わたしの雑記帳

2004/4/14 イラクで拘束された日本人たちに向けられる誹謗・中傷。

イラクで拘束(第1報は4/8)された郡山総一郎さん(32)、今井紀明さん(18)、高遠菜穂子さん(34)の安否が依然として不明で、ご家族はどれほど心配されていることでしょう。
4月10日頃から、さまざまなメーリングでも署名や政府に対する抗議行動、集会への呼びかけなど支援の動きが一気に盛り上がりました。

一方で、家族や被害者の運営するサイトあてに、警告が出ていたのだから自業自得だ、助ける必要はないなどと、誹謗・中傷が寄せられているといいます。
同じことが、犯罪被害者の遺族に対しても行われています。ある被害者遺族からは、マスコミなどで取り上げられて注目を浴びた途端、毎日100件もの誹謗・中傷のメールや嫌がらせの書き込みがあると聞きました。

どうして、このようなことをするのでしょう。注目されたい、存在を認められたいと思う人々のねたみでしょうか。誰かに鬱憤をぶつけたいという思いが、政治家や評論家たちの不用意な発言に同調させるのでしょうか。常に被害者を問題にする日本人の伝統でしょうか。多くは何の根拠も思想もないように思えます。
しかし、その一つひとつが、ただでさえ傷ついている人たちの心をどれだけ深く傷つけることか。

今回のイラクで人質になった人たちのことを言えば、確かに避難勧告、あるいは警告が出ていたなかでの活動で、本人たちもそれなりの覚悟があって、現地入りしたことだと思います。でも、なぜ危険な地域にわざわざ出向いたのか。命の危険に晒されている人びとへの強い思いが、彼らを行動に駆り立てたのではないでしょうか。危険だからこそ、他のひとがやってくれないからこそ、彼らは決心して自ら出向いたのではないでしょうか。

それが国の派遣した組織のなかで行動した場合には、政府から英雄視され感謝される。政府の思惑に流されず個人の意志で善意をもって行動した場合には、政府から迷惑視されます。日の丸がはためかない活動に対して、批判的でさえあります。子どもたちにはボランティアを教育のなかで普及させようとしている一方で、やはり自分たちの枠組のなかでの奉仕活動は求めても、個人的な正義や思いはむしろじゃまでしかないのでしょう。
そこに、教育現場に日の丸、君が代を押し付ける政府の考えと同じものを感じます。「愛国心」はそれぞれの気持ちのなかから自然にわき上がる国を思う心ではなく、政府の言うことに盲目的に従うことが、政府の言う「愛国心」なのです。平和を愛する心も、人類愛も、政府の思う形でなければ、むしろ敵視さえされてしまうのです。

この国では、個人の思いを大切にすることが、許されないのでしょうか。遺族が亡くした家族のことを大切に思う心を周囲からはワガママと批判されます。拘束された人びとの安否を家族が気遣うこと、何とかして助けたいと思うこと、そのために自分たちのできる、あるいは思いつくあらゆることをする、それをワガママと言うのでしょうか。
一人ひとりの命、思いを大切にしないで、いったい何を大切にしようというのでしょう。その結果、誰が幸せになれるのでしょう。

3人の人質は善意の民間人です。同じようにイラクでは非戦闘員である人びとが子どもたちを含めて、犠牲になっています。3人の日本人たちを気遣う心が、イラクの人たちにも等しく向けられたなら、今回のような事態にはならなかったでしょう。同じ様に3人を気遣う親族の気持ちに寄り添えるような国民であったなら、日本はもっと住み良い国になったでしょう。いじめも犯罪も、今よりずっと少なかったでしょう。

傷ついている人間をさらにいじめ倒す。この病んだ社会が子どもたちに影響して、いじめがまん延し、少年犯罪が多発するという事態を引き起こしているのだと思います。
数少ない、命がけで自らの正義を全うしようとする人びとを後押しすることをせず、批判だけする。そんななかで、「やさしさ」は生まれるでしょうか。他人を思いやる心が育つでしょうか。自分が幸せに生きたいと願うなら、隣のひともまた幸せである必要があります。隣人の幸せを願うことが、自らの幸せにもつながるのだと思います。





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