わたしの雑記帳

2001/10/4 岡崎さんの裁判傍聴報告


今回は、証人として誰を呼ぶかの審議となった。
原告側が主張したのは、哲くんのお父さんと加害少年。父親の証人申請は認められたが、加害少年に関しては、裁判長は「必要ないでしょう」と言った。
理由は、
1.少年事件で取り調べはさんざんやっている。
2.未成年かつ現在学生である本人(加害者)にとって、法廷で証言させるのは酷なこと。学生生活にも支障をきたす。
3.今さら法廷で当時のことを微に入り細に入り、ビデオで再現するようなことは、現実には無理であるし、しなければ被害を認定できないものでもない。死因がこの裁判の最大の焦点になるのだから、前回の医師の診断と証言で十分。損害賠償の算定には必要ない。

対して、原告側弁護士は、少年本人の証言の必要性を説いて粘った。
現時点では、加害少年の供述から、岡崎哲くんのほうが「けんかをしよう」と言って挑発し、けんかに加害者を引き入れたことになっている。責任の度合いを過失相殺されれば、損害賠償請求においても原告側に不利となる。少年の供述に対して反対尋問の機会がないまま、金額を認定されては困ると。
結局、少年を証人として呼ぶかどうかは、保留となった。いずれにとても、決定権は裁判所にある。

岡崎さんは現在、3つの裁判を同時並行しておこなっている。そのうちの第3次訴訟、牛久市と牛久市立第一中学校を相手どっての訴訟では、現場にいた少年たちと同時に、加害少年のーも証人申請したが、少年側の家族の拒否にあい、果たすことができなかった。
もし、この加害者とその両親を訴えている第1次訴訟で、加害少年を法廷に呼ぶことができなければ、遺族が加害者から直接、話を聴くことができる機会は閉ざされてしまうだろう。加害者に、遺族の思いを直接ぶつける機会をも奪われてしまう。

裁判官は何を考えているのだろう、と思う。
なぜ、遺族が裁判を起こさなければならなかったかについて、あまりに理解が低い。賠償金が欲しくて提訴したわけではない。そういう形でしか、民事裁判を起こすことができないから、損害賠償を求めている。
少年審判という密室のなかで行われた取り調べ。しかも、父親と実兄が現役の警察官という環境のなかで、明らかに歪められたと思われる事実認定。有力な証拠も証言も無視され、聞いたこともない病名を無理やり付けられて、ただ少年にとって有利なほうに勧められたと思われる少年審判の結果。とても、「取り調べをさんざんやった」とは思えない。普通の学生生活を営む加害少年に「酷」だというが、哲くんは、その学生生活も、未来も、家族も、友人も、一瞬にしてすべてを奪われたのだ。これ以上、「酷」なことがあるだろうか。そして遺族も、加害者とは比較にならないくらい多くのものを、かけがえのないものを失った。酷だから証言しなくてもいい、それではあまりにアンバランスではないだろうか。そして、息子の名誉回復のためにも、真実が知りたい。その切なる思いを裁判所は無視しようとするのだろうか。たとえ、どんなに辛いことであっても、子どもの死の瞬間のすべてを知りたいと思う、それが親というものではないだろうか。

事件後、一度も遺族宅を謝罪に訪れることもなく、手紙一本寄こさないまま、転居して行った加害者一家。同時並行して行われている3つの裁判に顔を出すこともない。代理人だけ立てて、まるで部外者のような顔して、裁判の成り行きにさえ関心を払わずに日常を過ごすことすら許される。裁判の経過はどれだけ少年に伝わっているのだろうか。遺族の思いは、怒りも、悲しみも、相手側には届かない。
ひと一人を殺しておいて少年院にさえ入ることはなかった。保護観察という、罰としての効力があるかないかもわからない処分。事実を話すことも、遺族に対して謝罪をすることも、求められないなかで、どんな更正があり得るのだろうか。

3つの裁判のうち、国と県に対する第2次訴訟が、この裁判のメインであると副島洋明弁護士は言う。
この事件のすべての発端は、警察の身内かばいの意識から始まった。加害少年が証拠をねつ造したわけではない。警察が少年のためではなく、自分たちの身内のなかから犯罪者を出してはならないという意識から、事実をねじ曲げた。

そして、最も困難なのが、この第2次訴訟。
日本は法治国家だと言われる。しかし、少年事件では特に、ろくに調べられることもなく、加害者の一方的な言い分のみが通って審判が下される。遺族は今まで、その審判結果の情報さえもらえない、完全にカヤの外に追い出されてきた。そして今もなお、当事者として、事実認定が間違っている、きちんと調べ直してほしいと言う権利さえない。警察や検察が故意に事実を曲げたり隠蔽したとしても、それを裁く権利が国民にはないという、過去の最高裁の判例。

警察官の不祥事が相次いでいる。社会的に影響の大きいものは、国民の目に見える範囲内では少しずつ是正されているかもしれない。しかし、個々のケースにおいては、依然、警察という国家権力の独壇場だ。わたしたちの税金を使って運用されている警察。その不正運用に対して何か言う権利を国民は持たない。これでは、、警察の組織ぐるみの犯罪がなくならないのは当たり前だろう。
こんな方手落ちのシステムのなかで、この国が法治国家などと、どうして言えるだろう?

10月8日は哲くんの3年目の命日。戒名は「修学哲心童子」。
生前、「俺は友だちを殴れない。殴ったら友だちでなくなるから。仲直りができなくなるから」と言って、殴られても、けっして殴り返すことがなかったという、その哲くんの心が、「ケンカをしないかと自分から誘った」という加害者側の一方的な言い分に踏みにじられたままでいる。そして今また、遺族の「そんなはずはない」「真実を語って!」という思いが、踏みにじられようとしている。
哲くんの思いを、遺族の思いを、どこにぶつければいいというのだろう。やりきれない。


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