わたしの雑記帳

2003/1/21 文科省の方針、「不登校」対策と教員の「評価制度」について

文科省が「不登校」児童・生徒の対策について、具体的な数値目標を掲げて対策にあたるという。
数値化自体は、実態を知るためにある程度、必要なことだと思う。しかし、数値化することでかえって見えなくなるものもある。数字だけに踊らされては本質を見失う。
右肩上がりに上がり続ける不登校の数字。大人たちはその数字に驚き、なんとか食い止めなければと考える。数字は見えやすいが、数字の裏にあるものは実体化しにくく、見えにくい。問題の焦点がずれてはいないか。
不登校は、それ自体が問題ではなく、むしろ子どもたちにとっては、自分の心と体を守るための解決策であると思う。

根本にある問題を見ようとせず、解決しようとしないで、現象面だけを問題とする。長年繰り返してきた同じ過ちを再び繰り返そうとしているようにしか、私には見えない。
ここで言う「根本にある問題」とは、日本の高度成長の弊害的産物として、ひとが企業の部品のような扱いを受け始めたことに起因すると、私は思っている。

戦後の物不足の後の高度成長期。物がないことは不幸、物がたくさんあることが幸せ、物を買うためには金がいる、たくさんの金を手にすることが人生の成功。そのためには、有名大学を出て大企業に就職すること。厳しい競争に勝ち残ること。餌付けされ、パブロフの犬のように思いこまされた人びと。
企業は働く社員に、より高い生産性を身につけさせ、高い利益を挙げるために、人びとを競争を煽りたてた。そして、より早くから企業のために役立つ人材育成をと、金にあかせて政治家を介して、教育に口を出した。

学校は企業のための部品工場と化し、子を育てる世代の多くがサラリーマン家庭にあって、家庭内にも企業の論理が持ち込まれた。将来の理想のためには、今を犠牲にすることも必要と親は子を諭す。教育産業が子どもに群がる。奪われた子どもの時間。
利益を生み出すものだけが認められる、大切にされる。幼児期さえ、その準備期間とされる。
企業にとって役立つものだけが、価値あるものと認められる社会。一方で、利益を生み出さないもの、あるいは生産性の低いものはないがしろにされる。たとえば、障がい者、高齢者。企業へと流れるベルトコンベアから規格外としてこぼれ落ちた子どもたち、大人たち。

人間としての当たり前の欲求を否定されて、本当の自分には価値がないと思いこまされる子どもたち。価値のないものは親からも、誰からも愛されないと、自己肯定感を持てない子どもたち。
激化する受験戦争のなかで休むことすら許されない。すべてが企業的価値観に染め上げられたなかで、評価の目に耐えつつ、常に優等生でなくてはならない強迫観念が子どもたちを苦しくする。
1977年頃、ついに耐えきれなくなった子どもたちが、バタバタと自ら命を断つようになった。学業問題で自殺する子どもの数が問題になったのはこの頃だ。

自滅していく子どもたちがいる一方で、自己防衛本能から、自らを殺すエネルギーを外に向けた子どもたちがいた。家庭内暴力、校内暴力、非行。1980年代初頭、子どもたちは荒れた。
そうでない子どもたちも、三無主義(無気力、無感動、無関心)、四無主義(三無主義に無責任がプラスされた)と呼ばれた。荒れるか、もしくは心をマヒさせなければ、自分の心と体を守りながら生きていくことができなかった。子どもたちが、死ぬほどの苦しみのなかでもがいていたのに、それでも大人たちは理解しようとはしなかった。その価値観を捨てようとはしなかった。

校内暴力が盛んになったとき、学校や文部省は、なぜ子どもたちが荒れるのかを真剣に考えたり、生徒たちと話し合って歩みよる努力をしないで、子どもを支配するための校則を一方的に押しつけ、従わないものには「教育的指導」と称して体罰を行い、見せしめ的に警察を導入矯正施設に送ったり、放学処分などにして、力で押さえつけた。
大人たちは子どもたちと話し合う手間と労力を惜しんだ。大人が子どもを力で支配することが、最も安易で即効性がある解決策だったから、大人たちは味をしめた。また、減少した数字だけを見て、この方法が「成功した」と世間も確信した。その流れは今現在もずっと続いている。

しかし、その結果、子どもたちは教師や親との直接的な対話をあきらめた。親や教師、自分たちを苦しめる強いものへぶつけることのできないエネルギーは、より弱いものへと向けられた。「ムカツク!」と、本当は大人社会に向けられるイライラや怒りが、子どもたち同士に向けられる。直接的な暴力で、あるいは歪んだ形の暴力・いじめで。

「いじめはいけない」と言いながらも、教師たちは自分に向かう暴力よりはマシと考える。複雑化させないために、原因を個人の問題に特化する。しかし、少人数対1人のいじめならまだしも、今のように加害者がクラス全員、あるいはクラブ全員、学年、学校全体にまで広がると、加害者側には手がつけられない。あるいは、非常に多くのエネルギーがいる。
すでに教員評価制度で、自分たちも評価される対象となり、時間と神経を使って汲々としている。自分たち自身も子どもらしい遊びの時間を奪われ、対人関係が苦手である。学生だった頃、自分たちも解決できなかったいじめの問題を、ただ大人になったからといって解決できるわけがない。まして、教師間の連帯など期待できない。クラスにいじめがあれば、ただ自分の能力が低いと評価されるだけで、協力して問題解決にあたろうという教師はいない。管理職も同じで、ただ自分に火の粉が飛ばないように、そればかりを考えている。

教師は自分のクラスの問題を見て見ぬふりをする。早く卒業してくれることだけを願う。それでも、避けて通れない時には、いじめられる側にも問題があるとして、告発者の口を塞ぐ。あるいは、いじめられる側を保健室に隔離したり、他校に転校させて終わらせる。
いじめられていた子どもがいなくなっても、いじめる側のもやもやは放置されたままだから、すぐまた別の子どもが対象にされる。子どもたちの間に、誰かをいじめたい、いじめずにはいられないほどのイライラが蓄積されている限り、問題は解決されない。
問題をそうやって先送りにしてきた結果、今度は、子どもたちに「弱いもの」と見なされた教師がいじめにあう。全部ではないにしろ、「学級崩壊」の本質は案外、子ども集団による教師いじめではないかと、私は考える(教師自身は、それこそ子ども以上にプライドがあって、自分がいじめられているなどと認めたくはないと思うが)。

学校は子どもたちを息苦しくさせ、教師や仲間は子どもたちを傷つける存在となっている。
いじめが減少したと言われるが、もし、それが本当であるとしたら、子どもたちが大人たちに解決策を委ねることをあきらめ、心と身体を守るために不登校を選択した成果と思う。
自分たちを傷つける場所・学校に行くのをやめ、さらに自分を追いつめようとする社会に扉を閉ざして、自らの殻に閉じこもる。好きで学校をやめて、家に閉じこもっているわけではけっしてない。
自分を守るために、もうこれしか方法が残されていないと感じた子どもたちの自己防衛手段である。子どもたちはシェルターに逃げ込んだ。
それを今、再び大人たちが子どもたちを安全なシェルターの中から、危険な外の世界へと引っぱり出そうとしている。力づくで、あるいは奸計を用いて、なだめたり、すかしたり、脅迫したり・・・。

誰が好きこのんで、狭いシェルターのなかに閉じこもっているだろう。
外の世界が安全だとわかったら、子どもたちは、若者たちも、自然に外に出てくるだろう。
学校は子どもたちにとって本来、楽しい場所であるはずだと思う。子どもには好奇心がある。知らないことを知るのは本当はとてもわくわくする楽しいことのはずだ。人間には仲間と一緒にいたいという動物的な欲求がある。自分を傷つける相手でなければ一緒にいたいと思うのが自然だ。心の奥底に巣くう強いイライラがなければ、けんかをしながらも、相手と自分との違いを知り、互いを認めあって歩み寄ることができるはすだ。憎しみ以外のものが生まれるはずだ。そして、教師が子どもを支配しようとしなければ、子どもにとって教師は自分たちを大人へと導いてくれる頼もしい存在のはずだ。

子どもを外に引っ張り出す前に、子どもを外に出られなくしている要因をまずは取り除くべきだろう。
どこから手をつけるべきか?まずは教師からだと私は思っている。
しかし、それは文科省が考えているような、教師の評価を処遇に反映させることではない。
これでは、ますます学校は企業化してしまう。財界人たちは「企業ではとっくの昔にやっていたこと」とコメントしているが、では今の企業社会のなかでサラリーマンたちは、自分の仕事に見合った待遇を受け、みんなが納得して活き活きとやる気をもって仕事をしているだろうか?逆に常に評価されることにおびえ上司には逆らえず、顧客より上司の顔色を伺う社員。過激な競争社会とそこから来る心理的軋轢のなかで、体や心を壊しているではないか。自殺者も増加しているではないか。企業社会のどこに、学校がモデルとするべき理想の姿があるというのだろうか?
学校の場合、顧客であるはずの生徒や親の権限はとても小さい。教師はますます生徒ではなく、管理職や教育委員会、行政の方を向くだろう。それで満足するのは生徒ではなく、学校を管理する側の人間だ。

確かに、教師には問題を感じている。しかし、そういった教師をつくったのは国の責任だと思っている。
文科省の言いなりになる教師を採用し、理想を描けない教師を育ててきた。生徒ではなく、教育委員会など、上のほうばかりを見て、煩雑な事務仕事に追われている。それで教師の仕事が面白いはずがない。苦虫をかみつぶしたような顔をしている教師と毎日、顔を付き合わせている生徒の身にもなってほしい。
そして、教育委員会は書類の束を見て、学校の実態を把握した気になっている。それが、教育委員会の方針に添うよう、必死に教師たち書いた模範解答であることに気づきもしないで。

現場の教師を一番、信じていないのは、教育委員会であり、国だろう。
現場の声を無視して次々と勝手に方針を決め、押し付ける。それでいて、うまくいかなければ自分たちの言動、施策の失敗を反省することなく、責任の全てを現場に押し付けて、また新しい施策に手をつける。
そのコロコロ変わる方針に振り回される教師たち、子どもたち。

今また教育基本法までも変えようとしている。しかも、その視点は子どもたちにはない。有識者や政治家が口々に唱える教育に一番必要なものは、「国際競争を乗り切る力」「即戦力になるように」「基礎学力」云々、全て企業に役立つ人間づくり、兵隊づくり。子どもたちを相変わらず消費財としてしか考えていない。この国の未来を担う存在だとは考えていない。
子どもたちの未来にとって、学力も必要だろう、実践に役立つこと、将来の仕事に役立つことも必要だろう。しかし、「人間として育つ」ことの視点を抜きにして、将来、企業が使いやすい情報を子どもたちにインプットすることばかり考えている。
子どもは未熟なものだ。その分、多くの可能性を秘めている。その大切な時期に、ただコンピューターに情報を入力するような教育のあり方で、ほんとうにいいのだろうか。

変えるべきは生徒ではない。学校を取りまくシステムそのものだと思う。
国は、政治献金をたくさん収める企業のほうではなく、国民、とくにこの国の未来を担う子どもたちのほうをきちんと向いて、人間として育つためには何が本当に大切なのかを教育の基本とするべきだろう。
人が生まれて幸せに生きるためには、何が必要なのか。人間としての基本を身につけるための教育。それは世の中が変わったからといって、そう簡単にコロコロと変わるものなのだろうか。

国は企業の思惑に左右されて、教育に口出すべきではない。現場を信頼し、学校を教師と子ども、親たちの手に返してほしい。
教師たちは、管理されることより、信じて任せられるほうが、今よりずっとやる気を出すだろう。
「子どもたちと共に生きたい」。おそらく、多くのひとがそう思って、教師になったのではないか。
もしも、そうでない人間、サラリーマン的な教師なら、今すぐ学校を辞めてもらいたい。
子どもたちにとって何が本当に必要な教育なのかを考えられる教師だけを残して、その教師たちの理想を国や教育委員会がサポートする。教師たちが独善でなく、生徒や親とともに教育の理想を練り上げ、実現できる場であったなら、学校は教師にとっても、子どもたちにとってもきっと楽しい場所になるだろう。
もちろん教師だけでなく、親もまた子どもたちにとって何が幸せなのかを、自分の価値観の押しつけでなく、考えられるようにならなければ、このような学校は成立しない。相変わらず、高進学、高学力の有名校に進学させることばかり考えているようでは、子どもたちの心と体は、親の理想と現実とのギャップの間で引き裂かれしまう。

教師も生徒も、活き活きと自分たちの理想を追求できるような学校であったならば、子どもたちは自然に学校に戻ってくると思う。親が自分のプライドよりも、子どもの幸せを最優先するならば、子どもは自分に罪悪感を感じずに、のびのびと学校生活を楽しめる。
根本的な問題を見ようとせず再び、子どもたちから解決策のみを取り上げたとしたら、事態は今よりもっと悪くなるだろう。逃げ場のない子どもたちの心と体が壊れてしまう。子どもたちは自分を壊すか、この世の中を壊すかの選択を迫られることになるだろう。
大人たちの価値観が子どもたちを壊していることを、大人たちがもっと自覚しなければ、子どもたちはけっして救われない。


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