わたしの雑記帳

2004/11/28 小森香澄さん(2004/11/16)傍聴報告部活嘱託指導員と養護教諭の証人尋問
(2004/11/30一部訂正)


2004年11月16日(火)、横浜地裁101号法廷で、小森さんの裁判の証人尋問が行われた。
原告側の証人として、野庭高校の吹奏楽部の嘱託技術指導員であったHさん(男性)。被告側の証人として、養護教諭(女性)。午前11時から、昼の休憩をはさんで、夕方4時半まで、尋問が続けられた。
裁判の迅速化に呼応してのものなのか、あるいは春に裁判官の移動が多いことから、なんとしても自分の任期中に判決を出したいと思っているのかわからない。ただ、いたずらに引き延ばされるよりはよかったと私は思っている。

裁判が始まる前、待合室のいすに、Hさんを見つけた小森美登里さんは思わず泣き出してしまった。いろんな思いがあふれてきたのだろう。原告側の要望に応じて、証言してくれることへの感謝の気持ちもあったと思う。

最初にHさん(31)の証人尋問。演奏会という大舞台に慣れているせいか、リラックスしているように傍目には見えた。
音楽の指導員というよりも、髪型もスポーツ刈りが少し伸びたようなカットで、体育会系の部活の指導員という雰囲気だった。どことなく学生らしさが残っているような、先生らしくない雰囲気で、生徒に人気があるだろうなと推測された。
原告代理人弁護士の質問への答えという形で尋問は進められたが、Hさんは質問に対して比較的自由に、その時に思ったことを口に出した。裁判長も通常なら、「聞かれたことだけに簡潔に答えるように」「勝手にしゃべらないように」と注意するところだが、原告側が申請した証人ということもあってか、何も言わなかった。

Hさんは野庭高校の卒業生で、平成9年から成年(?)指揮者として、野庭高校吹奏楽部に関わってきた。平成10年4月から嘱託顧問となり、月10日ほど部活動の指導に来ていた。平成14年に統廃合で野庭高校がなくなるまで続いていた。
吹奏楽部には何人もの顧問がいると聞いていたが、実質的には、Hさんが行かないときには、生徒だけで練習をしていることが多かったようだ。他の顧問はあまり出ていなかったという。

4月の終わり頃、香澄さんは体調を崩しはじめた。ゴールデンウィーク頃、3年生のトロンボーンパートの男子生徒2名が、香澄さんが同じパートの1年生にきつい言い方をされて参っているみたいだと相談にきた。
練習は主にパートごとに、3年生のパートリーダーの指導のもと行われる。この2名が、この裁判の被告になっているBさん、Cさん、香澄さんの3人を指導していた。

Hさんは、日常的に部活生徒から様々な相談に乗っていたが、トロンボーンの3年生2人からのこのような内容の相談は複数回あった。ほかにも、1年生の女子部員から、香澄さんがBさん、Cさんの2人にきついことを言われているという相談があった。

相談を受けてHさんは、合奏で全員が揃っているときに、相手のためによかれと思っていることでも、思いやりをもって、注意して言葉を選ばないと、相手を傷つけることがあると話したという。
「チームを作っていくには」という前提で話し、意図的に誰のことを言っているかは、わからないような話し方をした。また、「いじめ」という言葉を使うのはいやなので、「いじめ」という言葉は使わなかったという。Bさん、Cさんの2人には世間話のなかで個人的に1回、全員には数回、話した。いずれも生徒たちは素直に「はい」と答えていた。

一方で、香澄さんに対しては、「何か悩んでいることある?」とさりげなく声をかけたが、「いいえ、全然。そんなことはないです。大丈夫です」と明るく答えていた。その様子に、本当のことを言えないのかなとも考えたが、大丈夫だと思っていたという。

6月中旬から7月中旬、1年生の女子部員からも同様のことを聞いたかもしれないが、母親の美登里さんから、香澄さんがAさんのことで悩んでいることやBさん、Cさんのことをひっくるめて、相談された。具体的には、香澄さんはAさんからアトピー性皮膚炎のことでひどいことを言われたこと。Aさんが毎朝、迎えに来るのがプレッシャーになっていること。トロンボーンの女子2人からPHSのストラップが派手だとか、いろいろきついことを言われていることなどを聞いた。

それでも、部活の休憩時間に、香澄さんに悩んでいることはないかと聞くと、「全然、大丈夫」と明るい様子で答えていた。自分は吹奏楽部しかみていないが、部活動のなかで、香澄さんがきついことを言われているのを見たことはなかった。香澄さんは練習熱心で明るい様子だった。
7月に香澄さんが体調を崩していたので、無理に聞き立てるようなことはしなかった。

BさんとCさんはいつも一緒だった。
2人とも、とても練習熱心で、高い目標を持っていた。休憩時間も練習していた。
また、2人はよくしゃべる生徒で、早いテンポで話した。

一方、香澄さんとAさんもいつも一緒だった。2人はいつもHさんの周りにまとわりついている感じだったという。休憩時間には2人はわざわざHさんのそばに来る。Aさんからは個人的な好意を感じていた。香澄さんからも同様だった。2人はひじょうに仲良く見えた。仲が悪いようには見えなかった。

6月下旬から7月中旬、香澄さんはアトピーが顔に出ていた。
7月には、学校の欠席が増えた。何か問題があったようには見えていた。
お母さん(美登里さん)から診断書のコピーをもらってショックを受けた。それまでも疑念は持っていたが、深刻な状況を再認識した。

顧問団のほかの先生には、特別なことがあれば報告していた。顧問であるN教諭にも、たまに報告したこともあった。具体的に生徒の名前を出したかどうかは覚えていない。香澄さんのこととして、部活の1年生の問題として話した。また、N教諭からは、母親からこういう相談を受けているので、何かあったら報告してくださいと言われていた。
香澄さんは3年生の男子の先輩に技術指導の練習をみさせるようになっていた。顧問からの指示があったのか、生徒自身の親切心からなのかはわからなかった。

顧問団から、香澄さんが鬱(うつ)でメンタルクリニックに通い、カウンセリングを受けていることを知らされた。
7月下旬に、香澄さんが自宅でカッターナイフを振り回したことを聞いて、びっくりした。学校にたまに来たときには元気そうだったので、信じられなかった。
香澄さんには部活をやめさせたほうがいいのではないかというような、顧問団でのかしこまった話し合いはなかった。他の顧問がどう対応したかはわからない。

7月23日。自殺の2日前。吹奏楽部の地区大会があった。香澄さんは練習には参加していなかった。しかし、3年生の男子部員2人が熱心に個人練習をみており、技術的には充分上達していた。技術面での問題はなかった。また、当時は部員が激減しており、規定の50人にも満たなかった。部員にどうするのと聞いて、公会堂での練習に香澄さんが出て来られたら、参加資格としようということになった。
香澄さんは地区大会には、非常に元気に参加した。打ち上げにも参加した。非常に明るかった。3人の話はでなかった。ただ、プリクラをみんなで撮ろうと言ったら、「(Hさんと)2人で撮らないと意味がない」と言った。
後から考えれば、その時に自分で、2日後に死ぬことを決めていたのかなと思った。

7月24日。香澄さんと、母親の美登里さんが、香澄さんの友人のSさんを伴って、Hさんの自宅を訪ねた。事前に美登里さんから、おじゃましてもいいですかと電話があった。
自宅には、仕事の打ち合わせをしていたHさんの友人と、母親がいた。
美登里さんは、「香澄が思い悩んでいたことをやっと自分の口から言ってくれたんですよ」とうれしそうに話した。
悩んでいる内容については、美登里さんが、香澄さんの言葉を書き取ったときのメモを見せてくれた。
「文句があったら後からじゃなく、話し合いの最中にいいな」「あくびをするのは緊張感が足りないからだと言われる」「口調がきつい」などと書かれていたメモを見た。
また、香澄さんのPHSには、Bさんの声が録音されていた。香澄さんに対して注意する内容だった。ふだんよりきつかった。今までこのような言い方を聞いたことがなかったので、ちょっとおどろいた。

その時の様子は、美登里さんがHさんと話し、美登里さんが確認を促すようにすると、香澄さんは頷いていた。コメントをしたり、内容を否定することはしなかった。明るい様子で、一緒にきたSさんと騒いでいた。
Hさんは「そういうことを気にしないで、周りを見たら味方だってたくさんいるから。気にするな」と話した。Hさんの母親も「元気だしなさい」と話した。香澄さんはどんどんリラックスして明るくなっていた。

夜7時くらいから8時か8時半くらいまでいた。
玄関で、香澄さんは「明日からまた頑張ります」という感じだった。Hさんは「死ぬとか考えないで、周りに楽しいことを見つけるような努力をしていこうよ」と話した。
もし、その時に香澄さんに自殺する雰囲気を感じていたとしたら、絶対に言わなかった言葉だった。どうやって頑張らせてあげたらいいかなと考えていた。節目にあたる日だと考えていた。
その内容は学校に報告する必要があるとは思わなかった。夏休みに入っていたし、報告しなければならないとは思わなかった。

葬儀の日、Aさんと、Bさん、Cさんの2人には、参列を遠慮してほしいとの遺族の意向を伝えた。父母会からも聞いていたと思う。「これは病死だから」と言った。「前々から、相手に対して思いやりをもつように言ったろう」「今日は会場の外から手をあわせなさい」と話した。生徒たちは泣きながら返事をした。Aさんだけはどうしても中に入りたがった。参列したがっていた。
顧問のT井先生に会って2人きりで話したときに、「これはいじめなんかじゃない。小森さんの問題だ」と話した。
周囲がすでにパニック状態で、いじめという言葉が飛び交っていた。


平成12年の春頃、Aさんが香澄さんに謝りたいというので、妻の車で墓地までAさんを連れて行った。
Aさんは行きも帰りも車のなかでずっと泣いていた。何について謝りたいのかは聞いていない。門までついていって、あと10メートルほどのところで、Aさんが「ひとりで行かせてください」と言うので、待っていた。

香澄さんの自殺後、学校からHさんに対する事情聴取はなかった。
生徒の事情聴取はあったと聞いているが、内容は知らない。
香澄さんの事件後は、教頭からは、「生徒の気持ちを県大会に向けてくれ。音楽に集中できるように」と言われた。
香澄さんが亡くなったあとも、部活生徒からの相談はたくさん来た。教頭や顧問団からは、「生徒の相談に乗らないように」と指導を受けた。「一手に相談を受けてしまうと大変になってしまうから」と言われた。

*******
12時5分頃、一旦、昼の休憩をはさんで、13時半から再開されることになった。

原告弁護士の2、3の質問のあと、被告弁護士からの反対尋問。
Q:平成8年に前任のNa先生が亡くなってから、吹奏楽部の部員数が減ったということだが、どれくらい減ったのか?
A:平成8年には70人から80人いたのが、平成10年の嘱託顧問になったときには、半分以下の30人弱だった。3年生が15人弱で、2年生が6〜7人。1年生が入ってきた当初は15人だった。

Q:香澄さんの様子に変化が現れたのは?
A:4月に仮入部した頃は元気だった。5月からぽつぽつ休むようになった。極端に休みが増えたのは、6月中旬。

Q:生徒からの相談はいつもいろいろあるのか?
A:毎年、いろんなことで相談がある。香澄さんに関してだけではない。頻繁にあったのは、6月後半から7月にかけて。5月のゴールデンウィーク前後には、3年生の男子生徒から香澄さんについて、1回くらいあった。

Q:相談の具体的な内容は?
A:香澄さんが厳しいことを言われていたと聞いた。具体的な内容を特に問いただしたことはなかった。
具体的な細かい内容に関しては香澄さんの母親から聞いた。きついことを言われている現場は見たことがない。

Q:香澄さんについて、顧問団で何か話し合ったのか?
A:N先生から、お母さんから相談を受けているので、気を付けてほしいと言われた。顧問同士の定期的な話し合いはなかった。必要に応じて、校内放送で集まって話した。

Q:部活の欠席は誰が受けるのか?
A:3年生のパートリーダーの生徒が部活の欠席を受ける。

Q:母親からの相談について
A:母親の美登里さんと会ったのは、4月。父親の新一郎さんとも会った。お母さんから相談があったのは6月に入ってから。最初はトロンボーンの2人、Bさん、Cさんのことだけだった。7月上旬からAさんを含めて全体の内容になった。6月から7月にかけて、3〜4回あった。香澄さんの友人関係のことが主だった。体調についても聞いた。登校しようとすると、背中が痛くなって動けない。膝やお腹が学校に行く途中で痛くなって帰ってきてしまう。
香澄さんの周りでゴタゴタしたことがあって、香澄さんにストレスを与えているのではないかとお母さんは考えていた。

Q:香澄さんの状態について
A:7月頃、母親から診断書のコピーをもらった。うつ状態であることを診断書のコピーを見てはじめて知った。
7月に深刻さを増した。香澄さんの体調は心の病が原因で、6月から学校の欠席が増えていることは何となく、気づいていた。N先生から香澄さんが長期に休んでいると知らされた。

Q:Bさん、Cさんへ個別指導は何か注意したのか?
A:心当たりがあれば、気を付けてくれると思った。香澄さんについて言っていると、極力わからないように言った。

Q:Bさん、Cさん、Aさんがいじめている様子は感じられたか?
A:部活動中は感じなかった。個人的に問いかけることは特にしていなかった。1年生の女子2人が香澄さんの相談にのったりしていた。

Q:部活での香澄さんの様子について
A:4月から6月にかけて、香澄さんとAさんはほとんど一緒だった。非常に仲良く見えた。
7月には部活を頻繁に欠席した。土日は8時半から5時までの練習を遅刻してきて早退した。
公会堂での練習にも遅れて来た。久しぶりに練習に参加しているときには元気だった。

Q:7月24日、Hさん宅を訪れたときの様子について
A:香澄さんは明るかった。基本的には母親の隣に座っていた。Sさんと遊んだりもしていた。

Q:メモの内容について
A:全体をみて、少し驚いた。あれこれ厳しいことを個人的に言われていたのかなと驚いた。
「あくびをするのは緊張感が足りないからだ。しっかりしろ」と言われたとあった。
ただし、自分が現役の頃は、あくびをしたら殴られていた。
香澄さんがどういう状況で言われていたのか、詳しいことは知らない。

Q:事件後について
A:Bさん、Cさんはすぐに部活に来なくなった。そのことについて、相談は受けていない。
Aさんは東関東大会には出場した。Aさんの母親からは頻繁に相談の電話があった。

Q:生徒の相談には乗らないほうがいいと言われたのか?
A:8月か9月頃に教頭から言われた。その頃は部活のなかがしっちゃかめっちゃかで、事件のことは口に出さないように生徒自体が心がけていた。どうしても出したくなってしまうグチを言いに来た。
少しでも元気のない子がいると相談が来るようになった。かなりたくさん、相談に来ていた。
管理職から相談に乗らないように言われて、でも、相談がきちゃうんだけどと思った。それがかなり長い期間、続いた。

Q:香澄さんの母親から、いじめられているという相談があったのか?
A:いじめというより、具体的な内容が多かった。メモはかなり細かいことを掘り下げていた。トロンボーンの2人のことや、Aさんが迎えに来て大変だという内容を聞いていた。N先生からはかすみさんが参っているようなので、みてやってくれと言われていたが、体調のことだと判断していた。

Q:香澄さんはどのような子だったのか?
A:非常に感受性の強い、明るくて、素直。練習は熱心だった。

Q:強いか、弱いかと言われたら?
A:強いほうだと思う。練習中に泣くことがあったが、技術的なことだった。Bさん、Cさんは中学校からトロンボーンを経験している。香澄さんは中学校では打楽器で、トロンボーンは初心者だった。うまくいかなくて、内容で泣いた。泣いているときには、「さぼっていないで、練習に戻りなさい」と言うと、練習に戻った。

Q:香澄さんから、人間関係の問題について、何かしてほしいという要望はあったのか?
A:何もない。


ここから、Aさんの代理人弁護士からの尋問。
Q:吹奏楽部の練習は、朝練と放課後にあったというが?
A:朝は7時10分から、8時20分まで。午後は3時30分から7時までの計5時間弱。日曜日には7時30分から夕方5時まで。練習は基本的にはパートごとで、それから合奏した。生徒がスケジュールを考える。

Q:Aさんが香澄さんにひどい言動をとるのを見たことはあるか?
A:見たことはない。仲良く見えた。

Q:香澄さんを大会に出させたのはHさんか?母親は体調の件で、ゆっくり休ませたほうがいいと思っていたようだが。
A:みんなで相談して決めた。実力的には参加可能だから、前日に予行練習に来てくれたらいいと思うのだけれどと言うと、生徒がOKをしてくれた。
部活に来ているときには明るかったので。今、思うと無理していたのかもしれないが。その元気があるのなら、自信につながるのではないかと判断した。部活もしくはコンクールに出ることは、最終的に香澄さん本人の意志。本人が出たいのであれば、前日の練習に参加できれば資格を与えてもよいと思っていた。

Q:7月のコンクールに向けて、5月から練習するようだが、心身の体調を崩す生徒は出ないのか?
A:年によってはいる。ぜん息や過呼吸が悪化する生徒は多少いた。

Q:Aさんが拒食症になって練習中に吐いたのは知っているか。
A:知っている。休むように言った。

Q:学校で手首を切って自殺をはかったことは知っているか?
A:後日、顧問から話を聞いて知った。関東大会中旬以降、9月だったと思う。母親に連絡して、刃物やひもなど自傷行為につながるものは撤去したほうがいいと話した。

Bさん、Cさんの代理人弁護士からの質問
Q:練習のとき、小森さん以外にも母親はついてくるのか?
A:吹奏楽部はわりと保護者が練習を見に来た。

Q:部活動の休みは?
A:月に2日休みだけで、あとは毎日ある。昔は、年末年始に6日間しか休みがなかった。

Q:Bさん、Cさんは中学時代から高い目標を持ち、熱心に練習していたというが。
A:休憩時間も練習していた。朝練、土日の練習もほとんど出席していた。

Q:部員数が足りなくて、コンクールの50人に足りなかったので全員参加にしたのか?
A:Na先生の頃は、コンクールに出るのに、毎回、オーディションがあった。人数足りないので、全員参加にした。

Q:反応性うつ状態について、ストレスが引き金になって自殺することもあると知っていたのか?香澄さんにとって、コンクールは大変なことではなかったのか?イベントのあとにまた県大会という大きなイベントがある時、命を断つことがあると知っていたか。
A:深くはわからない。しかし、自殺するようなことはあると知っていた。プレッシャーをかけないように、休ませるなどの配慮はしていた。当日、動けなくなったら、その時にでも考えられる。香澄さんが来たいと言って参加した。

Q:3人の生徒が被告になっていることについて、どう思うか?Bさん、Cさんは事件後すぐに退部している。あれほど練習熱心で、高い目標を持っていたのに。彼女たちも被害者ではないか?
A:個人的に訴える必要があったかどうか・・・?Bさん、Cさんは、2学期になって見た目も変わった。Aさんも目に見えて元気がなかった。

最後に原告弁護団から補足質問。
Q:Aさんと香澄さんは仲がよいと見えたのか?
A:最初は仲がよかった。いつも一緒に遊んでいた。自分のところにも、われ先に来ていた。次第に距離をおきだした。香澄さんは途中、別の女子生徒ともつるみだした。

Q:指導するときに、香澄さんに対することだとわからないように話したということだったが、それは3人を傷つけないようにとの配慮だったのか?
A:3人が香澄さん以外の他の1年生に対しても起こしたらやばいと思った。

Q:香澄さんに対するいじめを直接見たり、本人から聞いたことは?
A:直接、見たことはない。きついことを言われてまいっていると聞いた。練習中は見ていないが、外で言われていた可能性はある。
香澄さんが泣いていたことがあった。別の1年生の女子は近くにいたが、Bさん、Cさんはいなかった。香澄さんに「どうしたの?」と聞いても絶対に言わないので、推測するしかなかった。

Q:T教諭の話では、Hさんが、告別式のとき、何人かの生徒に向かって、「これはいじめなんかではない」と発言したと言っているが?
A:明確には覚えていない。葬儀の最中、T石教諭も参列することを拒否されていた。状況を説明するなかで話した。

Q:メモやPHSの内容について、第三者から見て、いじめなんかじゃないというほどのものではなかったのか?
A:・明確には覚えていない。

ここまでで、2時50分。

美登里さんや原告弁護団の話では、Hさんの話した内容は、以前に比べてかなり、トーンダウンしているという。自分のかつての教え子のひとりは自殺し、3人は裁判の被告となっている。
きっと自分を責める気持ちもあっただろう。被告となっている3人の生徒をかばいたい、救いたいという気持ちもあるだろう。学校や他の顧問への遠慮や気遣いもあるだろう。辛く、苦しい立場だと思う。
特に、Aさんには、とても慕われていた。事件後も母子ともに頼りにされていた。どちらにもつきたくない、逃げてしまいたいというのが正直な気持ちだったのではないか。

そんななかでも、よく勇気をもって証言にたってくれたと思う。
香澄さんの自殺の原因が母親にあるというような被告側の論調のなかで、間接的にであっても、生徒たちから、美登里さんから当時、いじめについての具体的な相談をいくつも受けたという証言はとても重要だ。

いつかきっと、Aさん、Bさん、Cさんもわかってくれると思う。
自分たちのしでかしてしまったことは、どんなに辛くても、向き合わないといけないということ。そうでなければ、次には進めないということ。

事件後の生徒たちの心のケアといい、嘱託であるHさんがいちばん教師らしい行動をとっているというのも皮肉なものだ。

Hさんの証言をきいていくつかわかってきたこと。

・顧問団とは名前ばかりで、教諭たちは衰退しつつあった吹奏楽部の指導にすでに情熱を欠いていた。部活動はHさんに任せっきりで、Hさんが元同校卒業生であることに甘え、嘱託という弱い立場であるのをいいことに面倒なことをすべて押し付けていたのではないか。

香澄さんは、3人の生徒以外には、上級生からも、かなり可愛がられていた。同級生らからも心配されていた。愛されていたということ。

何人もの生徒が心配するくらい、Bさん、Cさんの言動は、きつかったということ。まして、3年間、部活動のなかで厳しさを見てきた3年生でさえ、ふつうの練習での注意の範囲を超えていると感じている。3年生で、しかも男子である自分たちでさえ、対応しきれないと感じて、Hさんに相談している。

香澄さんが、非常にがまん強く、辛さを表に出すことをしなかったということ。心身に異常をきたすくらい追いつめられながら、人前では明るくふるまってしまう。逆にいえば、辛いことを辛いと言えなかった。感情を露わにして、怒りや悲しみをぶつけることができなかった、発散できなかったからこそ、精神的に追いつめられたと考えられる。

・そして、これは私の推測でしかないが、Aさんがいつも香澄さんの側にべったりといた。しかも表面上は仲がよく見えて、実は大いなるプレッシャーをかけられていた。四六時中、Aさんから監視されているような状況のなかで、BさんやCさんのことをHさんに言えなかったのではないか。言えば、Aさんの口からBさん、Cさんに筒抜けになってしまう。もっとひどくやられる。「何でもない」と笑って答えるしかなかったのではないか。

・Aさんは、場合によって、香澄さんも、Hさんのことが、あこがれ的な面が強かったとしても異性として好きだったのではないか。そのことで、Hさんは香澄さんのことをライバル視したのではないか。一方で、香澄さんは、大好きなHさんの前で、いじめられている情けない自分をさらすことができなかったのではないか。

Aさん、Bさん、Cさん、みな、事件後、深く傷ついていた。彼女たちが結局は、部活動をやめ、Aさんに至っては高校も辞めてしまったことを私は今回、はじめて知った。Aさんのお墓参りのことも。彼女たちに反省、謝罪の気持ちは確かにあったのだろう。
しかし現実には、小森さんに対して、「謝罪」ではなく、「誤解を解きに行きたい」と言ったのだという。だから、訪問を断られた。
香澄さんは深く傷つけられて死に追いつめられたのだ。それが「誤解だ」と言われて、親が納得いくだろうか。
いじめは、いじめた側がどう思ってやったかではなく、いじめられた側がどう感じたかが一番重要なはずだ。まして、どれだれ傷ついても、生きている人間と、死んでしまった人間。被害の差は歴然としている。
自分たちの言動が香澄さんを傷つけたという事実を勇気をもって認めること。心から謝罪すること。それをスタートにするべきだった。しかし、サポートしてくれる大人たちがいないなかで、「言い訳」を優先させてしまった。
遺族も、子どもたちも、双方が深く傷つきながら、そこに歩み寄りはみられない。


小森さんは最初から裁判を考えていたわけではない。不法行為の時効である3年間をぎりぎり待っての提訴だった。裁判以外の道を、情報公開や人権救済の申し立てのなかに見いだそうとしていた。
もし、子どもたちが、自分たちのしたことをすべて正直に話し、香澄さんを傷つけたことを心から謝罪したなら、簡単に許しはもらえなかったかもしれないが、きっと野庭高校で吹奏楽部を続けることを夫妻は誰よりも応援してくれたではないだろうか。ほんとうの意味で子どもたちが立ち直るための強力なサポーターになってくれたのではないか。両者にとって、残念でならない。


10分ほどの休憩をはさんで、3時からK養護教諭(女性)の証人尋問だった。

香澄さんが、よく話を聞いてくれると言って信頼していたこともあり、小森さんは最後までこの養護教諭を信頼して、香澄さんの自殺後も、いろんなことを打ち明けていた。裁判中にも、あの先生とは敵対したくない、責めるようなことはしたくないとずっと言っていた。それが逆に裁判の陳述書のなかでは、K養護教諭のほうから、美登里さんのことを「信じられない」人間と書いてきていた。ショックを受けていた。

K養護教諭は、被告側が申請した証人ということで、神奈川県の代理人弁護士から先に尋問をはじめた。
昭和61年(1986年)4月から養護教諭として働いている。平成2年(1990年)4月から13年間、野庭高校で養護教諭として勤務。

保健室の利用状況が証拠提出されている。保健室を利用した生徒名、症状などが書いてある。年度ごとにつくっているK教諭自筆のもの。
保健室には、体調不良以外に精神的なことで相談したいことがある生徒が寄る。香澄さんの代の1年生は、いつもより保健室の利用が多かった。例年の2倍以上あったという。

4月に入って間もなく、香澄さんが保健室を訪れ、友人が拒食症なのだけれどどうしたらいいかと相談にきた。ただし、本人のことではなく、友だちのことを相談にきたので、ノートに記載はない。
香澄さんは頭痛、腹痛、気分不良などで、保健室をよく利用していた。もっと多い子もいたが、多いほうだった。
香澄さんはひとりで来るより、Aさんなど友だちと連れだってくることが多かった。Aさんや、Kさんや○○さん。腹痛や頭痛を訴えていたが、わりと明るくおしゃべりをしていた。

5月12日、5月の連休明けに、アトピーが出てかゆいと、休み時間に来た。
アトピーはストレスや疲労で悪化すること、医者に相談するといいと話した。精神的な悩みがあると話したことはない。
「何かいやなことはない?」と聞いたが、「何もないよ」と明るく答えていた。Aさんと一緒に来ることが多かった。

5月26日にも香澄さんがAさんと一緒に来た。Kさんがたまたま体調を悪くしてベッドで休んでいた。
香澄さんはAさんとふつうにおしゃべりをしながら、ずっと1時間も手を洗っていた。
香澄さんは「何度洗ってもきれいにならない」と言って、洗い続けていた。香澄さんは助けを求めることはなかった。Aさんに反応はなかった。ふつうにおしゃべりしていた。一般的には、手を洗い続けるのは洗浄脅迫症候群と言う。手を洗い続ける洗浄脅迫ではないかと思った。

6月に香澄さんは体調不良が続いた。香澄さんのPHSにお母さんから電話があって、相談センターの予約がとれたということだった。頭痛や腹痛を訴えていたので、内科かと思っていたが、お母さんも香澄さんが精神的な悩みがあると思っているのかなと思った。香澄さんは友だちとも明るく話していた。
相談センターの予約のあと、自律神経失調症と言われたということで、クリニックから薬を出されたと聞いた。「うつ」とは聞いていない。

お母さんとは保健室で4回ほど話をした。突然、約束もなしできた。
1回目は6月10日。お母さんは香澄さんの体調不良の原因がわかっていない様子だった。

2回目は6月23日。お母さんは、香澄さんがなんでこうなったかわかった、Aさんが原因だと言った。
Aさんが香澄さんに対して、強い口調で話したり、時にはたたいたりする。すぐにでもクラス替えをしてほしいが、無理なら学年末には必ずしてほしいとっ言った。しかし、N先生には、今はクラス替えはできないと言われたという。必ず2年生になるときにはクラス替えがあり、友人関係にも配慮するので大丈夫と話した。
お母さんのクラス替え要望の理由はAさんのことを思っていたのだろうと思う。Bさん、Cさんの2人の名前は出ていない。クラス替えについて、香澄さんの希望は聞いていない。

また、お母さんは、「母親にも原因がある」と言われたと話した。家に帰って、「お母さんのどこがいけないの?」と聞くと、香澄さんは「今からお母さんが変わるわけがないから、私があわせていく」と言ったという。
お母さんは、Aさんのことをそんなふうに言ったが、ふだんの香澄さんとAさんを見ていると、そういうことが信じられなかった。2人の様子をみていこうと思った。
Aさんや香澄さんに話を聞くことは考えなかった。話を聞くことが傷つけることになることも考えられるので、聞かなかった。
仲のよさそうな様子は変わらなかった。何度か香澄さんに「いやなことはない?」と聞いたが、とくに返事はなかった。

7月18日の終業式の日、お母さんと面談した。N先生にも話してきたと聞いた。診断書のコピーを提出してきたということだった。自分は内容を見ていない。相談センターの話のみだった。診断書のコピーは香澄さんが自殺したあとに見た。母親から、Aさんについての要望はなかった。

3回目は6月末か7月初め。青少年相談センターの帰りにシーパラダイスに行ってきたと聞いた。
母親は3回目(7/6)のとき、保健室でAさんを香澄さんの側に近づけないようにとお願いしたと言っているらしいが、そのようなことは聞いていない。もしあったとしても、2人で保健室に来たら、できない。

4回目は、7月10日頃。日にちは正確ではない。香澄さんが母親に向かって、「あんたが悪いんだ」と言ったという。理由は聞いていない。
香澄さんは学校に行かないで、中学校時代の友人の友だちの家に泊まっていると聞いた。「香澄が私に会いたがらないので、友人の母親を介して着替えを渡している」ということだった。
それから、8時半までに、登校するかどうかを学校に連絡しなければいけないか、確認することでプレッシャーを与えてしまうと言われた。8時半までにこだわらなくても連絡を入れれば、それでいいのではないかと答えた。
授業を3時間以上欠席すると、部活動に出られない決まりがあるが、出てはいけないでしょうかと相談されて、香澄さんが出たいというのなら部活に出てかまわないと答えた。
そのことは、顧問とは相談していない。学校に来られなくても、せめて部活動だけでも来られるなら、それがきっかけに学校に来られるようになればと思った。

母親が香澄さんの学校の支度を手伝っていると聞いた。行こうとするとできないので、靴下をはかせたり、ワイシャツを着せてあげていると聞いた。過干渉だと感じた。
しかし、過干渉ではないかと言えなかった。助言はしなかった。

お母さんの話がどこまで真実かわからなくなった。
私が見ている限り、Aさんと香澄さんの仲が悪いとは見られなかった。

AさんはHさんのことが好きで、香澄さんがHさんに声をかけるのがいやで、わざと出させないようにしているのではないかと言われた。それは考えすぎだろうと思った。

BさんやCさんのことが話題になったことはなかった。母親から2人の話を直接聞いたことはなかった。
7月27日に病院ではじめて聞いた。
お母さんからメンタルクリニックの話を聞いた記憶はない。
4回目の母親の話がなんとなくへんだったので、T井先生に話した。香澄さんが登校してきたら、話を聞こうということになった。

7月2日に期末試験があり、香澄さんは保健室で受験した。そのときに香澄さんと話をした記憶はない。それから18日まで、香澄さんが来たことはなかった。

7月18日、終業式のあと、N先生が休みだったので、T井教諭と香澄さんの話を聞いた。7月15日に香澄さんがカッターナイフをかざしたことを知った。
香澄さんからAさんのことを直接聞いた。中学校の時の部活の顧問と母親を水に沈めたいと言った。自分の前から消してしまいたいという意味だと思った。
Aさんのことは記憶にない。Bさん、Cさんのことは全く出てこなかった。

Aさんに事実関係を確かめるとか、香澄さんの言うことを聞くことはしなかった。掘り下げて聞くことも、助言もしなかった。
香澄さんの言い方が気になったが、T教諭と様子をみていこうということになった。この日には自殺の兆候はまるで感じられなかった。Bさん、Cさんの名前は、香澄さんや母親から一度もでなかった。

香澄さんが亡くなったあと、教頭、校長など管理職に話を聞かれて、経過を説明した。
生徒への面接には関与していないのでわからない。
N先生とは相談したことはない。

**********
ここから反対尋問

Q:8月12日に、教頭に話した内容は?
A:当時のメモではなく、記憶に基づいて話した。

Q:何か医学的な資格はあるのか?
A:看護士の資格をもっている。

Q:自殺やいじめ問題について勉強したことはあるか?
A:まったく勉強したことはない。一般的な勉強はしたことがある。

Q:今まで、自殺するケースにかかわったことは?
A:ない。

Q:いじめを受けている、困っているという形で、相談を受けて関わったことは?
A:ない。友だちとのけんかや友だちと関係が悪くなったという相談はあったが、いじめということでの相談はなかった。

Q:生徒がいじめられていると気づいたことは?
A:ない。

Q:いじめを受けている生徒がいたら、どう対処するのがいいと思うか?
A:担任や他の教員と話し合いをして、親子してどのように対処したらいいか話し合うのがいい。

Q:平成8年に文科省から「いじめ問題の根絶に向けて」という通達が出されているが、内容を知っているか?
A:知らない。見たことがない。

Q:香澄さんが保健室を訪れたときの様子について
A:5月の連休前、1回か2回、香澄さんが中学校の友人が食事をできなくなったのだが、どうしたらいいかと相談に来た。

連休あけには、顔や腕がかゆいと言ってきた。病院に行ったほうがいいと言った。アトピー性皮膚炎はストレスがあると悪化しやすいので、何かストレスがあるのかなと考えた。しかし、香澄さんに聞いても「ないよ」という返事だったので、それ以上深くは聞かなかった。

5月には保健室に、頭痛、腹痛、アトピーで来ていたので、ストレスがあるんだなと思っていた。

5月26日頃だと思うが、香澄さんが1時間以上、手を洗っていた。保健室でそういう生徒をはじめて見た。ストレスがあるんだなと思った。お母さんに「家でも見たことがありますか?」と聞くと、「見たことがない」という返事だった。それ以降は見たことがなかったので、一時的なものだと感じていた。
香澄さんは、Aさんと話をしながら、「何度洗っても落ちないんだ」と言ってずっと手を洗い続けていた。Aさんは普通どおりに話していた。
そのことについては、自分から母親に電話をしたのではなく、母親が来たときに話をした。早急に話すことでもない、様子を見ようと思っていた。

6月1日、香澄さんが「ぜん息がでるので、体育に出たくない」と言った。ぜん息は、持病や季節、精神的なものでもなる。担任教師には、生徒が保健室を利用したと報告することもある。教師から質問することもある。N教諭から質問があったかどうかははっきりとした記憶はない。

6月10日頃、体調が悪いというので、病院に行くことを勧めた。体調がよくならなかったので、「医者に診てもらったほうがいい」と言うと、香澄さんは「私もそう思う」と言った。
精神的な悩みはないか聞いたが、「何もいやなことはない」という返事だった。
香澄さんが母親にPHSで電話した。

Q:電話しているときの様子について、母親との仲が悪いように見えたか?
A:ふつうに見えた。仲が悪いとは思わなかった。
母親から「青少年相談センターの予約がとれたよ」と連絡が入った。様子をみることにした。他の教師にそのことは話していない。
6月に香澄さんは5回、保健室に来ている。友だちと来て話していたので、その場では聞けなかった。
6月12日に、母親が来て、精神的な悩みがあるようだと話した。「香澄がどうしてこのようになってしまったかわからない」と言った。アドバイスはしていない。アドバイスできるほどわかっていなかった。

6月23日、お母さんがメンタルクリニックに行った日に来て、「原因がわかった」と言った。母親は「Aさんが近づくと、香澄の具合がわるくなる」と言った。心因反応、うつ状態ということだったが、詳しいことは聞いていない。注意しなければいけないと思った。
Aさんが原因ということだったが、にわかには信じられなかった。

Q:美登里さんがウソをついていると思った?
A:そういうわけではないが、保健室で見ていると、そういう関係には見えなかった。

Q:教師同士で情報の共有はしたのか?
A:お母さんがN先生にも話したと言ったので、自分からは言わなかった。相談センターやメンタルクリニックに通っても、言わないのでわからない。情報の共有はなかった。
7月10日、母親が八景島パラダイスに帰りに寄った。香澄さんは、Aさんのことを泣きながら話したという。

Q:そのことは陳述書に書いていないのはなぜか?
A:書き忘れたのかもしれない。

3回目の面談のとき、

Q:美登里さんが香澄さんに制服を着せてあげるということだったが、それは1回だけなのか、複数回なのか?
A:確認していないので、わからない。

Q:制服のエピソードは教頭の話のなかにはなかったが、陳述書で突然、出てきたのは何故か。母親のことを過干渉だと思っていたのなら重要なエピソードではなかったのか。
A:忘れていて話していない。あとでいろいろ思い出した。しかし、変だなと、とてもよく覚えている。

7月10日、香澄さんが母親に会いたがらないので、友人のところに泊まりにいっていると聞いた。また、相談センターで、香澄さんが母親のことが原因だと言っていたということだった。

Q:親が原因なら、そのことを伝えなければ対応ができないのではないか?何かアドバイスはしたのか?
A:何かあるかもしれないとは思ったが、確信がもてなかった。

**********

原告、被告代理人とも、尋問は5時までと聞いていたが、裁判長は4時半までだと言う。次の予定が入っているということで、結局、K養護教諭の尋問の残り(原告からの反対尋問の続きと、生徒の代理人からの尋問)は次回に持ち越されることになった。
次回(11月30日・火)は10時から12時まで、横浜地裁503号法廷にて。
担任で部活顧問のN教諭の証人尋問も予定されている。
来年(2005年)は、1月18日(水)1時半から3時。次回に終わりきらないであろうN教諭の尋問の続きの予定。

************

今回のK養護教諭の尋問で、いじめに関する専門的な知識を有していると思っていた養護教諭が、いじめの研修を受けたことがなく、いじめに関する大事な通達を知らず、養護教諭としての勤続20年間に一度もいじめの相談を受けたことがないということに非常に驚いた。

今のいじめがはじまったのは1980年頃だと、私は思っている。いじめがどこの学校でもまん延するなかで、保健室は子どもたちの心の居場所としても機能してきたのではなかったのか?担任に話せないことも、教科や評価と関係のない養護教諭になら話せる、のではなかったのか?

生徒たちから信頼されていなかったのか。あるいは、いじめの相談を受けても、それをいじめとは認識せず、友だち間のトラブル、けんかとしか捉えていなかったのではないだろうか。
今のいじめの大きな特徴として、一見仲良く見えるグループ内、かつては仲のよかった友だちからいじめられるということがある。鹿川裕史くんにしても、大河内清輝くんにしても、伊藤準くんにしても、みんな仲間からいじめを受けている。休み時間や放課後、休日まで一緒に行動することを強要されている。

香澄さんの母親から、Aさんが原因ではと言われても、いつも一緒にいるのだから、信じられないとする。
保健室で香澄さんが1時間も手を洗い続けたのは、Aさんと一緒にいたくなかったからではなかったか。

美登里さんは、香澄さんの洋服を着せたことはないという。まして、靴下をはかせるなど。ただ、香澄さんが、朝、登校しようとすると具合が悪くなって起きられないような状況になったときに、1回だけブラウスをはおらせた。そのことを前後の状況を説明するなかでK養護教諭に話した。そのことが、まるで過保護に毎日のように、高校生の娘の着替えを手伝う異常に過保護な母親像として、出されている。
香澄さんが友人宅に泊まりにいったのも、たかが1泊か2泊。すぐに戻っている。

思春期に娘が母親に反発するのはごく自然な成長過程だと思う。
とくに、自分が様々なトラブルを抱えて悩み、苦しんでいるとき、小学生なら全面的に母親に頼ってくるかもしれない。しかし、高校生ともなれば、頼りたいけれど、自分で解決したい。心配されれば頼りたくもなる。心配もされたくないという思いの間で揺れていたのではないか。母親に対する信頼があるからこそ、甘えも出る、八つ当たりもでる。
そして、そういう反応が出やすいのは、希望の高校に入学して、あこがれの吹奏楽部に入った直後より、受験期のイライラのなかのほうが起きやすいのではないか。

もし、本当に母親が原因なら、「やさしい心が一番大切だよ。それを持っていないあの子たちのほうがかわいそう」と亡くなる4日前に母親に言うだろうか。
不登校になるよりむしろ、家にいたくなくて学校に行くのではないか。大好きな部活に打ち込むのではないか。
朝、学校に行こうとしても足が動かなくなるというのは、あきらかに学校に恐怖があるからだろう。
香澄さんが保健室にたびたびきたのは、Aさん、Bさん、Cさんのいる教室にいたくなかったからではないか。
ほんとうAさんと離れたかったのに、はっきり「嫌だ」と言えなかった。離れるために保健室に行っても、ついてこられてしまう苦痛。仲がよいと養護教諭にまで勘違いされてしまう苦痛があったのではないか。

いじめは隠される。表面的なことに惑わされず、子どもたちの小さなSOSに気が付いてほしい。
そして、養護教諭なら、心の傷がどういうものか、わかるはずだ。救えたかもしれないのに救えなかった。自分を責め続けている母親をこれ以上、傷つけないでほしい。




HOME 検 索 BACK わたしの雑記帳・新