わたしの雑記帳

2002/12/24 小森香澄さんの20歳の誕生日によせて & 裁判の傍聴報告。


1998年7月25日、いじめ自死した小森香澄さん(当時15歳7カ月)の誕生日は12月22日。生きていれば20歳になる。山のように来る成人式振り袖のダイレクトメール。辛くて、悔しくて、最初は捨てていたそれらを今は、一つひとつ霊前に供えているという。遺族はどんな思いでいるだろう。
子を亡くした親は、その子の20歳の誕生日をことさら感慨深く迎える。生きていれば成人。本来、親離れ、子離れの節目となるはずの成人式。その節目が来ない。永遠に大人になれないわが子。親もきっと一生、子離れはできないだろう。

一方で、同級生だった加害者たちは20歳になり、大人となる。成人式の祝いに代えて、裁判で子どもたちの罪を明らかにし、そこから新たに成人として出発してほしい。そんな願いを、茨城県牛久市で同級生からの(あるいは複数の?)暴行により殺された岡崎哲(さとし)くんのお母さんは口にしていた。けっして皮肉ではなく、未熟な10代の過ちをきちんと清算して、成人として生きるにあたって二度と同じ過ちを冒してほしくないという切なる願いを込めて。しかし、思いは届かなかった。裁判で原告の訴えは全面的に棄却され、子どもたちは自分の罪と正面から向き合うことなく、遺族に対して謝罪の一言も述べることなく成人になった。

子どもたちにとって、成人式は単なるお祭り騒ぎにしかすぎなくなった。子どもを導くことのできる大人がいない。大人への道しるべをきちんと示されないまま、20歳を超えてもただ10代の延長で、だらだらと迷走を続ける。その責任は今の大人たちにもあると思う。
20歳を超えれば、今回被告の3人の少女たちもやがて結婚し母となる日が近く来るかもしれない。その時に、今の美登里さんの気持ちが少しは理解できるようになるだろうか。それとも、本当に大切なものを失ってみるまでは気づけないものだろうか。

今回で7回目の裁判。暮れも押し詰まって忙しい時期、ましてこの日は12月24日、クリスマスイブ、傍聴人の数が激減するのではないかという不安は、どうやら危惧に終わってほっとしている。多くの人たちが傍聴券を求めて並んだ(結果的に全員が傍聴することができたが、空席は数える程度だった)。

今回の口頭弁論は、法廷で交わされた言葉数も少なく、ものの数分で次回期日が決められた。そんな事務的な進行作業のなかで、なぜか原告の美登里さんだけが、うつむきながら声を押し殺して泣いていた。芯の強い彼女が、閉廷と同時に、知人にすがるようにして嗚咽を漏らして泣いた。
何があったのか、その理由を今も私は知らない。ただ、思ったことは「また、いじめられたんだ」。
裁判を起こすと、辛いことはいっぱいある。被告側は、あることないこと織り交ぜて、こちらの一番弱いところを突いてくる。どれだけ覚悟をしていても、ズタズタに傷ついた心は簡単にかさぶたがはがれて、またすぐに血を流す。
私たちはそれをただ見ているしかない。理由は知らなくてもいい。彼女が自分から話したくなるときまでは。けれど、その悲しみだけは心にとどめたいと思う。二度と同じ思いをほかの誰かがしなくてすむように。

裁判のあとの報告会に、いつも使用している横浜開港記念会館が休館のため急きょ、ほかを探さなければならなくなった。どこの会議室も満杯のなかで、横浜YMCAのチャペルがとれたという。
偶然というか、運命的というべきなのか、このチャペルで小森夫妻は22年前に結婚式を挙げた。いつか、香澄さんに「お父さんとお母さんはこのチャペルで結婚式を挙げたんだよ」と話すつもりでいたという。そこで、肉体としては存在しない20歳の香澄さんの裁判の報告会を開いた。(このときにはもう、パタパタと自ら動き回るいつもの美登里さんに戻っていた。少なくとも表面上は)

今回の口頭弁論の内容は、前回に引き続き、文書提出命令について。
ひとつ大きな進展があった。被告の元女子生徒3名のうち1名が、個人情報開示請求を使って、自らの作文を取り寄せ、証拠として提出してきた。手書きの用紙が2枚。法廷で被告側弁護士が言っていた「取り寄せたときにすでに横線は入っていた」というのは、この作文の写しのことなのだろう。
内容については、自分のやったことを少しは書いているが、具体的ないじめについては書いていないという。ただ、自分のやったことに非があるというようなことは書いてあるという。

被告側が自ら、自分の作文を個人情報保護制度を使って取り寄せ、提出した意図は何だろう?
弁護団も法廷で受け取ったばかりで、まだ検討されていないからか、説明はなかった。
今、私に考えられることは2つ。ひとつは、「私は反省しています」ということを示すためのもの。当時も今も、悪いことをしたと思っていますと、だからたとえほかの2人は拒否しても、袂を分かってでも、できるだけの誠意は見せますというもの。
もう一つは、なんとなくは反省していることは書いていても、具体的なことは書いていないのを楯に、もしかしたら自分も香澄さんを追いつめた一人かもしれないと思って反省文は出したけれど、法廷で裁かれるほどのことは何もしていないのだというためのもの。
(注:これはあくまでも私の想像範囲内のもので、弁護士さんの見解ではけっしてありません)
香澄さんと遺族のために、そして被告自身のためにも、前者であることを祈りたい。

原告弁護団は今までも、学校に残っているすべての調査資料の提出を求めてきた。そして前回、他には存在しないという回答だったが、今回、新たに手書きのメモが資料として出てきたという。「報告書以外に手書きのメモなどがあれば出してほしい」と要望していたことが功を奏したのか。
香澄さんの死の直後に、吹奏楽部の外部顧問から教頭が聞き取った内容や、担任と吹奏楽部顧問が、事件の経緯を手書きでまとめて教頭に提出したメモ。養護教諭の手書きのメモなど。
もちろん、被告側が素直に持っている材料のすべてを開示しているとは思えない。自分たちに有利なものだけを出している可能性は十分あるが、それでも何も出ないよりは真実を知る手がかりとなり得るだろう。

話を作文に戻す。原告側は、当時、学校側が関係生徒に書かせた作文、31名全員分の提出を求めていた。しかし裁判所は、原告側が個別に同意書をもらった生徒3名を除く28名分の作文の開示請求を却下した。理由は被告側の主張にある「作文は公開を予定していたわけではなく、生徒の了解なしに公開することは学校と生徒の信頼関係を損なう可能性が大きい」というもの。個別に同意した生徒については、生徒との間で信頼を損なうことはないだろうと判断された。
この回答に対する弁護団の方策は、高裁に対して非開示決定の不服申し立てをする(1週間内に決定し、3週間内に理由書を作成・提出しなければならない)一方で、3名以外の生徒たちにも公開を承諾してもらえるよう働きかけていくという2本立て。なお、裁判所から許可が下りた3名の作文についても、神奈川県が不服申し立てをして争う可能性はあるという。
いずれにしても、事実関係を明らかにすることは時間がかかるということだった。

今回、チャペルという場所でもあり、香澄さんの20歳の誕生日が近かったこと、クリスマスイブであるということから、報告会だけでなく、香澄さんの遺した「窓の外には」の詩にメロディーをつけた、そのメロディーの演奏とクリスマスソングなどのミニコンサートが行われた。
歌はなかったが、何回となく耳にしたこのメロディーに、自然に香澄さんの詩が甦って、歌声が聞こえる気がした。やさしいメロディーに香澄さんが偲ばれて、会場から忍び泣きが聞こえた。
そして、小森さんに寄せられた多くの子どもたちのメッセージの朗読。子どもたち3人とおとな2人がローテーションで、1枚1枚を読み上げた。そこに、香澄さんが遺した「やさしい心が一番大切だよ」というメッセージが子どもたちの心に届いて、確実に根付きはじめているのを感じることができた。
辛くて悲しいクリスマスイブに、少しだけ暖かさが戻った気がした。

次回の口頭弁論は、原告側の文書提出命令不採用への不服申し立て手続き等の関連もあって少し間があく。3月25日(火)午前10時30分から、横浜地裁503号法廷です。


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