Q:野庭高校の教員として、いじめやや不登校があった場合、どのように対応するのか?どのように対応しようと話し合っていたのか?
A:「いじめ」という言葉が出たら、敏感になりなさい」と言われた。どのように対応をとるかについて、常識的な話しはしていたと思う。

Q:いじめを発見したら、誰に報告するように言われていたのか?
A:生活指導担当と、校長、教頭に話しをしなさいということはできていた。

Q:平成8年のいじめ根絶に向けての通達資料は見たことがあるか?
A:見たことはない。

Q:いじめについての研修会を持ったことは?
A:覚えていない。

Q:顧問団について。T井教諭に決定権があるのか?
A:T井教諭は連絡窓口。みんなで協議して決める。月2、3回、会議が行われていた。参加者は6人プラス嘱託。父母会長が出席することもあった。H先生は常ではない。

Q:当時も開かれていたのか?
A:最低1回は開いていた。主に日程や行事のことを話し合っていた。

Q:議事録はあるか?
A:残っていない。記録はもしかしたら、T井教諭が持っているかもしれない。レジュメはあったと思う。4月の第1回目は持っている。2、3回目は持っていない。理由はとくにない。

Q:パート練習はどのようにするのか?
A:楽器ごとのパートに分かれた。普通教室を全部使ってやっていた。トロンボーンはひとつの教室。技術的にはH先生が見ていた。

Q:吹奏楽部の初心者に教えるのは?
A:パートごとにいるパートリーダー。香澄さんに対してはYくん。

Q:Yくんが教えるのが通常の扱いなら、母親の美登里さんに対して、「心配なら、Yくんについたらどうですか?」と言ったのはなぜか?
A:もっと頻繁にという意味。Yくんは技術的にも上手だったし、人間的にもしっかりした子だったので。
自分で練習することも含めるが、もっとパートリーダーが一緒にするといいと思った。Yくんから練習する機会を増やしなさいと言ったのは、Yくんと練習する機会が少なかったんじゃないかと想像して。確認したわけではない。

Q:ふだんのパート練習には立ち会っていたのか?
A:顧問のなかではわりと立ち会っていた。しかし、トロンボーンのパート練習には立ち会っていない。合奏練習には立ち会っていた。

ここまでで12時ちょっと過ぎ。
N教諭の尋問は次回(1月18日、1時30分〜3時30分)に持ち越されることになった。101号法廷がとれているとのこと。なお、主な人証が出たので、次々回は指定しないとのこと。


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美登里さんは、N教諭にいじめのことを何度も、何度も相談したと言う。一方で、N教諭はほとんど聞いたことがないと言う。誰からもいじめのことは聞いたことも、そして見たこともないと言う。
嘱託顧問にも、養護教諭にも、しげく会って相談している。娘の友だちの母親にも相談している。
なりふりかまわず奔走していた美登里さんが、何度も何度も学校に通いながら、部活の顧問で、香澄さんと3人の生徒たちの担任である、一番のキーマンであるN教諭にだけ、具体的な相談をしないでいることはむしろ考えにくい。
逆にもし、ほんとうに美登里さんから何の相談もなかったとしたなら、最初から言っても無駄だとして、諦められていたとしか考えられないだろう。そういうことも思わないのだろうか。

香澄さんの友人のSさんが、香澄さんを救えなかったことで、自分を責めているという話しを涙ながらに話しながら、自分自身にはやるべきことがあったとすれば、ただ、母親にもっと強く休養を勧めればよかったということだけ。まるで他人ごとだ。そして、まるで香澄さんが元々、うつ病を抱えていたかのような口ぶりだった。
香澄さんと信頼関係があったとしながら、部活顧問であり、担任である自分に全く相談がなかったことを疑問にも思っていない。
香澄さんがN教諭にまるで相談していなかったとしたら、最初からきっと、このひとに言っても無駄だ、助けを求めても無駄だとあきらめていたのだろう。
いじめにあった多くの子どもたちは、親よりも、担任教師に相談している。親は学校で起きている問題に対して無力だが、担任はそうではない。本気になれば、いじめをやめさせることのできる、教師としての権力をもっている。加害者に直接注意する権限、他の教師と一緒になって注意を促す権限、加害者の親に注意をする権限、内申書で生徒を脅す権力、出席停止や退学を上司にはかる権力をもっている。

うつ状態の診断を知りながら、香澄さんとは話す機会がなかったと言う。担任で顧問であれば、香澄さんがたとえ欠席しがちで、遅刻や早退があったとしても、保健室に行っていたとしても、いや、そういう状態だからこそ、自ら香澄さんと話し合う機会をつくるべきだったのではないか。学校で会えないのであれば、家庭訪問を打診するべきではなかったのか。その努力もしないで、平然と話すチャンスがなかったと言っている。
そして、母親からの情報を得ながらも、すべて想像でのみ考え、大したことはないと判断している。何一つ自分の目と耳とで、生徒から情報を得ようとか、確かめようとはしていない。

教え子の死に対して、自責の念がまるで感じられない。ただ、持病で亡くなった程度にしか考えていないのだろうか。香澄さんが亡くなったあとも、管理職に言われてやっただけで、自らの意志で生徒から積極的に情報を収集しようとは思わなかったようだ。

N教諭は、Bさん、Cさんにも、実はなめられていたのではないだろうか。でなければ、入ったばかりの1年生が、3年生をさしおいて、顧問に対して、大会のくじの1番をひいたことを怒ったりできるだろうか。
勝敗主義を捨てて、音楽を楽しむ雰囲気をつくってきたと言いながら、ただ無気力に流されてきただけではないのか。

今また、N教諭のクラスでいじめがあったとしても、香澄さんの死から何も学ぼうとしなかったこの教師に、適切な対処ができるとは到底、思えない。
同じように、生徒や保護者の訴えを聞いても、自分で勝手に都合よく、大したことはない、そんなはずはないと判断して、何もせずにただ手をこまねいているだけではないか。そして、後になって、自分は聞いていなかったと平気でシラを切り通すのではないか。こういうひとが今も教師を続けている。

美登里さんはN教諭の顔をみると、比喩ではなく、現実に吐き気をもよおすという。
ひとり娘を亡くした小森夫妻には、6年たった今もクリスマスも、正月もない。N教諭にもせめて次回の尋問まで、その苦しみの一片でも味わってほしい。




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