わたしの雑記帳

2002/5/16 戸塚大地くんの裁判控訴審(東京高裁)報告


戸塚大地くんの控訴審が始まった。今日(2002年5月16日)は、その第1回目。
裁判の冒頭には、口頭陳述が行われることがある。ご両親がなぜ控訴したのか、その思いを法廷で話されるのではないかと期待して行った。
しかし、裁判所に拒否された。用意してきているのでぜひにと食い下がる弁護団に対して、「事前に申請しておくのが礼儀でしょう」と裁判長は声を荒げた。今日は予定していなかったから、時間もとっていない。次の予定もはいっており、急に言われても無理だと突っぱねた。
これは後で弁護団の説明でわかったことだが、戸塚さん側は事前に電話で申請していた。その時には書類で出せとも何も言わずに返事を引き延ばしておいて、今日になって書記官から「必要ない」と言われたという。(そのことが裁判官には伝わっていなかったらしい)

さらに、原告側が文書で主張した両親らの本人尋問も、原審(一審)ですでに行われているので必要ない。学者の意見については、書面で十分、証人として呼ぶまでもない。教師の尋問も必要ない。
そして、原審で一番争点となった生徒の証言(棄却の理由として、八王子地裁の裁判官は、生徒の証言は信用できないとした)すら、原告が新たに出してきた3人の証人に対して、1人で十分とした。
本人尋問をあきらめるのだから、せめて2人だけでも生徒を証人として呼びたいと粘る弁護団に、こちらも頑として1人に絞れと言う。それならその尋問には十分な時間が欲しいという要望に対しても、反対尋問を含めて1時間。原告側は45分内に収めるようにと言った。

まるで、原告側の言い分に耳を貸そうとしない裁判官。早くも失望の色が広がる。
それでも、公判後の報告会で、弁護士の先生の説明では、高裁ではたった1回で審理が打ち切られることも珍しくないという。いかに、その可能性を回避するかが、最初の山場となるという。
戸塚さんもすでに今日、その覚悟で臨んでいた。そしてそのためにも、控訴を決めてから今日までの間、打てるだけの手はすべて打ちたいと忙しく証拠集めに動いていた。そうした努力を重ねても、今日の裁判官の様子を目の当たりにして、万策つきたかなと、これ以上何をしたらいいのだろうと、何をすれば判決をひっくり返すことが可能になるのだろうと、お母さんは途方に暮れていた。

裁判の効率化が叫ばれていることを理由に、スピードばかりが重視される。私自身、今まで日本の裁判が時間がかかりすぎることに不満をもっていた。無駄をはぶくのはいい。しかし、必要な調べもせずに終わってしまっては何のために裁判を起こしたのかわからない。効率よくするというのならむしろ、1回の審理を書類のやりとりだけで、開廷時間はたった5分から10分。次回期日を決めてお終いというのをやめて、1時間でも2時間でもじっくりと審議してほしいと思う。必要なことまで省いてほしくない。

高裁から最高裁への門戸もますます狭くなっているという。今更ながら、原審の大切さを思い知らされた。裁判官は果たして、どれだけこの事件に対して関心をもって、書類の山を読みこなしていくものなのか、今日の態度を見ていると大いに不安になる。
弁護士の先生いわく、私たちから向かって右の左陪審が主になっているのだろうという。

学校の事故は世間の関心が薄い。一審の判決もわずか一社が地方版に取り上げてくれただけだという。家族のこともあるから、あまり騒ぎたてたくはない。しかし、理不尽なことが理不尽なままに、世間から顧みられることもなく進行していってしまうことも、無念でならない。
学校の事故はその子だけに起きる特別なことではない。どの子にも等しく起きうる。危険をそのまま放置したために、何人も何十人もの子どもたちの命が失われた例はたくさんある。
最初のひとりの死に、真剣に取り組んでいれば、あとの何十人は死なずにすんだかもしれない。
そして、どの遺族も思うことは、自分の子どもで最後にしてほしい。失われた命はもどってこないのなら、せめてその命を次に奪われるかもしれない命のために役立ててほしいと思う。
その意味さえ失われたときに、わが子の死は、わが子の生はいったい何だったのかと思う。
安全であるはずの学校で、これ以上、子どもたちの命が奪われることのないように、そのためには亡くなった子どもの親だけではどうにもならない。もっともっと多くの人々の関心が必要だと思う。

次回は、7月2日(火)2時から3時。東京高裁822号法廷。
一審では証言しなかった元生徒の証人調べが行われる予定。
両親の口頭陳述についても改めて申請を出すということだったが、認められるかどうか、望みは薄いという。控訴審はすぐに結審を迎えるかもしれない。一つひとつを大切に見守っていきたいと思う。


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