わたしの雑記帳

2001/9/6 富山地裁は、岩脇寛子さん(中1・13)の遺族の訴えを棄却!


富山でいじめ自殺した岩脇寛子さんの裁判の地裁での判決が出た。全面棄却、なんということだろう!
裁判長は、担任の対応で、一時はいじめを自覚しない状況になるなど効果があった」として、いじめを防ぐための注意義務違反はなかった」と指摘。学校側がいじめによる自殺を予見するのは困難だったと断定。また、自殺後の調査・報告義務に関しても、「市が法的義務として調査義務を負っているとする根拠は見いだせず、事故報告書も作成して、それ相応の説明がされた」として、市側の対応に問題はなかったとした。

寛子さんの自殺後、学校を信じて報告をひたすら待ち続ける両親に学校は何の報告もしなかった。生徒に書かせた「作文」は議会やマスコミ等に一部公開されながら、遺族には見せずに焼却された。
仕方なく情報公開制度を使ってとった書類は黒塗りだらけ。その中でも、寛子さんが生前、担任教師に、証拠まで提示していじめを訴えていたことが判明。
しかし、担任は、生前はもちろん、寛子さんの死後ですら、そのことを両親に伝えなかった。
担任の指導は、「いじめられたらすぐ知らせる」ように寛子さんに言ったり、クラス全体に悪口を書いたメモのことを、遊びでやっても書かれた人が見たら心を痛めるということを話したり、いじめていた女子生徒に対して、「仲良くするよう」「いじめをやめるよう」に話したり、「一人ぼっちの本人のために仲良くしてくれるようお願いする」にとどまっていた。
そして、寛子さんの自殺以前も、以後も、同中では事件が相次いでいる。

多くのいじめで、担任が関与してからのほうが、むしろいじめはエスカレートしている。チクッたことへの報復。生ぬるい担任のやり方に、いじめる側はかえって、大人に見つかっても大したことはないと安心し、増長してしまう。もしくは、水面下深く、隠される。

一方で、いじめられている被害者は、学校のなかで一番、自分を守ってくれる可能性の高い教師に勇気を持って打ち明けたにもかかわらず、いじめは解決しない。むしろ酷くなることに、大人に頼んでもムダだと絶望してしまう。

このような、なんの役にも立たない、むしろ事態をより深刻にしてしまった教師の対応でさえ、何か一言でも言えば、いじめを防ぐための注意義務を果たしたことになるのだろうか。
それなら、現場の教師は毎日、お題目のように、「いじめはいけないよ」と生徒に向かって唱えていれば、免罪符になる。

信頼してわが子を預けていた学校で、子どもが死に追いやられたとしても、学校に調査・報告の義務がないとしたら、親は、わが子の死因をどうやって知ればいいのだろう。
目覚めている時間帯の大部分を学校で過ごす子どもたち。重大なことが学校で起きていても、親は知らされない。自立心の旺盛なこの時期に、学校での出来事を一々報告する子どもがどれくらいいるだろう。いじめている子どもも学校のなかにいるのだから、全てを把握しうるのは教師だけだというのに。

いい加減な事故報告書。しかも、被害者遺族に見せるためでも、加害者の保護者に見せるためでもなく、作られた報告書。子どもの情報が、職員室や教育委員会のなかでのみやりとりされる。自分の子どもの情報を親は得ることができないのに、見ず知らずの他人がそれを操作する絶対的な権限を持つ。
学校に決定的な過失があったとしても、一方的に隠し通せる仕組み。

子どもが死んだというのに、「それ相応の説明」とは、いったい何を指すのだろう。遺書にあった、いじめていた子どもたちの保護者にさえシラを切り通され、あいまいにされる責任。事件後も、何ひとつ改善しようとしない学校。
未来ある子どもが、自ら命を断たなければならなかったことの重みを誰も受け止めようとはしない。いったい、何人の子どもたちが死ねば、学校は、教育委員会は、司法は、目を覚ますのだろう。これだけ、子どもたちの屍を積み上げながら、まだ足りないというのだろうか。

今年の7月7日付けで出した「子どもたちは二度殺される」のなかで、いじめに関する訴訟が24件。そのなかで、勝訴はわずか3件。それも、いずれも不十分なものだった。やむおえずの和解は5件。控訴したかどうか分からないものを含めて敗訴が5件。今回、それにプラスされることになった。
これだけ子どもたちが苦しんで、誰にも救ってもらえずに死んでいったというのに、死後も何一つ報われることがない。

加害者たちは、見殺しにした教師たちは、いじめのこと、死んだ子のことなど忘れてノウノウと生活している。多くは、学校、親、子どもたちから謝罪の言葉すらない。わが子を殺された遺族の思いはどうなるのだろう。何よりも、死んでいった子どもたちの思いはどうなるのだろう。
子どもたちは、この社会に殺されている。死んでなお、大人たちの手で寄ってたかって、殺され続けている。子どもを殺された親は、泣き寝入りするしかないというのだろうか。

「いっそ、加害者たちを殺してやりたい」いじめられた本人や、家族の口から、何度この言葉を聞いただろう。そうでもしないとわからないのか。絶望的な気持ちになってくる。
こんな大人たちの国で、子どもたちが殺されるのは、当たり前かもしれない。次々と事件が起きるのは当たり前かもしれない。

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