わたしの雑記帳

2003/3/3 桶川ストーカー事件、国家賠償訴訟の判決に思うこと。


1999年10月26日、埼玉県桶川駅前で刺殺された猪野詩織さん(当時21歳)。いわゆる「桶川ストーカー殺人事件」で両親が民事裁判で問うた埼玉県警の責任。テレビ画面で何度も流れた県警謝罪のシーン。それが結局、2003年25月26日のさいたま地裁判決では、捜査の怠慢と死亡の因果関係を否定、捜査怠慢による責任の一部だけを認めて、慰謝料など550万円の支払いを県に命じた。

まるで、学校のいじめ裁判を見ているようだと思う。
報道されるまでは口をぬぐっている。いろいろな理由をつけて、遺族がマスコミ関係者に会うことをガード。情報を操作、隠蔽。そして、事実が明らかになると、社会の目を気にして謝罪の記者会見。
直接の担当者を処分。しかし、その不誠実な対応に不信感を持った遺族が裁判に訴えると、一転して責任を否定。世論に流されて、そう言わなければ許されない雰囲気のなかで、仕方なく言ったと弁明する。
裁判のなかでは、自分たちを正当化するために、亡くなった被害者のことを「束縛を嫌い高価なプレゼントを求めるなど情動の激しい現代的女性の一人」「男性といいかげんな交際をしていた」と悪意をもって被害者を貶める。

事件後の県警が流した情報のなかで、まるで事実とは違う詩織さん像がマスコミに流され、遺族がどれだけ傷つけられたか。そのことの反省もなく、しかも、元フオーカス記者の清水潔(きよし)氏の丹念な取材などで、平凡な女子大生であった猪野詩織さんが、犯人の小松和人から最初からの計画に基づいて騙され、その正体さえ知らずに殺害されたことが明らかになっているのにもかかわらず、再び虚偽の姿を人びとに植え付けようとしている。
埼玉県警は何度、詩織さんをなぶり殺しにすれば気がすむのだろう。やさしいお父さん、明るいお母さんを地獄に突き落とすのだろう。そして司法はなぜ、そんな警察の味方をするのだろう。まるで、警察などあてにしてはいけないと言わんばかりの判決だ。

裁判では、事前に「死を予測できたかできなかったか」で、警察に過失があったかなかったかが争われる、これも学校裁判と共通している。本来は、死を予測できようが、できまいが、被害者が必死に助けを求めてきているのだから、そしてそれを守る義務と責任がその組織にはあるのだから、全力をつくすのは当然だと思う。警察にしても、学校にしても、常に最悪を想定して動く、それくらいのリスクマネジメントが、ひとの命を預かる組織にないこと自体、何より大きな過失だ。忙しいから、人手が足りないから、言い訳ならいくらでも出てくる。
できない理由を100個並べる前に、どうしてそれを実行できるたった一つの理由を見つけようとはしないのか。

この事件では、かなり、様々な事実が明らかになっている。県警がテレビカメラの前で謝罪している。社会的注目度が高いことから、警察の責任が問われることに期待していた。
その裁判で負けたことの意味。本来は、警察の情報を一般の人間が入手することは容易ではない。まして、裁判に耐えうるだけの証拠を集めるなどとは、めったにできることではない。警察の不正がはっきりとわかってはいてもだ。


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岡崎哲くんの遺族が警察を訴えている裁判が次回、ようやく元竜ヶ崎警官への証人尋問となった。
2003年3月12日 水曜日 午前10時5分から、水戸地裁にて
ひとを逮捕し、裁きの場に引きずり出してきた警察官が今度は裁かれる立場へと回る。しかし、それはけっして対等な条件のなかでは行われない。組織と国家権力という大きく厚い壁が立ちはだかる。
息子が暴力で殺されて、その死を身内かばいの意識から病死扱いにされた。正当化するために、様々な悪い噂が流された。それがどんなに辛く、悔しく、必死な思いであっても、遺族が奮う拳はしょせん、蟷螂(とうろう=かまきり)のオノでしかないのだろうか。

警察という権力をきちんと、悪いことは悪いと裁くシステムが働いてこそ、私たち一般市民は権力と銃を持つ警察官を信じることができる。司法を信じることができる。それが、何をやっても許されるのなら、私たちは高い税金を払っていても警察を信じることができない。個人で私立探偵を雇って問題解決したほうが、高い弁護士代と長い時間を費やすよりマシに思えてくる。そして、強いものに屈し、長いものには巻かれろ、身内かばいの司法の正義を信じることができなくなってしまう。法は人びとの意識のなかで、意味をなさなくなってしまう。法の元での平等はウソになる






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