娘が受験のための模擬面接で、学校長から「あなたにとって、人権とはどういう意味ですか?」と問われて、「個性を認めることだと思います」と答えたという。今、改めて、娘の答えは案外、深いところをついているのではないか思う。外国籍も、障がいも、家庭環境も、そのひとの一部、個性だと考えたときに、自分とは異なるからといって差別したり、手間がかかるからといって邪魔にしたりするのではなく、自分とは異なる部分を認めて互いに歩み寄る努力をすることを、人権を大切にすることと言えるのではないかと思う。
府中の中学校で、知的障がいを持つAくんが、同級生の母親からの手紙(全文は011221)をきっかけに、障がい児学級のある学校に転校を余儀なくされた。Aくんは、小学校の6年間を障がい児学級ではなく、普通学級で過ごした。そして、中学校とも話し合いを重ねて、普通学級に通うことを勝ち取ってきた。そのAくんの両親がついに折れた。障がい児学級をもつ手紙は功を奏したと言っていいかもしれない。だが、この手紙を受け取ったAくんの両親の悲しみ、絶望はいかばかりだったろう。もう、話し合う気力さえ萎えてしまったことだろう。
普通学級に通わせたほうがいいか、障がい児学級に通わせたほうがいいか、専門家はもちろん、障がい児を持つ親の中にも考え方はいろいろあるだろう。無理矢理、普通学級に通わせることは子どもにとってマイナスのほうが大きいと考えるひともいる。
おそらく、Aくんの両親もいろいろ悩まれたと思う。そして、自分の子どもによかれと思った道を選択した。それがけっしてスムーズな道のりではないことを覚悟しつつ。そして、一人では圧倒的多数の理論に精神的にも押しつぶされてしまうから、市民団体とともに、子どもにとって最善の在り方を懸命に考えてきたのだと思う。
ここで、障がい児をどちらの学級に通わせたほうがいいのかを議論するつもりはないし、私自身が論じられるほどの知識もない。ただ、当事者たちに選ぶ権利を委ねるのは、当然のことだと思う。少なくとも、国より、教育委員会より、学校の教師たちより、他の保護者たちより、一番真剣にその子の行く末を考えているのは親であると思うから。その考えに考えた結論を、行政に、ただ決まりだからという理由だけで選択権を奪われるのはおかしいと思う。まして、子どもを育てる現場で、手がかかるから迷惑だというのは、教育の根本を見失うものであると思う。
手紙は、住所が間違っていたために学校を通してAくんの母親に手渡されたという。
この時点で、学校と母親は共犯であると感じられる。学校は保護者の一人に代弁させることで、民主化の形式を整えようとしただけではないか。
学校でのいじめ事件でも、被害者の親のところに、PTAや同級生の親から非難の手紙が届く。学校対被害者の親という構図のなかで、学校側に加担したほうが有利と考える親たちが、先鋒となって被害者いじめをする。「自分の子どもかわいさ」を全面にあげて、数の論理で、被害者の口を塞ごうとする。
そのことが学校を太らせてきた。子どもたちの基本的人権よりも、大人たちの理論、大人たちが考える子どもたちの目先の利益が優先されてきた。そのツケを最終的に払わされるのは、子どもたちだというのに。
母親の手紙には優位性がうかがえる。自分の子は上、障がいのある子は下。そして大多数と少数。自分たちが負けるはずがないと踏んだうえで、攻撃をしかけてきている。
「最近の他の子たちをじっくり眺めてみたことがありますか?年齢は同じでも今でも幼児のようなAくんと違い、ほとんどの子は半分大人の顔をして、体型は母親たちをどんどん追い越していっています。」
みんなと異なることを認めようとはしない。
また、Aくんの存在を他の子にとってプラスかマイナスかでとらえる。
子どもは、その子ども自身のために存在するのであって、親のためでも、他人のためでもない。ましてAくんは、同級生の福祉的経験のために存在するのではない。
この母親は、自分自身の子どもは一体、誰のために、誰の利益のために存在していると思っているのだろうか。
「Aくんは実際かわいくて愛嬌があるから、普通学級の中でもまだ構っている子はそれなりにいますけれども、(当然例外はいるでしょうが)ほとんどの子にとってそれは「対等な仲間」としてではなく、「教室でペットを飼っている」感覚でしかありません。」「私の子の場合は努めて無視しているそうです。『下手に相手をすると、まとわりついてきてウザイ』という理由です。」「私の子は、小学校のときには授業中のAくんの行動や突然の発言を面白がっていた面もありましたが、今ははっきり『嫌だ』と言います。Aくんへの理解は以前より進んでいるでしょうが、だからこそ『関わりたくない』という思いを強くしています。」
このような子どもたちの感覚をこそ、危ういものとは思わないだろうか。しかし母親はむしろ肯定さえしている。
「担任のE先生の予想以上の疲労度に、多くの母親たちが驚いていました。」「明らかに疲れた顔をして愚痴も多くなり、また怒りっぽくもなっているようなその姿に、私たち母親は先生に対して非常に同情を感じると共に、『先生がこういう状態では、色々な形で間接的に子供たちにも悪影響が及ぶ』」という危機感を持ちました。先生自身も恐れていると言い、私も特に恐いと思ったのは、他の子がケアを必要とする状況になったときに先生たちの目と手が行き届かなくなる、ということです。1年D組には不登校になっている子もいるというのに、Aくんの問題の陰に隠れて話題にすら上りませんでした。自分の子がそんなことになったら、と考えるととても恐ろしいことです。」
障がい児がいると教師の手間が増えるのはわかる。だが、それはAくん側の問題ではなく、学校の、教育委員会側の体制の問題である。行政に本気で子どもたちの育成に力を注ぐ気持ちがあるのなら、この少子化のなか、教師を加配することはそれほど難しいことではないはずだ。実際に、Aくんの両親との交渉のなかで、2教科に非常勤の教師がつき、Aくんの学校生活も落ち着いてきた矢先だったという。2教科で足りないなら、全教科つけてくれるよう、それこそ保護者たちが団結して教育委員会に申し入れたとしたら、事態はもっと違う方向へと進んだに違いないと思うと残念でならない。(実際には、母親たちが教育委員会に申し入れをしたいとまで考えたのは、Aくんを学校から排除することだった。)
自分の子どもが不登校になったらと考えるととても恐ろしいという母親は、自分の子どもが障がいをもったらとか、自分たちもまたこのような手紙を受け取ったらどれだけ恐ろしいと思うかについては思い至らないらしい。
手紙は、単なる意見の表明には終わらない。
「反感(自分の主義のためなら他の子供たち、教師たちの迷惑は一切構わないというのか?Aくん自身をも犠牲にする気なのか?)を持ったことも事実です。」「言い方を変えれば、「自分の子がとばっちりを食うようなら、建前はどうでも、『Aくん排除運動』も辞さない」ということでもあるのです。(実際17日には、教育委員会に直訴しに行こうか、という話し合いまでしました。)」「これからもずっとご一家で地域で暮らしていくにあたって、今ここで地域の多くの親子を敵にまわすような姿勢を取り続けることが賢明かどうかということも、よく考慮して頂たいと思います。」
これは、明らかに脅迫である。
この手紙について、市民団体の就学時健診を考える会は、その会報「SSTL 一歩まえに」のなかで、
「就健の会でもこの手紙の問題について話し合ってきました。『発達を保障するために』とか『その子にふさわしい専門的な場所で』といった論理ではなく、あからさまに『強者のエゴ』を振りかざして邪魔者排除の恫喝をするこの手紙の論理は、今の世の中の風潮を感じさせて恐ろしいものがあります。
しかし、このような『本音』があることも事実であり、私たちが『ともに地域の学校で』というときも、調和的な『すばらしい関係』だけを想定していたわけではなく、このような『本音』のぶつかり合いの中から『ともに生きる』生き方を育てていくことをこそ求めていました。『共生』を口にしている今の学校が、そのような教育機能を果たせず、逆に排除を教育していく場になってしまっているのは、本当に残念です。」
と書いている。
学校で「共生」することを教わらなかった子どもたちは、社会に出ても異なる他人、自分にとって利益をもたらさないものを排除しようとしつづけるだろう。
生まれたときに障がいがなくても、ひとはいつ障がいをもつかわからない。まして、超高齢化社会の日本で、年をとれば誰しも、耳が聞こえにくくなったり、目が見えなくなったり、車いすでしか移動できなくなったり、あるいは痴ほう症状が出たり、何らかの障がいをかかえることになる。今、障がい者を社会の隅に追いやることは、天にツバをするのと同じだろう。利用価値のないものに権利を与える必要がない。そういった考え方はいずれ、自分たちが、自分たちの子どもたちから身をもってその理不尽さを教えられることになるだろう。
また、理解できない相手や自分たちにとって利益にならない相手を排除したりされたりの関係が、国と国との関係に発展すれば、戦争となり多くの命が失われる。
政府は、日本の国力のために子どもを産めよ増やせよと言い、子は国の宝だと言いながら、利益のあがらない子どもへの投資を出し渋る。一カ所に集めて、手間もお金もかけずに、効率よく管理しようとする。そのために犠牲になる子どもたちのことを考えない。
「心の教育」と言いながら、ボランティアとして福祉施設を訪問することを奨励しながら、一方で、障がい者が自分たちの地域で当たり前のように暮らすことを拒む。建前と本音をあからさまに使い分けるのは、国の方針ですらある。
役に立つ子どもたちだけが優遇されて、役に立たないと烙印を押された子どもたちの権利がないがしろにされる。こんな国のなかでは、まるで機械の部品のように、人間も使い捨てにされてしまうだろう。
人間を細かく序列化していけば、結果的には一握りの人間しか残れない。ほとんどのひとが幸せを実感できない国を自分たちの手でつくろうとしている。
弱者の人権が守られる社会であるのなら、それはすべての人権が守られる社会だろう。そういった社会を子どもたちに残してやることこそが、大人たちの責任ではないだろうか。
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この手紙の内容について、「ふつう学級で学ぶ」のサイト(http://homepage3.nifty.com/futuu/)の
掲示板集の「障害児に関わる学校での出来事」に取り上げていただきました。
http://homepage3.nifty.com/futuu/keijiban.htm
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