2003/8/1 | 岡崎哲くんの裁判、茨城県警を訴えている国家賠償裁判(2003/7/30)の報告 | |
2003年7月30日、15時30分から水戸地裁で2人の元警察官の証人尋問が行われた。当時、広報を担当していたI氏と議会で質問に答えたS氏。2人同時に宣誓して、S氏は法廷外で待たされた。 最初は被告弁護士の質問に答えて証言。 I氏は当時、副所長で、広報を担当していた。事件の情報は口頭で、その都度の段階で報告される。その後、送致記録があがってくる。 岡崎哲くん暴行致死事件については最初から全部聞いていた。被擬少年を逮捕するかどうかは所長が結論を出すが、助言をする立場にあった。被擬少年の親が警視庁の警察官であることは事件発生の1時間くらいにはわかっていた。少し後で、兄弟も茨城県警の警察学校に入ったばかりだと知った。 この事件では被害者が重体ということで、被疑少年を逮捕するかどうかについては、@被疑者が動揺していて自殺の可能性があった、A警察官の息子ということで、一番強い逮捕をしなければ、任意にすれば、かばったと誤解されるのではないか、と所長に助言したという。(前回のO氏はまるで逆。警察官の子息ということと全く関係なく、一般の事件と同じように扱ったと証言) 新聞記者への広報はわかった段階で第一報を幹事社に流し、他の報道へと流れる。重要事件については記者が集まってくるという。この事件に関しては4回の広報活動が行われた(@事件の発生、A被害者が亡くなったこと、B被疑者を逮捕したこと、C遺体を解剖に回したこと)。 広報に当たっては特に、少年の福祉と名誉に配慮した。成人事件とは違って、必要最低限の客観的事実のみ流したという。学校名なども発表しなかった。原因はと聞かれて今のところわからないと答えたという。 被害者が被疑者を挑発したということは聞いていたが、外部には出さなかった。単なる子どものけんかだろうと思っていた。凶器への質問があったが、なかったと答えた。 各新聞報道は、自分が言った内容とは違うこと、自分が知らないことも書いてあった。質問されても答えなかった中味も書いてあった。独自に自主取材したものと思われる。 原告代理人の質問に答えて。 ・事件の第1報は3時40分頃、刑事課捜査員から受けた。その後少年事件とわかって生活安全課のO課長のほうにバトンタッチ。捜査員や現場に行ったバトカーから随時、無線等で報告を受けた。 ・被疑者の両親が、事件発生後1時間から1時間半後くらいに警察にやってきて(任意できてもらったのかどうかは聞いていない)、その日に調書をとった。 ・誰の調書をとるべきかは、捜査担当の判断。 ・4時50分頃、警察官が第一中に到着し、5時15分頃、竜ヶ崎警察に被擬少年が到着した。被擬少年は泣きじゃくりながら、極度の興奮状態だった。(しかし、泣きじゃくりながら逮捕に応じた状態で、話はきちんとできた?)何時くらいまで調べたかは聞いていない。 ここで、今まで一度も出ていないことがいくつも出てきた。 犯行のあった10月8日のうちに、被疑者と、周囲にいた少年、偶然通りかかった少年、現場にいた教師の取り調べを行ったとI氏は断言。(ただし、調書はつくっていない) 教師は事件現場で人工呼吸をしたり、興奮した少年をなだめるのに忙しく、警察が到着する前に現場にいた少年たちを全て自宅に帰したと証言し、少年たちも同様の証言をしていたのだが、その少年たちから、教師から、ちゃんとその日のうちに事情を聞いたという。(どこで、誰が、聞いたのかはわからない。調書という形でも残っていないが) そして、それらの人びとが、 @中3同士の一対一のけんかであること、 A凶器などは一切目撃されておらず、現場にも落ちておらず、全くの素手による殴り合いのけんかであること、 B哲くんが被疑者に日頃、「けんかができるか」と挑発していたことを被疑者以外にも、その日、学校で聞いていた少年がいたこと を証言したという。 前回のO氏は被疑者の証言のみを元にしたと証言したが(I氏は前回のO氏の証言内容を一切見ていないと証言。むしろ見るのが当然で、見ていないということのほうが不自然に聞こえたが)、それに対してもO氏は聞いていないかもしれないが、私は捜査担当から聞いていると断言。 結論を言えば、調書など何も証拠は残っていないし、誰がという具体的なことは自分は捜査担当ではないのでわからないが、前回、O氏も違うことを言ったかもしれないが、きちんと裏付けをとった結果、上記@〜Bの結論に達したと言う。 今までの学校を訴えた裁判のなかでの少年たちの証言も、教師たちの証言でも誰ひとりそのようなことは言っていなかったが、I氏は自分は報告を受けていると法廷で言い張った。その意図は、前回、あまりに被疑者の言い分だけを全て鵜呑みにして調書を作り上げたということが露呈してしまったので、それを挽回しようというものだろう。 また、原告弁護士は、その日の処理された時間の早さからして、調査結果を待たずしてすでに結論ができていた、被害者の氏名、住所、調べもしないうちからの一対一の素手のけんかで、被害者が日頃からけんかを挑発していたという、被害者にばかり不利な情報は、警察の広報が身内かばいの意識から意図的に流したのではないかという疑問を質問のなかに織り交ぜてぶつけたが、自分たちは情報を流さなかったのに、自分たちが持っているのと同じ情報を新聞記者が独自に調べて報道したという方向で終始した。 また、具体的な事実を発表しないと言いながら、住所に関しては、被害者の住所が書いていなけば、新聞記者は意味がわからない。亡くなってしまった被害者の住所は言っていると答弁した。 被害者の両親に対しては自分たちはできる範囲で説明し、丁重に扱ったとした。 言葉だけは実に堂々としていた(時々、詳しい内容を聞かれると言いよどんだ)I氏だったが、後ろから見ると、首筋も耳たぶも赤く染まっていた。 2人目の証人のS氏は、3月10日の議会の質問に答えるために、数日前に1、2時間のレクチャーを受けたというもの。その内容に沿って議会で答弁した。その中で、心電図もちゃんと証拠調べをしているとウソを言ったのは、流れのなかでの答えて、自分の誤認であり、反省していると話した。 何を聞いても、微妙に論点がずれる。自分はそうレクチャーを受けて聞いていたからそう答えた、何故ということについては聞いていない、など、完全に守りに入った回答ばかりだった。 「警察の捜査は適正、的確に行われた。事実決定に誤りはないと確信している」と言った。 証人尋問のあと、原告弁護士から、「O氏は前回、加害少年の供述を信用できるものとして進めたということなので、また致命傷になった下腹部への外力について加害少年が供述調書のなかで話していないということもあり、加害少年の話を聞きたいというのが、原告側の強い希望です」と裁判官に言った。 裁判長は「しばらく合議します」と左右の裁判官と3人で別室に移ったあと、ほどなく法廷に戻ってきて、加害少年の証人尋問のことには一切触れずに、「次回、原告本人2人にしたいと思います」とだけ言った。 被告弁護団の都合が9月はつかず、次回、10月8日が指定された。あまりに偶然、哲くんの命日である。 命日に両親が証言するのも、何かの因縁かとも思えたのだが、両親としては、きちんと法事をしてやりたいという思いもあるのだろう。そのことで、裁判終了後、岡崎さんがあわてて、日程をずらしてもらえないか交渉に行った。 従って、次回は10月以降であることはほぼ確実として、日程は未定。わかり次第、UPしたいと思う。 10月8日14時30分からに決定しました。
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