2002年9月30日、午後1時10分。同時間内の同じ裁判官(石川善則裁判長)のもと、3つの公判が設定されていた。
東京高裁で控訴審の判決日だというのに、報道関係者らしいひとの影は見えなかった。そんなものなのかと思う。来るときは大挙して来る。来ない時は誰ひとりとして来ない。裁判所のほうもわかっていて、事前の傍聴券配布もなければ、記者席も特には設けられていなかった。
かわりに、岡崎さんの切実なる傍聴の呼びかけに対して、30人を超える支援する人びとが集まった。
ある面で、まるっきり予想通りの判決だった。控訴人(岡崎さん)の訴えをいずれも棄却。理由は判決書に記載しているということで、法廷では一切、内容について触れられなかった。
判決文はそう厚みのあるものではなかった。一部、在学中だった生徒が卒業したり、誤字があったりした部分の表記が変更される旨が書いてあるだけで、要は「原審(一審)判決の事実及び理由に記載の通り」、つまり原審の内容をそのまま支持するというものだった。(この判決を見越して、一審判決文を9/29に当サイトにてUPしてあります。あわせてご参照ください。控訴審に向けて私が書いた「上申書」もUPしました。)
前回の公判(9/2)からの間、岡崎さんとて手をこまねいてただ今日の判決を待っていたわけではなかった。提出が遅れていたすでに依頼済みの上申書や意見書を裁判所に提出し(すでに判決の言い渡しが出ているとして却下された)、ある弁護士からのアドバイスを受けて、「弁論再開の申し入れ」手続きもとっていた(結果、不採用)。弁護士なしの本人訴訟。法律的なことがわからないまま、かといって裁判所側が懇切丁寧にアドバイスをしてくれるわけでもないなか、なんとか活路を見いだそうと必死の努力をしてきた。それをあざ笑うかのようなニベもない対応。
岡崎さんは言う。真実を追求したいという思いから、ひとつでも本当のことを知りたいという思いから裁判を起こした。しかし現実には、弁護士と裁判官との戦略の立てあい、裁判ゲームとなって、被害者・遺族の思いなど、どこかへ飛んでしまっていると。
岡崎さんは同時並行して3つの裁判を闘ってきた。加害少年と両親を訴えた第一次訴訟は現在まだ、第1回控訴審においての裁判官からの和解提案により、話し合いが続けられている。今まで、2回の和解協議があり、1回目は加害少年の出廷を要請する原告側と、あくまでもその要求を突っぱねる被告側とで物別れ状態。2日目に、加害少年を法廷に出すのとは別の形での謝罪の方法の検討と減額について具体的な内容に向けて、少し方向性が見えてきたという。
そして警察、検察の国と県を訴えている第二次訴訟はようやく、互いの言い分、争点の整理がついて、いよいよ証人申請について具体的な協議をはじめる段階に至ったという。
どの裁判も遺族の思いからは遠く離れている。
そして、学校を訴えたこの第三次訴訟での控訴審棄却。最高裁にもっていくためには、憲法論争なり、判例違反なり、それ相応の最高裁で闘わなければならないという理由が必要だという。控訴審の結果が不満であれば誰でも、最高裁までいけるものだと思っていたのだが、どうやらそういう仕組みにはなっていないらしい。より高度な論争のなかで、なおさら被害者の気持ちは置いてけぼりを食らう。専門家たちだけの領域になる。誰のために、何のために裁判という制度があるのか、わからなくなる。
岡崎后生さんが言う。少年事件は特に、事件が起きてすぐにきちんと調べをやっていないと、後から真実を知ろうとしても難しい。子どもたちは法廷に立たされても、みごとなくらい「忘れました」「わかりません」としらを切り通すと。
「この結果を自分で自分に、どう理解、納得させたらいいのかとずっと考えてきました」と和江さんは言う。そして、そのことから導きだされた答えなのか、「自分たちのささやかな暮らしだけを守ってきたことへの罰だと思っています。世の中のおかしいことにおかしいと声をあげてこなかった、関心を持ってこなかったことの結果であると受けとめています。それが今、被害者となって、正義漢のような顔をしている自分が恥ずかしい、許せない」「右の頬にパンチを食らった今、左の頬も差し出さなくてはいけないのかなと思っています」と言った。そして、「それでも、わが子を愛しんできたんです。一生懸命、大切に育んできたんです」と涙声で訴えた。
同じように子どもを殺された遺族が、「そんなふうに自分を責めちゃダメ」と言葉をさえぎって叱咤した。一方で、みんながそんなふうに思えたなら、きっとこんなにも悲しい出来事はたくさん起きないだろにという意見もあった。
もうすぐ10月8日、哲くんの命日がやってくる。今年もまた、哲くんになんと言って報告したらいいのだろう。遺族にとって、子を失ったその一番辛い月をどうやって乗り越えられるかが大きな課題となる。裁判のなかにわずかに見いだしていた希望の光を見失った今、遺族の心を支えられる何があるだろう。
殺された人間の思い、遺族の悲しみと怒り。何一つ理解しようとしない、反省しようともしない大人たちの国で、死んでいった子どもたちに私たちはどんな顔向けができるだろう。
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