わたしの雑記帳

2004/10/14 椎名篤子さんの「児童虐待−予防・発見から自立支援まで−」講座の報告


2004年10月8日(金)、東京池袋にある東京芸術劇場・中会議室で行われた都民講座「児童虐待−予防・発見から自立支援まで−」の講演を聞きにいった。
講師は椎名篤子さん。ノンフィクションライター。現在、児童虐待防止法の改正を求める全国ネットワーク世話人。児童虐待防止法の制定や今回の改正にも関わって来られた。
会場は8割方が児童にかかわる仕事に従事している人たちで、残り2割が私のような一般人ということだった。

椎名篤子さんといえば、児童虐待を扱ったコミック「凍りついた瞳」(ささやななえ著・椎名篤子原作/集英社)で著名。私自身、児童虐待について勉強したいというひとには、このコミックを推薦してきた。このコミックが、社会に対して児童虐待とはどういうものか、その現実を提起した意味はとても大きいと感じている。
椎名さんの話をきくのははじめてだったが、とても深くこの問題に取り組んでこられたのだということが、伝わってきた。ぜひ参加したかったのに、当日、どうしても参加できない事情があってできなかった友人たちのためにも、メモに沿って、簡単に内容を報告したいと思う。こういった講演の性質上、事例については一切の口外を事前に禁じられているので、その部分を除く。

虐待とは、
たとえ愛情から出たことであろうとなかろうと、子どものほうが著しく傷ついている状況を虐待という。
児童虐待は4つカテゴリーに分けられている。
●身体的虐待
●心理的虐待
●性的虐待
●ネグレクト


身体的虐待の多くは、体の見えないところに損傷を加える。虐待が疑われるとき、保育士などは衣服に隠れた部分をみてほしい。虐待には生活のなかにあるものが使われることが多い。水風呂や熱闘。真冬にベランダに出すなどもある。
心理的虐待では、「お前なんか生まなければよかった」「お前のせいで」と責める。子どもは心が死んでしまう。
ネグレクトでは、子どもが段ボールのなかで死亡していた例もある。しかしなかには、ミルクの濃さがわからないなど、知識のなさからネグレクトに至ることもある。虐待するのは、周囲の手助けがなかった、育児に苦しんでいる親が多い。

1990(平成2)年から虐待の統計をとりはじめた。それまで国はほとんど取り組みをしてこなかった。虐待が表面化したことと、通告が増えたことの影響もあると思うが、実数が増えている。
椎名さんが、児童虐待問題に取り組むようになったきっかけは、1992(平成4)年、レディースコミック「YOU」に発表された「凍りついた瞳」。反響がすごく、100通から300通もの手紙が、編集部に段ボール箱で届いた。
手紙を寄せてくれたひとたちは主に、
・大人になった被虐待児
・相談するところのなかった育児不安の母親
・マンガを読んで、自分がしていることが虐待であると気づいたひと
・はじめて知ったひと

男性は刑務所で見つかり、女性は病院で見つかる」という言葉がある。男性は怒りが外に向かいやすい。
441通の手紙をくれたひとにアンケートをとった。結果、返事のあった269通中107通の有効回答が得られた。
分類をすると、身体的虐待、心理的虐待、ネグレクトをA郡とした場合、73例68.2%が該当した。B郡をA郡の虐待プラス性的虐待のあるものとした場合、34例31.8%が該当した。
性的虐待は公の調査では3%ないしは1桁にすぎない。しかし、児童精神科医は10〜20%が性的虐待にあっているとする。法医学者は性器に暴行を受けている乳児の存在を指摘する。
また、自殺を思い詰めたことがあるのは、A郡で54人74%、B郡で25人73.5%あった。
彼らは居場所がなかったから死を思い詰めたという。大人になっても苦しんでいる。

虐待の連鎖はアメリカでは3割といわれる。7割近いという説もある。しかし、葛藤しながら、自分の体験をバネに一生懸命に子育てをしているひとはたくさんいることを忘れないでほしい。
また、配偶者への暴力、ドメスティックバイオレンス(DV)の被害者26人中、子どもへの暴力があったのは23人で、関連が深い。

虐待の心の傷は深い。生まれて数カ月でサッカーボールにされるような虐待を受けた幼児が笑うようになったのは10歳だったという報告がある。虐待の3倍の時間がかかるといわれるが、68歳になって、7、8歳の頃の誰にも癒されない自分、インナーチャイルドを抱えるひともいる。
また、愛情が得られないと低体重や低身長になることもあり、愛情を得られるようになって、急に成長することもある。
虐待によるPTSDで対人関係の障がいが起きることがある。凍りついた凝視と呼ばれるものも典型的な症状だ。
子どものときに誰も守ってくれる人がいなかった結果、うつに陥りやすかったり、自分のなかを壊して生きるしかなくなる。誰か守ってくれるひとが一人でもいたら、人間を信じられる。

ある被虐待児は、「私は真っ黒だから、真っ白な人たちと一緒にいたい」と言った。自尊感情をもてなくなる。
性的な虐待の場合、子どもの頃からかなりの口どめがされている。口にするととんでもないことになる、お母さんが悲しむなど、口止めプログラムが施されている場合がある。
性的虐待を受けた子どもは、父親を憎んでいる一方で、「好き」という相反する感情を持っていることもある。
子どもは常に親に愛されたいと思っている。介入には、適切な時期を判断することが大切だ。

かつて、アメリカでも、性的虐待は路上生活をするような貧しい人びとの間で起きやすいと考えられていた時代があった。しかし、金や学歴、社会的地位があっても同じように虐待は起きるということが知られるようになった。「あんなりっぱなひとがそんなことをするはずがない」。虐待を訴えても信じてもらえず、告発した子どもが責められることもある。アルコール依存によるものや妻との離婚後に娘が妻の役割をすることもある。
では、性的虐待はいつ頃から始まるか。添い寝の状況からはじまっていることもあり、もの心ついた頃には、すでに虐待を受けいることがある。学校にあがるようになって友人らの話から、他の家庭を知ってはじめて、自分が異常な状態にあることを知ってショックを受けることもあるという。


虐待された子どもへの支援に必要なこと
●自己イメージの回復
 低い自己イメージから、自分をよい存在として、認識できるようにもっていく

●対人関係をつくれる力を育てる
 どうせ大人は裏切る、自分はひとりきりという思いから、離脱できるよう支援する。
 まずは信頼できる大人をつくること。
 「愛着障害」を乗り越えるためには、愛着を結ぶ関係をつくる。
 虐待を受けた子どもは「ためし行動」「破壊行動」に出る。 

●混乱している怒り、悲しみを受け止め、整理する
 悲しさと怒りを混沌として持ち合わせている。怒りのコントロールができない。
 大人が交通整理をする。 

ある虐待された子どもは「食べたことのない料理の味はわからない」と言った。あんたたちに私の何がわかるか、誰も私をわかってくれない、という言葉の裏には、「わかってほしい」「私は苦しくて、辛くて、自信がない」という叫びがある。

育児に悩む養育者に身を寄せる支援、母親の気持ちを受けとめるキーパーソンが必要だが、母親たちにとって児童相談所の敷居は高い。また、保健婦さんたちは子育てを批判するので、話したくないという。経験や知識をひけらかさない、いばらない人を相談者として望む。
たくさんの機関がかかわりながら、キーパーソンがいないケースが多い。

虐待は、複数の問題がからみあっておこる。親の被虐待体験、嫁姑問題、経済、夫婦仲、子どもの病気が遅れ、双子や三つ子など親の過負担、社会からの孤立、ストレスなど。
マイナスのカードが何枚も重なっていることが多く、そのストレスが弱いところに出る。

虐待を受けた子どもたちを保護し、切れ目なく支えるためには、連携が必要だ。
・それぞれの役割を把握する
・個人の周辺の連携
・地域を面とした連携

また、連携機関の間で、子ども虐待に抱くイメージの統一が大切となる。
・子ども虐待のイメージは?
・守るべきは幼い子どもだけか?
・援助の対象は子どもと母親だけか?
・危機意識は共有されているか?

職種や立場による意識の違いを研修、啓発によって埋めることが連携の基本。
ネットワーク間の共通アセスメントシートがあると役にたつ。

日本の現在の児童虐待対策の問題点として
・中・長期支援の不在

・事例検討会が開かれていない
 児童虐待死亡事例について、どこにシステムエラーがあっのか分析・検討され、現場にフィードバックされていない。

・虐待死の定義がきまっていない
 そのために、虐待で亡くなった子どもたちの実数でさえ明らかではなく、単なる事故死扱いされている例も多い。

・1人当たり300ケースも抱える児童相談所の忙しさと、子どもの保護を最優先しない在り方。

提案として、
ハイリスクシートを作成して、危険因子を知る
 例えば、産婦の10〜15%が産後うつ病を発症しているという報告がある。出産して1、2週間から1、2カ月になりやすい。また、拒食症やライフイベント、夫からの支援不足、精神科既往歴になどによってもうつ病になりやすい。落ち込んだり、悪いことばかり考える、やる気がなくなる、食欲減退、集中力の低下、自殺願望。それらからネグレクトになったり、子どもも一緒に死のうと考えたりする。

小中高校生への情報伝達と教育

政府による児童虐待死亡事例等の検証に関する委員会の設置

などを椎名さんはあげた。


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児童虐待も、いじめと同じく、「心と体への暴力」なのだと思う。
ジェントルハートプロジェクトのシンポジウムで、ドメスティックバイオレンスの関係団体が、内容を勘違いをして声をかけてきたことがあった。しかし、いじめも、児童虐待も、男女間暴力も、根は同じなのだと思う。
暴力を振るう側のもつ複雑な事情。マイナスのカードの積み重なり。ほとんど手をつけられることのない加害側への理解とケア、支援。被害を受けた人間の心の傷の深さ。人間関係不全。自己評価の低さ。
中・長期にわたった、連携のとれた支援の必要性と未だそのシステムが構築されていないこと。行政の危機意識の薄さ。などなど、共通する課題は多い。

また、暴力のなかでも性的虐待は、常に隠されてきた。いじめにおいて、児童虐待において、男女間暴力において、あってはならないことはなかったことにされる。私たちが想像しうる何十倍、何百倍もの悲劇がそこにはあるだろう。私が、性的虐待の被害にあうのは、思春期の女性、10代の子どもたちだけではないと知ったのは、沖縄の米軍被害の一覧表からだった。1歳にもならない赤ん坊が、大人に性の道具として扱われるという現実。赤ん坊の、あるいは胸の膨らみさえない幼児のどこに性的なものを感じ取れるのか、人間のもつ負の面のおぞましさを見せつけられた思いだった。それは恐らく、兵士という特殊な環境におかれた人間の病理だけではないのだろう。事件を紹介した高里鈴代さんは、この子どもたちは、命を失ったからこそ、ここにこうして挙げられているのですと言った。生きていれば完全に伏せられたであろう事件。国内でも同様のことがあったとしても、単なる事故死扱いをされてきたのではないか。今あらためて、紙面にも載らない多くの子どもたちの悲鳴が聞こえる気がする。

そして、私がやってきたことはまさしく、椎名さんの言う、「死亡事例等の検証」であった。
最初は、政府あるいは教育委員会が、死亡あるいは深い心身への傷を残すようないじめの重大事件に関しては、情報を収集し、どこに問題があったのかを分析、検討され、現場に教訓としてフィードバックされているものだと信じていた。あるいは、どこかの教育関係の大学で、きちんと検証されているのではないかと思っていた。
しかし、現実には、学校段階で、プライバシーを盾に事件にふたをされ、情報がほとんど表に出てこない。事件をいろんな角度から見て、それぞれのどこに問題があったのか、どうすれば防げたのかを真剣に考えてはこなかった。子どもの死を教訓として生かしてこなかったことのツケが新たな事件を呼び、子どもたちを死に追いつめてきた。いじめや少年犯罪のまん延する社会をつくってきたと思った。
本来は、加害者の情報がいちばん得られやすい機関が、検証すべきだと思うのだが、それがないと知った時点で、微力ながら、新聞や雑誌の記事などをつなぎ合わせて、個人的に事例の収集と検討を行ってきた。そして、それをこの「日本の子どもたち」というサイトや、「子どもたちは二度殺される」「あなたは子どもの心と命が守れますか!」という書籍の形で、表してきた。

児童虐待に関しては、「子どもの虐待防止ネットワーク・あいち」が、「見えなかった死 子どもの虐待データブック」(1998年10月30日 キャプナ出版 発行)を出している。

また、会場で椎名篤子さんの「新・凍りついた瞳」(2003年9月30日 集英社)を購入。現在、まだ読んでいる途中だが、ひとつひとつの事例があまりに痛い。この飽食といわれる日本の国で、餓死する子ども。飢えから、食べ物を盗まざるをえない子ども。目の前の食べ物を全部食べてしまったら、明日、食べるものがなくなるのではないかと心配する幼い少女。生まれてからずっと暴力を受け続けてきた子ども。
これらは、過去の話ではなく、今現在も続いている。

そして、椎名さんは、その著書のなかで、「現在では、児童養護施設内での暴力はなくなったと言われている。もとより一部で行われていたことであり、多くの心ある施設では、子どもを大事に育ててきた。」と書いている。
しかし、家庭内での児童虐待が表に出てくるのに時間がかかったように、施設内での虐待もその組織力や被害者の置かれた弱い立場ゆえに表に出にくいだけで、けっして一部の施設でのみ行われていた過去のことだとは思えない。

私の知るかぎり多くの施設で、それを虐待という自覚もないままに、「しつけ」の名のもと、職員による虐待が行われてきた。そして、一度事件で名前のあがった施設で再び虐待が繰り返されているように、その根はとても深く、今もなお改善されているとは言い難いのではないかと感じている。

家庭で虐待されて保護された子どもたちが、施設のなかで再び虐待にさらされる。大人を信じるな、人間を信じるなと生まれてからずっと教育されているようなものだ。生まれてから一度も居場所を持たない彼らの人生が、どれほど困難なものになるか、想像に難くない。
子どもを家庭から引き離して、施設に入れるだけでは問題は解決しない。一人ひとりの子どもに寄り添った、国をあげての本気の支援が今こそ必要だと思う。




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