テレビで大阪の大阪教育大付属池田小学校の新校舎が完成したとあった。
2001年6月8日の宅間守による児童殺傷事件(8人の児童が殺害され、児童と教師15人が重軽傷)を受けて、入り口は一つ、防犯カメラが9台設置され、職員室はガラス張りにしたとか。
また、古い校舎は事件を風化させないために保存されるという。
新校舎は、不審者の侵入を防ぐため、安全性に配慮して設計されたというが、映像を見て少し気になったことがある。子どもの安全は侵入者にばかり脅かされるのではないという事実だ。
ガラス張りの近代校舎は、地震や火事にはきちんと配慮されているのだろうか。入り口が一つということは脱出口や救出口も一つということだ。火事の発生場所、建物の崩壊状況に応じた非難経路は確保されているのだろうか。また、一旦、不審者が何らかのカモフラージュによって侵入を果たした場合、あるいは内部の人間だった場合、籠城が容易ということはないだろうか。
事件を風化させないことはとても大切だと思う。一方で、古い校舎はきちんと安全に管理されていくだろうか。そこに足を踏み入れた子どもが事件や事故にあうようでは保存の意味がない。(子どもというものは大人の予想を超えた行動をとることがある。禁止されていることもやる。それがむしろ子どもの特性だと考えて、大人たちは安全に配慮する義務がある)
各地の学校でも侵入者対策が行われている。しかし、監視カメラはプライバシーの侵害につながる。監視社会になりかねない。学校の壁が高くなれば、なかで事件や事故があっても外部からはわかりにくい。電子錠は災害時に閉じ込められることにはなりはしないか。
さらに言えば、近代的な建物が必ずしも、子どもたちの心にやさしいとは限らない。木造校舎にしたら子どもたちの荒れが収まったという話もきく。防犯カメラに囲まれ、コンクリートとガラスの空間のなかで、小学生の子どもたちの心はどのように成長するだろう。
悪意を持った人間の侵入は確かに怖い。誰もが阻止したいと思う。しかし、ハード面だけでカバーしきれるものではないのではないか。目に見えるものへの恐怖に過剰反応することで、目に見えない怖いものへの配慮がおろそかになりはしないかと心配する。学校が、まるで近代的な刑務所のような場所になりはしないか。不審者は学校のなかばかりではない。通学路にも、子どもたちの遊び場にも、自宅の周囲にも出没する。かといって、子どもたちを自宅と学校に閉じ込めておくわけにはいかない。
では、どうすればいいのか。私に明確な答えがあるわけではないが、CAPのように、子どもたち自身に自分の身を守る術を身につけさせること。怖いひとにあったら、とにかく大きな声で叫んで逃げるんだという教育。とっさには声が出ないから、日頃から叫ぶ練習をするなど。また、子どもの身の回りの危険に対する大人と子どもへの教育。周囲の大人たちが子どもたちに関心を持ち、困ったことがあれば声をかけあえるような雰囲気をつくりだせるような仕組みづくりなど。教師や親を含む大人への安全教育と人権教育が必要なのではないか。
侵入者は怖い。しかし、怖いのは侵入者だけではないということを忘れないでいたい。
中島みゆきの「吹雪」と題名の歌詞に「恐ろしいものの形をノートに描いてみなさい。そこに描けないものが君たちを殺すだろう」とある。私はこのサイトで、怖いものの形ばかりを描いている気がするが、怖いものを想像することで、私たちは多少なりとも事前に備えをもつことができる。今、学校に、家庭に、そして子どもたちにも、リスクマネジメントが求められる時代になった。
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