2003年11月29日(土)、開港記念会館で行われた、横浜弁護士会子どもの権利委員会主催の「ミニシンポジウム 教育って、誰のため?何のため? 子どもの視点から、教育法「改正」問題を考える」(講師:西原博史氏 早稲田大学 憲法・教育法学教授)に参加した。(注:以下は講演の内容ではなく、講演を聞いて私自身が感じたこと、考えたことなので、お間違えなく!)
そのなかでの話。教育基本法改定のなかに、「愛国心」を盛り込むことの是非について。なるほど、「愛国心」を盛り込むと言われても、国を愛する心?ちょっと、うさん臭いけれどまあこの程度ならいいかと思っていた。
しかし、それが教育基本法に盛り込まれることで、子どもたちの「良心の自由」「思想・信条の自由」が奪われることになるなどとは思いもしなかった。
学校に導入された日の丸、君が代。最初は強制しないと言いながら、結局、国家公務員である教師たちには強制されている。信条的には反対している教師が、命令に従わざるを得ない。その姿を見て、子どもたちはどう思うだろうか。それでも、自分の思いを貫き通すことが生徒にできるだろうか。目の前で、大のおとなである教師が権力によって無理やり従わされている。従わないことに無言の圧力、恐怖さえ感じるのではないか。
まして、生徒に「従わない自由がある」ということは教えられていない。この状態で「生徒に強制はしていない」と言えるだろうか。
かつては、あれほど論争を呼んでいた「日の丸」「君が代」も法制化されてしまえば、なし崩し的に当たり前の光景になってきた。反対するひとが減る一方で、強制力は確実に強まっている。
卒業式、入学式で、教育委員会の人間が教師の前を往復して、その行動をチェックするところがあるという。従わなければ教習所送り、処分も受ける。時には体罰やワイセツ行為以上の厳しい扱いを受けている(文科省や教育委員会が何に重きを置いているかがよくわかる)。
教員採用の面接試験でも、「日の丸」「君が代」への考えを聞かれて採否に大きく影響すると言う。まさしく、教員にとっての「踏み絵」になっている。
そして、教育基本法に「愛国心」が盛り込まれれば、それぞれ個人が思う「国を愛する心」ではなく、国の求める「愛国心」を形に表すことが、法律によって強制される。それは「良心の自由」「思想・信条の自由」のうえに位置することになるという。
もちろん、日本の学校には在日朝鮮をはじめとした外国籍の子どもたちもたくさんいる。しかし、「日本」に対する、あるいは「日の丸の旗」に対する「愛国心」を強制される。「君が代」を歌い、「日の丸」に起立し頭を下げることが強制される。やがて国の定める「愛国心」の形が、軍隊に入り戦争に赴くことに変わるかもしれない。
最初は旗や歌など象徴的なもの、しかし実害のないものからはじまって、起立すること、礼をすること、歌うことなどの小さな行動を規制されることから、たとえば敬礼すること、軍事教練に参加すること、兵役に従事することなど、徐々にハードルを高くしていく(大阪城の堀を埋めさせた家康のようだ)。そんな未来が見える気がする。最初に「心の自由」を奪っておいて、最終的に奪われるものは「命」だ。
イラクへの自衛隊派遣。亡くなった外交官の英雄化。言論を封じる動き。
あれほど、もう二度と戦争はしないと誓ったのに、戦争に行った世代がまだ生きているこの世の中で、性懲りもなくまた同じことを繰り返そうとしている。子どもたちに「人を殺せ」と教育しようとしている。顔の見えない「国家」のために命を投げ出すような、自分の頭で考えることをせず、盲目的に従う人間をつくろうとしている。大人は扱いづらいから、子どものうちから洗脳しようとしている。
軍隊が人びとが幸せに暮らせる国をつくれるとは思えない。愛が愛を生む。しかし、愛を強制するものは自らは愛をもたない。そして、暴力が生むのは暴力だけだ。
戦争をして得をする人びとがいる。軍事産業を司る企業。発言権が強まる政治家。その一部の人たちのために、わが子の命が犠牲になってもいいのだろうか?子どもを生むこと・新しい生命の誕生が、兵士を生むこと・別の命を殺すことになってもいいのだろうか?私は戦争を知らない。でも、体験したいとは思わない。子どもに体験させたいとも思わない。
いつの時代も、為政者はマイナス部分は覆い隠して、民衆を嘲りながら自分たちの意のままにしようとする。
最初から、「さあ、戦争をしましょう。自分たちの利益のために他国を攻めましょう。子どもたちを兵士にしましょう。そのための教育を小さいうちから行いましょう。命令されるままに人殺しも平気な人間に育てましょう。国のために文句も言わず喜んで死ねる人材を育てましょう」とは言わない。あらゆる手練手管をつかってくる。どんな詐欺師よりも巧妙に。自分たちの利益のためなら、ひとの命などなんとも思わない。血も涙もない。それでも、規模が国家ともなれば、犯罪とは呼ばれない。
それに対抗するには騙されないこと。見抜く目を養うこと。流されないこと。自分の頭と心で考えること。納得がいかないことには「No!」と言っていくこと。
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