わたしの雑記帳

2003/10/8 岡崎哲(さとし)くんの裁判(水戸地裁)。5年目の命日に両親の証人尋問。


岡崎哲くんの裁判の警察と検察を訴えている裁判が水戸地裁で行われた。今日、10月8日は偶然、岡崎哲くんの命日だった。正直いって、命日の辛さを第三者である私は実感できていない。その日が近づくだけで心が重くなり、外出もできなくなる。眠れなくなる。何も手につかなくなる。後を追いたくなる。なんで救えなかったのかと自責の念にかられると、何人かの遺族から感情の断片だけを聞く。

予定では2時30分開廷。投石で常磐線が遅れたとのことで、弁護士の到着を待って、2時50分から始められた。哲くんの父・后生(きみお)さんと、母・和江さんの証人尋問。宣誓は二人一緒に行った。

尋問の冒頭で、原告側の大石弁護士が、「10月8日、5年前の今日、事件があって哲くんは亡くなりました。今日、ご両親の尋問が行われるのも何かの因縁のように思える」と話した。
まずは后生さんの尋問から。用意していたメモは、法廷では見てはいけないことになっいますからと預かられてしまった。

Q:警察・検察の捜査について、もっとも憤りを感じていることは何ですか?
A:「4回も死因が変わっていることです。警察・検察の裏付け捜査がきちんとなされていれば、こんなことにはならなかったのではと思います。この裁判の警察官の尋問のなかで、警察は基本的に加害者の供述で事実を組立てきたことが判明しています。
当初は、時間がたてば加害者が正直に本当のことを言ってくれるだろうと思っていました。しかし、当初からかなりの変遷を繰り返しています。腹部は絶対に殴っていない、蹴っていないと、途中からなりました。
東京で、腹部への強い外力が死因になったと事実認定されました。H青年の供述と齟齬があります。重要な死因と結びつく行為とHくんの証言は合致していません。

Q:どうしてほしいと思っていますか?
A:東京の裁判で死因は覆りましたが、息子がどのような暴行を受けて、どのように亡くなったかは一切、わかりません。加害者本人から話を聞きたいと思います。

Q:H青年の証言が信用できるかできないか。他に信用できない点はありますか?
A:死因にかかわる暴力を今だにやっていないと言っているので、その他の供述も信用できません。
遺体の顔の写真と供述も合致していません。互いに素手で殴り合ったとHくんは言っていますが、顔の傷、腹部への傷、証言内容と全く違います。哲の手足には防御したり、殴り合った傷は一切ありませんでした。信用できません。

Q:土浦(学校を訴えた)、東京(加害者と保護者を訴えた)、水戸(警察・検察を訴えた)と3つの裁判をしていますが、加害者のH青年に対する疑問をただす機会はなかったのですか?
A:くり返し、お願いしてきましたが、土浦では一人目の裁判官はHくんを呼ぶと言い、二人目の裁判官は、東京で呼べるはずだから土浦では呼ばないと言いました。未成年だったことも、少年事件ということで理由にあると思います。東京の裁判では、死因が争点となりました。医学の鑑定で腹部への外力は間違いないということになりましたが、証人尋問は行われませんでした。加害者を相手にしている裁判だから、当然、呼べるものと私共は思ってましたが、民事裁判だから事実を争うわけではない、嘘をつくだけだから呼んでも仕方がない、事実認定は法医学者の証言だけでもできると言われました。
水戸の裁判では、Hくんの供述が信用できるかどうか、それを信用した捜査が不当と言えるかどうかが、争点になっています。Hくんは青年に達しています。証人として呼びたいと強く思っています。

Q:警察の捜査についてはいつの時点で疑問に思いましたか?
A:早い段階から思いました。亡くなった翌日、筑波大学で司法解剖が行われました。説明しますからと15分くらい待たされて、今日は説明できないと言われ、遺体だけをひきとれと言われました。その時からおかしいなと不信感を抱きました。

Q:そこで、独自に調査された内容と、警察が調べた内容に違いはありましたか?
A:現場で耳で聴いたひとの調書が一切ありませんでした。現場の奥に複数の生徒が入っていくところを見たこと、「あっち行った」「こっち行った」と犬でも逃がしたのかと思うような声がしたこと。Iさんには日にちをあけて4〜5回確認しましたが、毎回、言っていることは同じでした。
他にも子どもたちや近所の方たちなど約60名に話をききました。少年審判が始まって、終わるまで、新しい事実がてでくるたびに、その都度、裁判所に送りました。

警察は周りにいた子どもたちは全員調べたと言っていましたが、。哲と仲がよかった子どもだけは警察は調べていませんでした。一緒にいた子どもたちは全て3年3組で、3年生のクラス編成のときに問題のある子どもを集めたと教師が証言しています。3年3組の女性も含めたかたちで、事件はつくられたと思っています。周囲にいた子どもたちは加害者の肩をもつ立場にありました。

パンツについた血と心電図についても警察の対する不信をもっいます。東京の裁判で上野正彦元鑑定医は、間違いなく現場で意識がなくなったときに血尿としてついたものだと証言しましたが、警察は病院で治療行為中についたと言っています。立ち会った看護婦さんは証人尋問で、実際に血が流れているところを見たわけではない、憶測だったと言っていますが、警察は一貫して治療行為の時のものだと言っています。心電図についても、警察は全然、調べていませんでした。なのに、県議会では全部調べたと答弁しています。

Q:警察はなぜ、そのような対応をしたと思いますか?
A:加害者のお父さんが警察庁、お兄さんが茨城県警ということで、身内をかばったと思わざるを得ません。
最初、警察がしっかり捜査してくれるものと思っていました。そして、警察が身内かばいをやっても、検察が必ずチェックをしてくれるだろうと思っていました。検察に期待していました。すべて、裏切られました。
事件の翌日、被害者が挑発したと新聞報道されました。最もショックだったのは少年審判です。被害者は自分が挑発して、打ち所が悪くて死んだ。従来からもっていた心臓病で亡くなったと認定されたことです。哲が今まで生きてきた名誉も、人権も全てなくされた思いです。原因はすべて警察の調査にあったと思っています。

Q:事情聴取のときのことについて聞かせてください。
A:私共への事情聴取は何もありませんでした。検察に調書をとってくださいとお願いして、3人目でようやくとってもらいました。事情聴取に先だって、本来は捜査状況を説明してはいけないのだが、学校で一緒にいた子どもたちが疑われて困っている、親から岡崎さんに説明してほしいと言われたので説明するとして、現場に何名かいたという話を聞かされました。
事情聴取で、「一対一の素手でけんかして、お宅の子どもは死んだんだ。加害者は逮捕された。わかるな!」と言われて、「わからない」と言うと「何でわからないんだ!」と5回も6回も強要するように言われました。根拠の説明は加害者が言っているということだけで、一切、説明はありませんでした。ほかの裏付けもありませんでした。

加害者に対する思いを聞かれましたが、状況がわからないので、警察、学校に対する調査への憤りを調書に書いてほしいとお願いしましたが、それは関係ないとして書いてくれませんでした。
そのため、署名捺印をしなかったものが、証拠として扱われました。私共の悪性を立証するメモも残されていました。

Q:警察への不信感を払拭するにはどうすればいいですか?
A:加害者本人を法廷に呼んで、本当のことが聞きたいと思います。警察も間違ったことをしたら、素直に非を認めて訂正をしてほしいと思います。

Q:H青年を法廷に呼んでも嘘をつくかもしれません。不信不満が強まるのではないですか?
A:本人の話を聞いてみなければわかりません。少なくともそういう機会が全く与えられないことは納得がいきません。

Q:事件で辛い思いをしたと思いますが、地域ではどんな立場ですか?
A:サッカーのスポーツ少年団のコーチを10年近くやってきましたが、一切やめました。周りからいろんな噂が入ってきたり、あいさつもしてもらえなかったり、地域から完全に外されてしまいました。学校、警察を訴えていることで地域からは「なんだ、あの家族は」と言われます。具体的な捜査についても聴く耳をもてない、話をしにいっても聞いてくれません。

反対尋問では、
Q:現在でも一対一のけんかではないと信じているのですか?凶器を使ったとも?
A:疑いを充分、持っています。

Q:新聞報道が事実とは違うということだったが、新聞社には確かめたんですか?
A:各紙に聞きました。学校はガードがきつくて話がきけなかったということでした。

Q:新聞社に聞きながら、なぜ竜ヶ崎署の広報活動が正確な情報だと思わないのなら、抗議行動をしなかったのですか?
A:14日の事情聴取のときに聞けると思っていました。いつもあなたたちは後になって、ああすればよかったというが、誰が教えてくれるのですか!


和江さんの証人尋問は登坂弁護士から。事実関係よりむしろ、感情に重きをおいての質問だった。
和江さんは、時計を見ながら、「この時間に哲はもう、加害者から暴行を受けて死という、彼の人生では想像もしていない、信じられない事実に遭遇していました。5年たっても死因が全くわかりません。どのように死んでいったのかさえわかりません。私たちは悲しむことさえ奪われています」と話した。

Q:事件当日の教師たちの説明について
A:牛久一中の教師たちは、何を聞いても一対一の素手でのなぐりあいのけんかとしか説明してくれませんでした。しかし、哲の顔は殴られて大だこのようなものではなく、抉られたような傷痕でした。これが素手でのけんかですか、何があったのですか、の問いにも同じ答えしか帰ってきませんでした。

Q:加害者の両親は事件直後に事情聴取されているとのことですが?
A:加害者の両親は当日、6時58分に死亡検案書が書かれる前に終了しています。死亡後、再度行われませんでした。加害者の両親には話を聞いているのに、被害者の母親の証言は重要ではなかったのです。調書もとってもらえませんでした。

Q:事件報道について
A:加害者の減刑嘆願書が回っていて、誹謗中傷がひどいと聞きました。内容を問うても、口が裂けても言えないほどひどいことが言われているとのことでした。5000名集まりました。
新聞報道の影響が大きいと思います。事実は少年審判でも出てきません。地元のひとは新聞で事件の大まかなことを知るのです。新聞報道は警察の発表に基づいていると思っています。

Q:今、一番訴えたいことは?
A:岡崎哲の名誉を回復したい、そして元気な姿で返してほしい、殺されていい命など絶対ないのに、殺されていい命として扱われたりした。そのことに耐えられません。
サッカー少年で、元気に活き活きと生きていた事実はなくて、東京高裁でも、ストレッチャーに乗せられた裸の写真が何度も行ったり来たりしたのを傍聴席から見ました。哲はどんなに恥ずかしいだろうと身を切られる思いでした。
捜査のあり方については、警察の調べは被害者の立場にたった捜査をしてほしかった、正しい事実認定をしてほしいと思います。

Q:哲くんが挑発しての一対一のけんかについての疑念の根拠は?
A:
・(前述の)Iさんの証言
・事件後、同級生のなかにも中学生が素手で相手を殴り殺せるか疑問を持ち、それを学校で口にしたら教師から怒鳴られておしまいだったこと
・一対一なら、現場は犬の散歩で地の利を知っている、サッカー部のキャプテンで運動神経のある哲は逃げられたはず
・事件前も加害少年と仲がいい別の少年がけんかを挑発しにきた事件があって、話し合いで納めた
・その時からずっと「暴力沙汰になりそうなら逃げなさい」と毎日のように言っていたこと
・亡くなった直後も教師たちから「岡崎は誰に聞いても暴力を振るう子ではない。自分から手を出す子ではない。こらえてください」と言われたこと
・同級生たちも、「岡崎は殴られても殴り返さなかった」と証言していること
・哲くんの遺体のけがが多くどろどろの状態に比べて、Hくんの当日の写真は洋服も顔も手も足もきれいなままだったこと
・現場は当時、不法投棄が多く、凶器となるようなアルミサッシやガラス、鉄板、ブロックなどが山積みになっていたことなど


尋問のあと、裁判長が言った。H青年の供述調書が変遷しているということ、腹部への外力という死因と合致していないことが問題になっているが、いつの段階でどう変化しているのか見てみたい。また、加害者の親の調書が10月8日の時点でできているということだが見てみたい。それによって、加害者の証言の可能性を合議したいと。
次回、結審かとも思っていたが、わずかながらに、加害少年の証人尋問の可能性が残された。

今回の尋問は、弁護士の先生からの説明にもあったが、
1.遺族がどれだけ辛い思いをしたかを訴える
2.H青年への尋問請求
に焦点があてられたものだった。

水戸での裁判が一向に進まないなか、東京地裁、土浦と裁判が終わって、東京地裁で「腹部への外力が死因」と事実認定されたことは強い追い風となった。一方で、東京か土浦で果たせると思っていた加害少年への尋問が、東京高裁でもついに実現できなかった。
この水戸での裁判ではH少年の調書なりを証拠提出していなかったが、急遽、方針を変えることになった。頑張って次回までに資料準備を進めるという。

ふつうは、客観的事実に警察は加害者の供述をあわせようとする。ところが、この事件では逆だった。加害者の供述から事実認定が組み立てられたために、様々な証言や証拠と合致しなくなった。そのために、重要な参考人や血尿の付着したパンツが証拠提出されないなどの齟齬が生じた。このことを裁判官たちはどう判断するのだろう。

次回は、12月3日(水)10時15分から、水戸地裁301号法廷にて。
その前に、10月22日(水)1時10分から、東京高裁にて、加害少年と保護者を訴えていた裁判の控訴審判決が出る。もう、これ以上、遺族に無用の苦しみを背負わせないでほしい。





HOME 検 索 BACK わたしの雑記帳・新