子どもの頃、学校の先生がたしか理科の授業か何かで話してくれたと思う。熱湯にカエルを放り込むと驚いて飛び出すが、カエルを入れた水を徐々にあたためていくと、カエルは飛び出すことをせずに、ゆだって死んでしまうという(カエルは変温動物だから?)。
実験をしてみたわけではないので、本当にそうなのか真偽のほどは確かではないが(しないでね)、似たようなことが、今、私たちの身近にも起きている気がする。
1999年8月、国旗国歌法成立。教育現場にも日の丸、君が代が強制された。(最初は強制はしないと言いながら、結局は、違反するもの、反対するものには制裁や処罰が行われた)
そして、2001年の教育改革の学校教育法で「ボランティアのすすめ」。「ボランティア」という言葉がいつの間にか、「奉仕活動」という言葉になり、義務や強制の話になった。今回は奉仕活動の義務化は見送られたものの、学校はすでに「子どもたちにボランティアをさせなければいけない」と、政府の顔色を伺いながら、迷走しはじめている。(教育史参照)
そして「有事立法」と「人権擁護法案」。
米国のテロは、「有事立法」を通すためのよいアピール材料となった。かつて、オウム真理教の犯罪を契機に破防法が成立したように。
「人権養護法案」も、犯罪被害者の人権がようやく叫ばれ始めた今、「人権擁護」という美句を殺し文句にまるで人権を守る法案であるかのように、人びとに思いこませて立法化を急いでいる。確かに現在のマスコミの在り方には見直すべき点は多いだろう。しかし、さらに質されなければならない反人権的な要素が政治のなかに蔓延している。それを告発する口までをここで一気に塞いでしまおうとする。
旗印に担ぎ上げられている犯罪被害者たちですら、そのことは望んでいない。
もう一つ、2002年5月9日付けの「朝日新聞」の「私の視点」に弁護士で社民党幹事長の福島瑞穂さんが書かれていた「テロ資金供与防止条約」の批准と、条約を実行するための国内法「公衆等脅迫目的資金提供処罰法(案)」(授受された資金が対象とされる犯罪行為に使われたかどうかにかかわらず、10年以下の懲役または1千万円以下の罰金が料せられる。福島さんは「カンパ処罰法」と表現。)の問題性。(ほかの人権に関する国際条約に対しては批准はしても、運営には消極的で、違反してもほとんど罰則がないことが多いのに比べると、なんて積極的!?)
アフガンに空爆が行われている時に、アフガン難民への支援を続けていた周辺のNGOの資金が凍結されたと聞いた。国の力で勝手に資金が止められてしまう。難民キャンプへの、食べるものもない貧しい村への小麦粉がストップした。多くの善意の気持ちが、国の判断ひとつで無にされてしまう。そこに、異なった見方や考え方が入り込む余地はない。
大国が「敵」だと名指しすれば、政府が「敵」だと言えば、目の前で非戦闘員の年寄りや女性や子どもが、赤ん坊が、飢えや乾きでバタバタと死んでいくのを見たとしても、手を差し伸べることはできなくなる。
たとえ一部の人たちに責任があったとしても、責任のない人たちまで死ななければならないのは理不尽だと考える人びとが、自分の懐から出したカンパが罪になるという。これでは、街頭、その他でカンパの呼びかけがあったとしても、何に罰せられるかもしれないのに、うっかり寄付もできない。
安心して活動できるのは、政府が公認するNGOやNPO、民間団体だけとなる。草の根を含めて、全ての団体の目的や資金の調達、使い方までを、政府が管理するようになるだろう。
こうして、だんだんと違う考えは許されない動きが世界中で拡がりつつある。
日本でもあれだけの戦争、犠牲のなかでこりもせず、手を換え、品を変えて、再び戦前の国家統制を再び甦らせようとしている。少しずつ、国民の権利を剥奪していく。テロや犯罪への恐怖を上手に利用しつつ、もっともらしい浅薄な理由を並べたてて、あるいは、国民の気がつかないうちに、関心のないうちにスピーディーに押し進めていく。反対が強ければ一旦はひっこめて、また時機をみて少しずつ押し寄せてくる。
私たちは大きく報道されるものにどうしても関心が向く。
政府は膨大な資金(もちろん、私たちの血税)を注ぎ込んで自分たちに都合のよい広報をじゃんじゃんと流すことができる。
アメとムチ。アメはすでにもっている。様々な利権で人びとを吊る。耳に心地よい言葉でなんとなく賛成してしまう。そして今、合法的にムチを手に入れようとしている。
ムチで叩かれるのは犯罪者ではなく、私たち一般市民だ。ムチを振り上げられれば、怖くてものが言えなくなる。ムチで叩かれるひとを見れば自分も縮み上がる。ムチを持つものの顔色をうかがうようになる。
そんな時代が今、来ようとしている。20世紀が戦争と破壊の世紀だったといったひとがいる。21世紀もさらに恐怖が人びとを支配するようになるのだろうか。
ぬるま湯に慣らされてはいけない。徐々に私たちの神経を身体を冒し始めている。ゆっくりとした加熱は、熱湯よりも怖いということを自覚しなければ、いずれ茹で殺されてしまう。何も自覚のないままに、気がついたときには身動きがとれなくなっている。
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